米田満氏論文「アメリカン・フットボールの起源とその発展段階」

第1章  サッカー及びラグビー概観

1959/02/28

 アメリカン・フットボールは英国のサッカーおよびラグビーにその端緒を有する。現在の姿が内容、外観、すべてにおいて、全く独自のものであるという厳然たる事実があるにしても、アメリカン・フットボールがその本質においてキッキング・ゲーム(kicking game)たるの一面を持っているのはサッカー及びラグビーの流れを汲むためであろう。サッカーは古い歴史と伝統を持ち、ラグビーは1823年、突如革命的に創始されたといわれるスポーツである。


 1 サッカーの起源


 サッカーの始まった時期については、諸説まちまちで、権威をもっていうことはできない。古代研究家の中にはサッカーがエジプトの肥沃な土地を讃える儀式に端を発するというものもあるが、もとより莫然としたものである。支那でも「紀元前300年から500年にかけて、フットボールは極めて人気のある娯楽であり、円いフットボールは髪の毛をつめて作った」とジールズ(H.G.Giles)がフットボールのことに触れている。古代ギリシャのハーパストン(Harpaston)及びそのギリシャ人からローマ民族に伝えられて盛んになったハルパスツーム(Harpastum)がともにサッカーの起源だともいわれる。古代ローマのハルパスツームはジュリアス・シーザーの軍隊によって英国の国民に教えられ、次第に根強く拡がっていった。
 英国の伝説によれば各地で懺悔火曜日(Shrove Tuesday)にボールを蹴る競技が行われたという。チェスター(Chester)の町では紀元217年、彼らの祖先がローマの軍隊をチェスターから追いはらった偉大な日を記念するため数世紀にわたって競技会がつづけられた。12世紀末、ウィリアム・フィツステッフェン(Wiliam Fitzstephen)が出版した”ロンドンの描写”(Description of the City of London)という書物に「懺悔火曜日にボール・ゲームをする」という見出しがあり、このゲームの歴史的な最初の記述といわれる。後年、懺悔火曜日は英国におけるフットボールの祭典となった。この休日には身体を動かせる市民は誰もかれも午後のゲームに参加し、競技は市長のキック・オフによって開始された。
 当時のフットボールは近代サッカーに似た点は少なく、粗野単純でむしろラグビーに近いものであった。ゲームは数百人が参加して行われ、町と町、村と村が互いに挑戦して争った。ボールは蹴ってもよく、持って走ってもよく、実に乱暴極まるものであり、一方が他方の領域の一定のゴールにボールを蹴りこむまで、またはすっかり暗くなって中止を命ぜられるまでは何時間でもつづけられた。スコットランドの至る所でフットボールが行われ、聖燭祭(Candlemas Day)の休日には合同でゲームが行われた。
 このボール・ゲームは14世紀中葉には当時の軍事力の主力となっていた弓術の練習を妨げるとの理由で、1349年、エドワード三世がプレーを禁止する勅令を出し、この時初めて、フットボールという呼称を用いた。その後も15、16世紀を通じて数次の禁令が出されたのはその根強い人気を示す証拠であり、フットボールは数世紀の間、英国において花と咲いた。17世紀に入ってピュリタニズム(Puritanism)が力を占めるに至り、フットボールなどの球技の人気は一時衰えたが、19世紀の中葉、パブリック・スクールの校技として再生した時には、近代フットボールのもつキックとドリブルの基本的要素がかなり濃厚なものとなっていた。


