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米田満氏論文「アメリカン・フットボールの起源とその発展段階」
第5章 飛躍的発展期に入る
1959/02/28
スクリメージの設定、ダウンと獲得ヤード制の採用という決定的な措置によって独特の境地に踏み入ったアメリカン・フットボールは、さらに諸々の社会的背景に恵まれて伸張一路をたどっていった。1885年にフットボールの粗暴さを抑圧しようという多少の動きがあったにもかかわらず、翌1886年以後の20年間は種々の曲節を織りこみつつ飛躍的な発展をみせてゲームの基礎が確固たるものとなった時代である。幾つかの限定的なルールの変更がゲームの粗さを助長することになり、それに対する抑制案が決められると、また違った面で執拗に勝利を追求するといった具合で、フットボールはまさに肉体闘争の極点を見せるようになっていった。そして1906年に至ってフットボールは全面廃止か、しからずんば危険防止のための恒久的改革を迫られ、新らしい歴史の転換期に立つこととなった。一方ゲームの激化、対抗意識の増大は教育面、アマ規定の面からみて数々の不正、悪徳をフットボール界にもたらし、世論の反響、教授会の統制が漸く緒についたが、これはのちに述べる。
1 急激な発展の要因
南北戦争の回復を契機として強力なアメリカの国家主義が発生し、1870年ごろから社会の近代化が促進されたためにスポーツの面でも急激な発展に至る道が開けた。その要因として考えられる第一のものは国民各層にわたっての余暇の増大である。1869年、大陸横断鉄道が完成したのを始め、交通、通信各方面での著るしい発達は勢い農業、工業の異常な発展を導き、植民時代の苦しい生活環境から比べると物質的な労苦は軽減され、各層での労働条件の改善と相まって余暇の増大をみることとなった。この余暇善用の一方面としてスポーツ、レクリエーションに対する関心が助長された。要因の第二は新聞のバック・アップである。それまで新聞に取り挙げられたスポーツに関する記事といえば専らプロ・スポーツが主であり、これが怠け者とか道徳の低い連中とスポーツを結びつける原因となり、競技活動に悪評を立てる傾向があらわれたものであった。そうした新聞紙上に近代的なスポーツ欄を設けた最初の人はハースト(W. R. Hearst)であり、彼は1895年にニューヨーク・ジャーナル(New York Journal)紙を買収し、他紙の2倍から4倍にまでスポ ーツ欄を拡張し、新聞に全段抜きの大見出しを用い、漫画や写真をのせ、有名な運動選手を代作記事の作製のために雇ったりした。こうした斬新なマス・コミュニケーションの在り方はスポーツ・ファン吸収に与って大きな力があった。第三にスポーツに要する設備、用具の設備拡充が挙げられる。この時代はアメリカの遊戯振興運動が次第に具体的な内容を伴うようになり、各地にプレイグラウンドが設置され、練習のための用具、設備も次第に充実していった。第四に社会の近代化に伴ない教育の分野は拡張され、それ以前の智的発達のみならず道徳教育の必要、体育に対する関心がいや増し、スポーツの存在価値を著るしく高めたということが考えられる。
2 タックルとブロッキングのルール制定
1888年3月3日の会議で”タックリング(tackling)は腰から下、膝のところまで”と規定するルールの制定があった。それは一見簡単そのもののような変更ではあるが、スクリメージの採用、ダウンの確立、援護走者の招介などとともに極めて重要な改革であった。低いタックルはボール保持者の防衛という観点からみた場合、攻撃の展開に勢い著るしい変化をもたらした。ラインは互いに接近し、バックスも現在のフォーメイションにかなり近いほど接近して動くようになり、ここに新らしい時代が開始された。
いま一つ、1888年に重大なルールの変更があり”ラインメンがブロッキングをする時に腕を拡げて行うこと”を禁じた。しかし正確にいえばこの改革案は無意味である。何となれば腕を拡げないブロッキング、いなブロッキングそのものすらルールで認めたものではなかったのである。しかるに事実上は1884年以来、援護走者がゲームの局面に入りこんでいて、ブロッキングの使用によって受動的にボール保持者の前進を助け、結構その目的を果たしていたのである。そしてこの”腕を拡げたブロッキングの禁止案”によってその動作は明確に合法的なものとなり、攻撃面にますます独自の発展をみせるようになった。腕を拡げることを禁じられたラインメンは両腕を低く構えるようになったため、ラインは互いに接近して動くようになり、低いタックルの採用と相呼応することとなった。
