米田満氏論文「アメリカン・フットボールの起源とその発展段階」

第2章  創生期のフットボール

1959/02/28

 1607年、初めてヴァージニア州ジェームスタウンに一団の移民が上陸してアメリカ植民生活の先鞭をつけた。そして自由の新天地、アメリカの開拓は以後数世代にわたって営々としてつづけられた。東から西へと新しい辺彊を求めての苦しい生活が久しくつづいたあと、1776年の独立宣言から1783年の合衆国成立、そして1861年から4年に及ぶ悲惨な南北戦争という数々の試練を経て、アメリカの背骨は次第に確固たるものとなっていった。この間、新世界の先駆者たちの努力は次第に実を結ぶようになり、一般に物質的な苦労は著しく軽減されて、18世紀末から国家意識と国民的自覚の高まりとともに智力万能主義の一時期が謳歌された。この間、体育面に関しては新しい共和国の市民としての健康と体力の発達に主眼が置かれたのみで、スポーツという段階になると、何ら一般的な支持も関心もなかった。しかし1840年代終りごろから色々なスポーツが多少興味をもってなされるようになり、とくにフットボールは野球とともに次第に人々の関心を惹き始めた。東部の大学における学内対抗競技が人気を集め、 1870年にかけて比較的緩慢ながら徐々なる発展をつづけ、1869年、最初の学校対抗フットボール、そして1873年、大学対抗ルールの制定へと歩を運ぶ。この間のフットボールはいずれもサッカーというべきものであった。


 1 植民時代のフットボール


 アメリカにおけるフットボールは初期の植民時代にさかのぼる。最初の移民は作物を作り、屋根を葺き、外敵に備えるなど、多忙な苦しい生活をつづけたが、漸くそうしたことにも馴れて多少の閑暇を見つけるようになると、何か気晴しになるものを求めたに違いない。そして、その一つとして母国でやっていたあの簡単なゲームを思いついたに違いないが、全く自然の成り行きと考えられる。このゲームはある種のボールさえあれば、他に何の用具も要らないし、また人数の制限もなくて移民の心を和らげるに適したものであった。
 アメリカにおける最も古い記録としては、1609年に植民たちが、ふくらました円い空気袋を蹴っていたという証拠がある。ニューイングランドや中部大西洋岸植民地では”市の立つ日”(market day)、”納屋の棟上げ式の日”(barn-raising)、”共同でトウモロコシの皮をむく集まり”(husking)のような共同生活、そして感謝祭の集まりの時などにフットボールを蹴る習慣があったようだ。このフットボールはチームの人数は不明だが、大ていは若者ばかりが参加し、ただ相手のゴールに向かってボールを蹴るというだけの最も粗野な姿のフットボールであり、チームプレーとか作戦などはめったに見られなかった。
 17世紀、18世紀にかけて様々な社会機構の発達に伴い、フットボールも次第にグループの競技会となり、互いの技能を競い合うようになってきたが、17世紀のアメリカを旅行した人が、「フットボールはインディアンのゲームである」と書いているところからみても、フットボールをインディアンに教えるほど、しばしば多くのゲームを行ったことは明らかである。しかしながらこの時期の競技会は学校生活にはほとんど何の影響も及ぼさず、本質的には一般民に関するものであった。