 2 ラグビーの起源


 1823年、ラグビー・スクールにおけるフットボール・ゲームのさなかで突如起こった一事件が、今日のラグビーを生み出す直接の、そして決定的な契機となった。この革命的な事態は全く偶然に、瞬間の衝動によって生まれた。その状況はつぎのごとく記されている。
「1823年の秋の一日、100人以上の少年がゲームに夢中になっていた。双方の激しい攻防は互いに得点の機会なく、次第に時は過ぎていった。エリス(William Webb Ell is)という一人の少年が相手の蹴ったボールを取った時、丁度五時を告げる時計の最初の鐘が鳴った。この学校の規則ではすべてのゲームは五時の時計がすっかり打ち終ると終了することになっていた。そして当時の規則に従えばフットボールはすべて足のゲームであり、ボールを取った者は後方へさがってフリーキックを行うべきであった。しかるにエリス少年は鐘の音に狂わされたのか、ボールを取ると必死の霊感によって規則と慣習に反して、ボールをしっかり小脇にかかえたまま前方へ突進した。そして相手の防御を縫ってついにゴール・ラインを突破した時、丁度五時を打つ最後の鐘の音が天空に鳴りひびいた」
 ゲームのあらゆる妥当性をこわしてしまったこの行為をみて、友達連中は全くあきれてモノもいえなかった。その奇想天外のプレーに対しては、公正でない、適切でない、紳士的でないなど、数々の非難が浴びせられ、厳しい制裁の対象となった。当時の感じとしてはまさにその通りであった。しかしこの暴挙が、何ものをも貫かねばやまぬ若さの然らしめたものであり、彼の革命的プレーの中に考えるべき何らかの要素があるという感情が生まれていったのはそう遠いことではなかった。1846年、ラグビー校校庭の”朝の会”で36ヶ条から成るラグビー校フットボール規則が裁可されたのは、ボールを持って突進するプレーを合理、組織化しようとしたラグビー校関係者の美わしい信念に基を有するものであり、エリス少年の革命が近代フットボールへの一エポックを画する尊厳な行為であると認定されたのである。伝統に対する反逆者の治蹟と、エリスの名はラグビー校の一壁間に置かれた碑に燦然と刻示されている。
   This Stone
Commemorates the Exploit of
William Webb Ellis
Who with a fine disregard of the rules of
Football, as played in his time,
First took the ball in his arm and run with it,
Thus originating the distinctive feature of
The Rugby Game
A.D. 1823
   碑文
W.W.エリスの功を記念して。
 当時のフットボールの規則を見事に無視して
 初めてボールを握って走り、ついには
 ラグビーという独特の競技を
 創始するに至らしめた
 エリスを記念して
    1823年


 3 サッカーとラグビーの分離


 エリスの反逆に端を発し、やがて英国には二つのフットボール・ゲームが行われるようになった。それはいずれもそれぞれのルールのもとに、あるいは伝統のまにまに、または指示された慣習に従ってプレーされていた。1862年12月、ロンドンの茶寮” フリーメーソン”(Freemason's Tavern)にキッキング・ゲームをしているクラブが集まり、ロンドン・フットボール協会(London Football Association)が創立された。そしてルールが起草され、ボールを持って運ぶことを禁止した。この時以後、この種のゲームはアソシエーション・フットボール、またはサッカーとして知られるようになった。
 一方、ラグビー校規約と、競技方法を固執してやまなかったブラックヒース・クラブ(Blackheath Club)は協会のルール解釈に対して意見の相違を来たし、ついに協会から単独脱退したが、1871年1月には20チームの加盟を得て彼ら自身の連合を図り、ラグビー・フットボール・ユニオン(Rugby Football Union)と命名した。ここにサッカー、ラグビーの間に明確な一線が引かれ、完全な分離に至ったのである。1872 年、ラグビーの地においてオックスフォードとケンブリッジ両大学が最初のラグビー・ゲームを行った。
 以上が簡単なサッカー及びラグビーの背景である。このゲームはやがてアメリカに伝えられ、それからアメリカ式のフットボールが生まれた。1823年、エリスのなした功績がアメリカン・フットボールの発達に決定的なものを与えたわけである。ラグビー校で生を受けたこの競技は半世紀ののち、カナダの一学校がハーバード大学を訪れたために普ねくアメリカの大学に行きわたることとなった。そしてそのフットボールは初期のラグビー時代を遥かに凌駕する豪快な突進力をみせ、思考力、技巧、作戦などを大きな要素とする高度に発達したゲームにまで進展していった。そのスピード感において全くアメリカ的と思われるゲーム、ブロッキング、タックルなどの激しい体当たりの動作、それに攻撃、防御を作り出す頭の働きなど、このゲームは次々と輩出した頭脳的なコーチのゲームであったといえよう。アメリカン・フットボールこそは、アメリカの地における半世紀にわたる実験と進歩の過程を経て発展していったゲームということができる。