3 マス・プレーの復活
低いタックル及びブロッキングの合法化と接近戦法(close formation)の採用に伴ない、数年前のVトリックにさらに惰性をかけた物凄いマス・プレーの時代が始まり、荒っぽさと危険はさらに増大した。その先頭を切ったのはエール大学を出たスタッグが1890年に考案したエンズ・バック・フォーメイション(ends back formation)である。スタッグは最初これをスプリングフィールドYMCAカレッジで教え、以後はシカゴ大学で使用した。このエンズ・バックはラインの両端にいるエンドをバックフィールドにさがらせ、ライン各所を突破するランニング・プレーのさいに有効に働かせたものである。翌1891年にはスタッグはまたもやチームをがっちりした卵型に密集させ、その集団をぐるぐる回転させながら相手のラインを衛くマス・プレーを考案し、タートル・バック・システム(turtle back system)と呼ばれた。 エール大学と激しく対立していたハーバード大学は1892年にフライング・ウェッジ(flying wedge)という驚異的なマス・プレーを実行に移した。これはボールがプレーに移されるまでにウェッジをスタートさせると相手の勢力とぶつかるまでに相当の惰性をつけることができるというアイディアであった。その考案者はディランド(L. F. Deland)というチェスのうまい学生だが、彼自身フットボール経験が全く無いというのは面白い。ハーバード大学はこのアイディアに魅了され、1892年の夏、秘密裡にこの大戦略を練習し、ついに対エール戦後半に初めて使用した。そして翌年はこの猛威を認識したほとんどのチームがフライング・ウェッジを使ったため負傷者が続出し、大騒動のうちにシーズンを終了した。
1893年、ペンシルヴァニア大学のコーチ、ウッドラフ(G. Woodruff)はあらゆる援護走者にフライングの原理を取り入れ(flying interference)またプリンストン大学はスタッグのエンズ・バックをさらに改良して覇権を得るなど、集団と集団の闘争は全くフットボールを目茶苦茶な様相に導き一般の人気を失う原因ともなった。最も粗暴さをみせたペンシルヴァニア・プリンストン戦の結果は以後1925年まで両者の交戦を阻止したくらいであった。この年ついに大学フットボール協会は二分する事態に追いこまれた。
革命的なフライング・ウェッジというのはキック・オフ・プレーの時に用いられた。10人の選手が各5人ずつフィールド中央から30ヤード、40ヤード後方に位置し、ボールがプレーに移されるまでにスタートを起してフル・スピードでボールの示す一点に寄り集まっていくものであり、その集団がボールの地点に行きつくころには驚異的な威力を作っていた。当時のキック・オフには飛距離の規定がなく、センターがボールをチョンと蹴っただけで直ちに拾い上げて後方の味方にパスすることが許されていたところに、このフライング・ウェッジの可能性があった。またフライング・インタフェアランスの方はスクリメージにおいて攻撃力を増大することを狙ったものであり、早くスタートしたエンドとタックルがボールの出る瞬間には目指す相手に衝撃を加えるというものであり、両プレーとも守備側にとって極めて悲惨な結果を招かしめた。
その間の激烈なフットボール戦場の模様を再びハイズマンから引用してみよう--1人のボール保持者を前進させるために、他の者は先頭に立って相手を妨害するか、または後方から押して援助を与えた。守備側の者がボール保持者にタックルして倒そうとすれば攻撃側はボール保持者の腕、頭、毛、その他どこでも手に触れたところをつかんで反対に押し進めたものである。そのためボールを持って走るバックの中には旅行カバンの把手のようなものをジャケツの肩やズボンの腰の所に縫いつけたり、また金具で止めたりして仲間のつかみ易いようにしている者もあった。恐ろしい暴行のさなかでよくボール保持者の手足がバラバラにならなかったものである。
4 改革案とマス・プレー