 2 肉体軽視の風潮


 19世紀以前の植民時代には若者が中学から大学に入ると、専ら研究と学識の生活に浸って慰安、娯楽などはほとんど与えられなかった。ウォーカー(Francis A. Walke r)が指摘しているように「初期のアメリカの大学においては身体的な腕前とか、そういった面の関心とかは全く軽蔑され、頭脳と筋肉とは反比例的に発達し、腕力は野蛮行為と同類だと思われていた」。こういう風潮はピュリタニズムによる精神第一主義、肉体軽視の思想をそのまま反映したものであり、また植民生活の厳しさから、遊びは怠惰を意味するとの根強い考え方にも影響されるところ大であった。当時の大学生の大部分が牧師になろうと志していたという事実は、疑いもなくこうした態度と密接な関係がある。
 しかし幾つかの大学で抑圧されがちではあっても、時にゲームの曙光がみられ、18 世紀に入るとハートウェル(Hartwell)が”ハーバード大学の昔の習慣”(the Anci ent of Harvard College)の第16章を引用した中に「ハーバードやエールの大学生は時折、公共地や道路でフットボールを蹴り、一、二年生の間に年一回のゲームが行われたが、そのゲームはサッカーよりは現在のアメリカン・フットボールに見られる激しい性質に似た面を多分に持っていた」とある。しかし、もとより明確な組織もルールもなく、ただ気球のようにふくれたボールを使ったゲームに過ぎなかった。
 イギリスのパブリック・スクールではすでに18世紀後半までに極めて粗暴なサッカー式のフットボールがかなり流行していた。アメリカの一部大学においても独立戦争後、この影響を受けて、一部の学生がボールをキックしていたものと考えられている。たとえばエール大学では、すでに1765年に条件つきで手を用いることを許された一種のフットボールが行われていたと伝えられている。1806年のエールの学生生活を描いた絵の中に、数人の学生が大学前の広場でボールをキックしている光景をとられたものがある。これはアメリカにおけるフットボールを描いた最初の絵と考えられている。当時のフットボールは一定のルールを持たず、ボールをキックする時以外には、手の使用が禁じられ、ボールを持って走ることは許されなかった。ボールは皮張りで、内部には動物の”ぼうこう”をふくらませたものか、”おがくず”が詰められていた。エール大学においてはフットボールが消極的黙認を受けていたものと思われる。


 3 大学初期のフットボール


 大学のフットボールに関して、初めて信ずべき資料を提出しているのは1820年のプリンストン大学である。その学生たちはボールオウン(ballown)と呼ぶフットボールに興味を持ったが、そのやり方は拳を使ってボールを叩いて前進させるものであり、のちにボールを蹴るようになった。1840年ごろになると、ゲームは少しばかり組織的になり、決まった競技会が行われ、互いに場所を交換するようになった。
 1827年、ハーバード大学の、一、二年生が学期初めの最初の月曜日にフットボールをするという習慣が始まった。この日はのちに”血の月曜日”(Bloody Monday)と呼ばれて有名になった。このプレーは実に乱暴極まるもので、互いにボールを蹴らずに身体を蹴り合うという騒ぎで、服はボロボロに破れ、負傷者が続出する始末であった。ために1860年、教授会はこのゲームの禁止令を出した。エール、アマースト、ブラウンらの諸大学でも同様、1840年ごろに学生が群がり暴れる粗野なフットボールが行われ、1858年、エール大学の騒ぎに対して市会が市の緑地使用を断ったため、このゲームはつづけられなくなった。
 このころのフットボールはルールもなく、一チームの人員もきまらず、全く出まかせの方法で行われていたに過ぎなかった。やりたいと思う者はだれでも豚の皮袋をふくらませたボールを動かし、単にキックするだけでなく、互いに押し合い、なぐり合い、喧嘩口論の目茶苦茶な騒動であった。1850年ごろから東部の各大学のクラス対抗フットボールが人気を集めるようになり、1855年に円いゴムボールが現れると、プレーヤーはボールを遠く、また正確にキックする技巧を覚え、またボールをドリブルしたり、相手の妨害を避けるため味方の者にうまくボールを回したりもするようになった。
 この時期の大学競技に対する教授会の態度は概ね寛大であり、学生の第一義ともいうべき学究生活を正しく維持しながら運動をするなら一向に差し支えないという考え方であった。


 4 中等学校におけるフットボール


 中等学校でのフットボールは大学におけるより以前に組織づけられていた。大学のゲームが行われたのは1869年以前にはないが、すでに1860年にボストン公地では中等学校同志が互いにゲームを行っている。これにはボストン・ラテン校、ロックスビリ校、ドーチェスタ校、ボストン・イングリッシュ校、ディックスウェル校などが参加した。1862年、ニューヨークのピーターポロからディックスウェル校に入学したミラーという17歳の少年がボストンでグループを集めてオネーダ・クラブを組織した。これはアメリカにおける最初の明確なフットボールの組織である。このクラブは1862年から1865年にかけて多くの参加者があったが、その間一度も負けることなく、しかもいずれもシャット・アウト勝ちをつづけた。1825年11月21日、このクラブがロンドン・フットボール連盟よりも早く作られたことを記念して、ボストン公地の入口で大理石で作った記念碑の除幕式が行われた。


