50年小史

2.鎧球倶楽部誕生と戦後の復活(昭和16年-23年)

1991/02/11

 戦争中にスタートした関学鎧球倶楽部は、わずか3年5シーズンの華やかならざる球史を編んで消滅した。
 そして戦雲晴れたあとの復活は戦前OBの限りない献身によって果たされた。素人ばかりの米式蹴球部は一歩一歩、土台を固めながら前進してゆき、復活3年、松本庄逸主将らの努力でようやく曙光が見えてくる。


学生会が解散し、報国団結成の日、鎧球倶楽部班として創部

 関西学院にアメリカンフットボール部が呱々の声をあげたのは、軍国調華やかなりし昭和16年2月11日である。
 この日、学生会は解散して報国団、運動部は鍛練部に改組され、その結成式が中央芝生で行われたが、わが部は鍛練部競技科の一つとして、鎧球倶楽 部班の名で発足した。班長・松沢兼人、監督兼主務・川井和男、幹事長・井床国夫のもとに、20人足らずのメンバーが名乗りを挙げたのである。
 創部の気運は 約半年前にさかのぼる。当時、関東には6大学、関西は関大、同大の二チームであった。15年の9月23日、関大-同大の最初の試合を興味深く見守る観客の中に、川井和男、井床国夫、布谷武治、石田喬らの関学生がいた。やがて彼らは「関学でもこのスポーツをやろう」と真剣にチーム作りのことを考え始める。


創部への初一念に燃え、防具、ユニフォームを調達した川井和男

 まず彼らは、鍛錬部長の那須先生に創部を申し出る。ところが、「アメリカでは毎年多くの死者が出ると聞いている。そんなスポーツなんかダメだ」と頭から反対された。しかし、初一念に燃える一同は丸刈りにして堅い決意を示し、ようやく許可を得ることができたのである。そして、いよいよ防具、ユニフォームの調達にかかったが、これらはすべて中心人物の1人であった川井和男の功績である。
 川井は人相は悪いが、至って気っぷのいい男。カッパとあだ名された学院のボス的存在であり、当時、協力推進班(現在の応援団にあたる)の幹部であった。彼は15年11月に上京し、関東連盟理事長・ポール・ラッシュ氏に関学のPRをするとともに、当時の会長・浅野良三氏から大枚2千円の寄付を頂戴した。そして早速、専門メーカーであった玉沢運動具店に防具、ユニフォーム22人分を発注して、意気揚々と帰ってきた。


仁川畔で初練習開始。対同大戦で、壮烈なファイトを展開

 明けて昭和16年1月8日付の大阪毎日新聞紙上に初めて「関学に鎧球倶楽部」という見出しで創部のことが報道された。1月から部員の募集が始まり、物好きが集まってきた。
 3月24日、関西鎧球連盟への加入が承認され、その日、チームの練習が開始された。場所は、仁川の川っぷちの5百坪ばかりの小石だらけの荒地。そのすぐ近くのどこかの寮の二階を借りて部室とし、珍妙なスタイルの一団が動き始めた。やがて関大の指導で攻守のシステムにも触れていく。
 最初のフォーメーションは関大式のシングルウィングであり、これは戦後にも引き継がれ、昭和26年まで存続した攻撃型である。
 初試合は5月25日、関学グラウンドでの対同大戦である。フットボールは相手をぶんなぐっても、蹴飛ばしてもいいもんだと、先輩の関大から仕込まれていたものだから、最初のうちは、無茶苦茶な乱戦で、あちこちで壮烈なファイトが展開され、結局、0-20の敗北に終わった。