1893年のシーズン終了後、ニューヨークの大学競技クラブは何らかの手を打つべき事態だと決意し、いわゆるビッグ・フォアのハーバード、エール、プリンストン、ペンシルヴァニアの諸大学に招請状を送り、新らしい規則委員会を作るよう要請した。4大学は1894年2月に集まり、協議の結果ルールを徹底的に修正することになった。修正案は第1にウェッジ、Vトリック、フライング・ウェッジなどを無効とし、さらに3人以上の選手がスクリメージから5ヤード以上後方でグループとなり、惰性をつけたマス・プレーを始めるのを禁じた。第2にボールを持たぬ相手に手を触れること禁じ、第3にキック・オフ・ボールは10ヤード以上飛ばねばならないと規定した。これらは攻守のバランスを適当に保つための当然の措置であった。その他、競技時間を前、後半35分ずつに短縮し、主審、副審のほかに線審をも加えて競技の正しい運行を図ろうとした。
恐ろしい数種のマス・プレーが禁じられて危険防止に役立つかと思われたが、フットボールの戦術家たちはまたまたルールに抵触せぬマス・プレーの新機軸を考案して、さらにフットボールの激化をうながし危険度を緩和することを拒んだ。その新戦法はガード・バック・フォーメイション(guard back formation)及びタックル・バック・フォーメイション(tackle back formation)である。
ガード・バックは1894年、ペンシルヴァニアのウッドラフ・コーチが案出したものである。ラインから3.5ヤードさがった両ガードはバックスを助けて恐ろしい破壊力を相手ライン各所に加えた。ガードの位置が丁度中央のライン突破にもよく、またオープン攻撃にも適切だったので従来のマス・プレーを上回る攻撃変化をみせ、フットボール界に物凄いセンセーションを巻き起した。ペンシルヴァニア大学はこのプレーを有効に使って1894年から1898年にかけて66戦65勝という快記録を樹立した。1894年、1895年と1896年の始めの8ゲームを入れて連続34勝し、そのあとラファエティ(Lafayette)大学に6-4で敗れたが、またそのシーズン6ゲームに勝ち、翌1897年は15ゲーム、1898年は10ゲームを勝ったのちハーバード大学に10-0で負けた。この5年間にペンシルヴァニア大学の挙げた総得点は1,965点であり、総失点はわずか126点というすばらしいものであった。
一方のタックル・バックはガード・バックに影響されたミネソタ大学のコーチ、ウィリアムス(Harry Williams)博士が1990年に発明し、エール大学のキャンプ・コーチが完成したものであり、タックルのうち1人をライン後方にさげたものであった。
5 協会の動揺と新勢力の台頭
マス・プレーの新機軸が横行してフットボール界には依然一触即発の状態がつづいた。各大学の関係は決して満足すべきものでなく、一般大衆もマス・プレーをすべてなくすることを望んだ。1895年の春、エール大学のキャンプはプリンストン大学のモファット(Moffat)と語らい、ペンシルヴァニア、ハーバードの2大学をも交えて、現行の極めて危険なスポーツを救うための新らしい努力を試みた。キャンプはマス・プレーを完全に一掃する案を示してプリンストン大学の賛成を得たが、他の2大学はそれに反対した。それはこの両大学がガード・バックなどの新機軸を使って確固たる地位を築き上げていたのが決定的な理由であったようである。こうしてビッグ・フォアは分裂した。そして互いに別箇のルールでそれぞれのフットボールを行ったのである。
1876年以来久しくフットボール界を牛耳ってきたビッグ・フォアの分裂は勢い他の地域に新勢力の台頭を促すこととなった。その最も顕著な勢力は中西部の大学連合であり、まず1895年、パデュー(Purdue)大学のスマート(Smart)総長の提案により、ミシガン、ウィスコンシン、ミネソタ、イリノイ、シカゴ、ノースウェスタン、パデューの7大学が集まってルールを協議し、1899年にアイオワとインディアナ、1912年にはオハイオ・ステートの各大学が加入して今日のビッグ・テン協議会を築き上げた。