 5 軍隊におけるフットボール


 1861年、ヴァージニア州ウィンチェスターのキャンプ・ジョンソンにあった第一メリーランド師団の兵隊が競技をしている木版が現存しているが、これはまさしくサッカーであり、ほとんど全部の兵士がこれに参加しているようである。その内容はいずれも不明であるが、大学対抗フットボールが始まる以前に軍隊においてゲームが行われていたという証拠になる。


 6 大学対抗フットボールの創始


 南北戦争の間は大学でのプレーも著しく減少していたが、1865年の停戦からまた回復し始めた。1867年プリンストン大学ではルールができて一チームの人数を25人と明確に定めクラス対抗フットボールの人気が次第に高まっていった。そのころラトガース大学でもプリンストン大学と全く同じような簡単なルールを使っていた。二つの大学は地域的にも近く、また同じゲームをやっているという事実があったため、必然的に両校の間に相対する機会が訪れた。かくしてアメリカン・フットボール界における画期的な拳として最初の大学対抗試合が到来したのである。
 その日は1869年11月6日、場所はニュージャージー州、ニューブランスウィックにあるラトガース大学の校庭であった。試合はプリンストン大学のガンメル主将がラトガース大学のレジット主将に挑戦して開かれることとなった。試合のルールはロンドン・フットボール協会の修正案を採用し、一チーム25名、ボールを手で持つことを禁じ、ラトガース側の要請によってフリー・キックを除いた。両ゴール・ポストの距離は25フィート、6ゴールを先取した方が勝となった。
 ラトガースの学校新聞”タルガム”の報道によると「プリンストン大学の25選手は多数の応援団とともに朝の汽車でニューブランスウィックに到着し、試合見物の列は大学通りから延々100ヤードもつづいた。両軍選手の体格を比べてみると、プリンストン大学の方が優勢で背も高く、筋骨隆々としているのに対し、ラトガース大学の方は背も低く軽量であった」。霜の下りたその日の午後、試合はプリンストン大学のキック・オフによって開始された。寒風もものかわ約200人の見物がつめかけ、ある者は自分の四輪馬車から、また中には木の塀の上に座を占める者もあった。試合の最中、2人の選手がボールを懸命に追ってそのもろい塀の所に走りこんできたので、塀はこわれ、上で見ていた人は地面に転げ落ちた。
 両チームはともにユニフォームを着けず、選手はそれぞれ上衣とチョッキをつけて試合に臨んだ。ラトガース大学の中の数人は真っ赤なターバンを巻き、また一人の選手は真っ赤なジャージを着ていた。
 試合は結局、6-4でラトガース大学が勝った。最初のゴールはラトガース大学が記録したが、これすなわち大学対抗の最初の得点であった。両チームは4-4のタイで試合を運び、そのあとラトガース大学が2点を入れて勝った。途中でラトガース大学の一選手が誤って味方のゴールに蹴りこみ、プリンストン大学に1点を献上したが、大学対抗の歴史で、ミス・キックをするという事態が早くもこの最初の試合で演ぜられたというのは面白い。この試合で大学のエールというものが初めて聞かれ、プリンストンの選手がしきりと元気な声を出していたが、逆にそのために消耗して敗れた。このエールはニューヨークの七連隊が1861年、南北戦争に動員された時に、その兵隊が案出したものに由来する。
 一週間後に両チームはプリンストンのカノヴァ・フィールドで二回目のゲームを行った。試合中にボールの空気が抜けると両軍選手は交互にふくらませて続行したという。この試合のプリンストン大学は選手と応援団が終始物凄い雄叫びをつづけてラトガース大学を威嚇し、結局8-0で前回の雪辱をとげた。この時の応援団のエールが、フットボールにおけるチアリング(cheering)の習慣の始まりであり、その後次第に現在の華麗な組織的応援(fancy yells)に進展していった。その一週間後に決勝戦が行われる予定であったが、騒動を予測した大学当局によって禁止された。
 このプリンストン-ラトガースの対抗戦にまつわる奇妙な事実が一つある。第一回戦の審判をしたニュージャージー州、フレミントンのレーンという人は両大学の決闘を見るためにだけ生存しつづけたような人であった。ラトガース大学は第一回戦に勝って以後、久しく敗戦を重ねてきたが、その後時代は移って1938年11月5日、69年の歳月を経て20-18で二度目の勝利を博することができた。この対抗戦をずっと見つづけて、この時レーンは齢87に達していたが、この試合を見てから数日を出でずして不帰の客となった。誠に学生時代、その眼でプリンストン大学を破ったのを見て以来、その後二度目のラトガース大学の勝利を見るためだけに生きていたような人であった。
 1867年12月、ニューヨークのマッティワンに住むアルデンがフットボールのカバーを作って特許を取った。空気袋はゴム製でキャンパスを使って伸ばすことができた。