戦時態勢のなかで、「敵性スポーツ」の批判にも屈せず

 その同大に秋のリーグ戦では、20-13とチームの初勝利を挙げ、夕闇せまる西宮原頭に若人は相擁して泣いた。やがて日本は太平洋戦争に突入し、国を挙げて戦争一色の時代となる。井床、川井ら第一期生は卒業繰り上げとなって、12月26日、上ヶ原をあとにした。
 昭和17年1月、初めて東西対抗に出場して慶応大と戦う。春は野橋、秋は竹中が主将として先頭に立ち、学院内外から向けられる”敵性スポーツ”としての批判の目にも屈せず、新しいもの作りの意欲は衰えなかった。
 しかし、18年に入ると戦争の前途に緊迫した様相が色濃くなっていく。文部省は学徒体育の重点種目を発表し、その発祥が英米にある鎧球など、球技の多くを除外した。この事態に鑑み、東西の連盟は協議して、戦局好転まで鎧球を一時休止し、海軍闘球に転換することを決めた。この競技はラグビー、アメリカンフットボール、ハンドボールなどをミックスしたもので、特効精神を具現した闘技であった。関西の三大学は6月に三重の津航空隊に赴き、関学も初めてこの競技を体験したのである。


解散の命令に屈し、わずか3年の球史に涙の終止符

 その後、事態はまたも急変 した。相次ぐ文部省の指針に基づいて、同年7月10日、学院で鍛錬部存廃が議され、拳闘、鎧球、野球などが廃止となる。7月15日、中谷主将は急遽部員総会を開いて倶楽部の解散を決め、創部以来3年、5シーズンの短く、しかも華やかならざる球史は、ここに涙の終止符を打つこととなった。
 それから流れた2年の星霜は、日本にとって果てしない暗黒の時代であった。わが”幼い鎧の申し子”も軍国日本と運命を共にして果てた。創部の立役者であった川井和男をはじめ、数名の”ますらお”は、あるいは大陸に、あるいは南海の涯てに、その英姿を没し去ったのである。


関西米式蹴球連盟を結成。苦しい事情のなかで、復活第1戦を実施

 昭和20年8月14日、軍国日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏をした。焦土の日本はこのあと長く、物心両面にわたって混沌とした時期を過ごす。しかし、民主日本はその底から立ち上がらねばならない。再建・復興の数々の息吹の中で、スポーツ復活の狼煙も各種目ごとに高々と掲げられ、消沈の日本人に生気を与えた。
 アメリカンフットボールの復活は、昭和20年10月ごろから、復員した各大学OBが熱意をもって取り組み始める。関学は年末近く、解散時の責任者であった中谷一明が帰ってから、がぜん活発となり、旧部員の消息をたずね、焼け残りの防具を集めた。
 翌21年2月初旬、芦屋の井床邸にOB10人と学生4人が集まり、チーム再建について語り合った。2月20日、関西米式蹴球連盟の結成を見、1ヶ月後の3月21日、関西OB-関西学生軍の復活第1戦が西宮球技場で華々しく開催された。 関学はこの時点で、十数人の部員がハミル館幼稚園の2階の一室を借り、学院中央芝生の正門寄り、一段低くなったところで練習を始めていた。しかし、何しろ素人ばかりである。現役を指導するため、OB団から井床監督、中谷コーチが指名された。
 春は関関同のOBを主力とする全3大学リーグ戦をいずれも西宮球技場で行い、その入場料は3円であった。 しかし、世情はまだまだ混迷のさなか。5月中旬には食糧メーデーが大衆を動員し、政府は食糧危機突破の声明を発するという時期であった。資材難はまた同じで、フットボールの防具は足らず、スパイクはなく、全員はだしか軍靴のスタイルで、腹を減らした新米選手たちの練習は思うに任せぬ面が多かった。


同志社との3連戦に敗れ、高商独立問題で、チーム崩壊の危機に陥る

 関学は春のリーダーであった深谷が退き、夏から松島が主将となった。ようやく各部員のポジションも立したチームは、秋に入って着実に歩を進めていく。10月12日、リーグ第1戦で、関学はそれまで関西で無敗の関大に初めて土をつけるという殊勲を果たす。関大にはチーム再建の悩みがあり、つづく同大戦にも敗退した。かくして、関学、同大がリーグの覇権を争うことになり、10月19日、2-2、11月17日に0-0とタイゲームを重ねた末、12月7日、2-7で関学は無念の敗北を喫する。若いチームにとって、3回戦ったすえの敗退は当然のショックであり、あとに大きな問題を残すことになった。
 それは高商チーム独立にからむ問題であった。当時、”オール・クヮンセイ”を構成する大学、予科、高商、理工科、文科のうち、チームの主力は質量ともに高商勢であり、とくに蛮カラな硬派タイプがそろっていた。彼らは一部大学選手の軟弱な気風にあきたらずとして、高商独立を主張したのである。しかし、関西学院の名を冠したチームは一つでなければならない。井床、布谷、中谷らOB、そして松島主将は説得に努めたが、結局、覆水盆に還らず。高商の10人ほどは22年、早々にチームを離れ、また問題の一方の発火点となった大学の数人も退部し、チームは崩壊寸前の気配さえあった。