その協議会が最初に採用した改革案の中には新人選手に関する規定、選手生活を3年間に制限する規定などがあり、この二つは殆ど普遍的なものとして全米の標準となった。こうした協議会の特徴として教授会の競技統制を挙げることができ、それもまた全国的な共感を得る気配をみせていた。しかしながら古いビッグ・フォア、すなわちハーバード、エール、プリンストン、ペンシルヴァニアの4大学では教授会の発言権が次第に力を加えていったとはいえ、依然としてそのフットボールを動かすものは卒業生であり学生自身であった。
新らしいビッグ・テンの台頭によってその牙城を侵触されつつあった古いビッグ・フォアは止むなく再びその和睦を図り、1896年夏に歩調をそろえて新らしい規約を作ることとした。その規約はマス・プレー禁止に関して結末をつけることを最大の眼目としたはずであったが、にも拘らず未だに決定的な措置は取られなかった。葬り去られたはずの、惰性を伴なうマス・プレー(mometum play)は微妙な字句の解釈からなお陰に陽にその機会を待っていた。そしてその現われがシフト・プレー(shift play)の流行を生み出す。その創案者はシカゴの天才スタッグであり、ウィリアムス博士のミネソタ・シフト、ペンシルヴァニアのコーチ、ハイズマンが作ったハイズマン・シフト、及びハーパー(J. Harper)のノートルダム・シフトなどがその代表であった。シフトの狙いはラインまたはバックフィールドの位置を変えるとともに、間髪を入れずにボールをプレーに移し、守備のバランスを崩そうとするところにあった。また一方の雄、プリンストン大学も回転縦隊戦法(revolving tandem)なるマス・プレーを編み出してフットボールの危険性は依然消え去らなかった。
6 フットボール存廃の関頭に立つ
フットボールの激化は一方においてその危険度を緩和する願いを種々のルール改正に託したものの、古いフットボールそのものが本質的にスリルを求め常軌を逸した肉体の闘争を渇望したため、1890年代の最盛期は深刻な自己矛盾に明け暮れする混頓たる一時期であったといえる。そして運命の年、1905年が到来した。
1905年のシカゴ・トリビューン(Chicago Tribune)紙の編集によるとこのシーズンは18人の死者と159人の重軽傷者が出るという大災厄の年であった。シーズン最中のペンシルヴァニア大学対スワースモア(Swarthmore)大学の一戦でスワーモアの大黒柱、マックスウェル(Maxwell)に加えられた野蛮極まる暴行が新聞に取り上げられたことから、時の大統領ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt)がついに態度を決めた。大統領はエール、ハーバード、プリンストン3大学の代表をホワイト、ハウスに招き、問題となるような総ゆる局面を改革してこのスポーツを安全にするよう警告し、その裏付けがみられぬ限り政令をもってフットボールを廃止する旨の最後通牒を発表した。
反響は大きかった。コロンビア大学は独断でゲームを禁じ、カリフォルニア、スタンフォード両大学がラグビーに転向するなど、それぞれの動きもみられたが、ルール委員会は危険なプレーをすべて排除することによってフットボールの存続を図ることに決めた。第一回の会議はニューヨーク大学のマックラケン(Henry M. McCracken)名誉総長の招集により1905年12月9日、東部の13大学を集めて行なわれ、12月28日の二回目の会議には全国から62の大学が参加し、新たに7人のルール委員会を指名して従来の委員との合併を提案した。古い委員の代表はキャンプ(Walter Camp)であり、新らしいグループの代表はウェスト・ポイントのピアース(Palmar E. Pierce)大尉であったが、2人の努力と賢明なる指導によって新旧二つのものは1906年1月12日、アメリカ大学対抗フットボール委員会として合併された。また大学競技、とくにフットボールの健全化を図るためにアメリカ大学対抗競技協会(Intercollegiate Athletic Association of the United State)を12月末に組織したが、これは5年後に現在の全米大学競技協会(National Collegiate Athletic Association 略称NCAA)と改称された。新らしい、そして全国的に統轄されたルール委員会はフットボール存続のための決定的な改革案を練り、古い”力こそ至上なれ”というフットボール観にピリオドを打つとともにモダーン・フットボールの門戸を開くこととなった。