 7 組織化への移行


 プリンストン、ラトガース両大学による最初の2ゲームの内容は詳しく四方に喧伝され、大西洋沿岸の大学の間で大いに興味をそそった。そしてそれまでの比較的緩慢な発展段階から脱して、1870年以後のフットボールは急速な発達を示し、組織化への方向へと進む傾向が増大した。1868年初頭にフットボール・クラブを構成したプリンストン大学では対ラトガース戦のあと、1871年10月にいよいよ組織的な協会を作ってルールを制定した。翌1872年10月にはエール大学も英国のラグビー校出身のシャーフを代表として協会を作った。同じ年にコロンビア大学、翌1873年にはコーネル大学が協会を作り、互いに対抗試合を行うようになった。その間の試合としてはプリンストン大学4-1ラトガース大学、エール大学3-0コロンビア大学、ラトガース大学6-3コロンビア大学などがあったが、いずれも明らかにサッカーであった。1872年のエール-コロンビア戦では4,000人の聴衆を集め、25セントの入場料を取っている。そのあと1877年ごろまでにニューヨーク市立大学、ニューヨーク大学、ペンシルヴァニア大学などにも拡がっていった。


 8 ボストン・ゲーム


 ハーバード大学でも1872年12月にクラス対抗のため協会を作ったが、その一年ほど前から、他の諸大学の行うサッカー形式のフットボールとは違うゲームをやっていた。サッカー形式のものが、手の使用を禁じたのに反し、ハーバード大学のやるボストン・ゲーム(Boston Game)では手を使ってボールを拾うことができ、ボールを持った者が追われた場合、そのまま持って走ることができた。このルールの違いがあるため、1874年には各大学から試合を拒否され、その結果としてカナダのマックギル大学と対戦する運命となった。そしてこの対戦がアメリカにおけるフットボールを一変せしめる歴史的な転換期となったのである。


 9 最初のルール起草


 1873年の秋、エール、コロンビア、プリンストン及びラトガースの四大学はニューヨークの五番街ホテルにそれぞれの代表を送り、アメリカにおける最初の大学対抗ルールを制定し、フットボール大学協会(Intercollegiate Association for Football )を組織した。そのルールはロンドン・フットボール協会のルールと、エール、プリンストン両大学の協会ルールをそれぞれ検討、修正したものであり、一チームの人数は25人から20人となった。ボストン・ゲームをやるハーバード大学も招待を受けていたが、ルールに差違があるためにこれを断り、翌年のマックギル大学との一戦を迎える運命となった。この時ハーバード大学が招待を受諾してサッカー形式のフットボールを採用していたなら、アメリカン・フットボールの前途はどうなっていたか判らない。 新ルールのもとにエール大学はハミルトン・パークで三試合を行うこととなり、緒戦のプリンストン大学には3-0で敗退、つぎのラトガース大学には3-0で勝ったが、コロンビア大学との試合は相手の棄権で行われなかった。そこでエール大学は英国からやってきたイートン・クラブと三度目のゲームを交え2-1で勝ったが、これがアメリカにおける最初の国際フットボール試合である。イートンクラブは一チーム11名だったのでエール大学もこれにならい、その時以後エール大学のフットボールはずっと 11人でやるようになった。このこともまた極めて重要であった。