第1回甲子園ボウル 開催。関学は11人でスタートし、新チームを再建

 昭和22年4月、総選挙で社会党が初めて勝ち、5月3日、新憲法が施行されるなど、時代は大きく変動しつつあった。そしてアメリカンフットボール界も当然のごとく新時代を迎える。東西の優勝校が対戦する「甲子園ボウル」の設定がその第一弾である。4月13日の第1回は慶応大と同大が相戦ったが、内容はまったく一方的、とくに慶応大のエース藤本の威容は関西のフットボール界を圧倒し、「これがフットボールだ」という強い印象を与えた。
 その年、関学は11人でスタートし、松島に代わって松本が主将に任じられた。部員集めが切実な課題となり、入部した者はすぐ試合に出された。夏休みに入ると全員、西宮球場でアイスキャンデーを売って合宿費を稼いだ。8月下旬の9日間、戦後初めての合宿は、兵庫県加古郡天満村の円光寺の本堂。練習場は折からの炎天つづきで水の干上がった大きな池底である。12人の者がここで新しい結びつきを強めた。グラウンドに立てば敗戦中尉殿の威厳を秘めて恐ろしく怖かった松本主将は、練習以外では率先、馬鹿話の先頭に立ち、部員一同から「松ちゃん、松ちゃん」と親しまれ、敬愛を一身に集めていた。家族主義的な新しいチームワークが確実に作られつつあった。
 迎えた秋のシーズン、京大が連盟に加盟し、その健闘で同大、関学、京大が三すくみ、関大が全勝して第2回甲子園ボウルに出場し、東の明大を6-0で破った。
 この年、昭和22年、学院に新制中学部が開設された。学校帰りの1年坊主の一団が中央芝生を通るたびにフットボール部とのつながりをふくらませていった。その密度は次第に強くなり、やがて彼らは中学部にチームを設立。そして、高校・大学の黄金時代を築き上げる中核として成長していく。人間関係の妙を思わざるを得ない。
 年明けて23年、1月25日に、明大-関学の第1回定期戦が甲子園で挙行された。若い関学は強豪相手に善戦し、6-13と< 1TD差で敗れたが、この敢闘は何かしら前途に一条の光明を見出した思いであった。


新しい俊英を加え、黄金時代につながる基礎固めの時期、来たる

 昭和23年春、中学タッチ・フットボールの俊英たちが、橘高マネージャーの人間味と誠実な勧誘策に導かれて、折から開校されたばかりの学院高等部の門をくぐった。2年目の松本主将を戴く関学は、若い活力に満ちた春季戦で宿敵関大を破った。三重県津海岸の夏合宿は雨が多く、海岸を走り、そこでタックル練習をし、さらにチームの結束を深めた。秋は関大とリーグの覇を競い、まず押し気味の試合を6-6で引き分けたあと、その再戦は関大の老巧と伝統のファイトに打ち負かされ、またも覇権は得られなかった。若さと甘さが同居する悲喜こもごもの1年。しかし、高等部の精鋭たちは大学リーグに出て何の違和感も覚えることはなかった。
 この年の忘れ得ぬ人。中学部の若いポーター先生は、3年後に帰米するまで、常にチームの最大の支持者であった。ミスター・ローは神戸の米軍軍属であり、何度か来校してコーチをしてくれたが、対同大戦の11月27日、大型ジープにアメリカ製防具を満載して来、寄贈してくれた。そのときは部員一同、思わず歓声を挙げ、狂喜したものであった。
 越えて昭和24年1月22日、名古屋の瑞穂に足を伸ばした関学は、明大と戦って19-6の完勝を博した。2期にわたる松本主将は学院ならではのチームワークを作り、新しい素材を善導して関学の基礎固めに大きな力を尽くした。


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