50年小史
3.栄光の第一期黄金時代(昭和24年-31年)
1991/02/11
第一期黄金時代は、大学、高等部、中学部とつらなる学院の10年一貫教育体制をスポーツの場で見事に結実させたものである。
この基盤の上に大学チームはチームワーク、素材、猛練習という3要素を集約して素晴らしい一時期を謳歌した。この間、勝利のみに走らず、学生スポーツの高いモラルを求めたのが最大の喜び。
秋季リーグで初の関西制覇。チーム・エールのもとに黄金時代を迎える
昭和24年秋のリーグで関学は初めて関西の制覇を得、勢いのままに甲子園ボウル快勝。この年から31年までの8年間に全国制覇6回(うち1回は引き分け)という黄金時代を迎える。それは異例の快挙といわれるかもしれない。戦後の復活から4シーズン目にして始められた関学の快進撃。その原因はどこにあるのだろう。
松本圧逸が2年間の主将時代に家族主義的な独自のチームカラーを作る。厳しくはあったが、上級生が下級生を殴るといった姿は皆無であった。橘高マネージャーが優秀な素材を集めてきた。加えて24年から意志の人、渡辺主将が猛練習を軌道に乗せ、それはグラウンドでの練習の前後に学院裏手の階段を昇降するなど、その質量は大幅にアップされ、「階段を忘れるな!」が年度のモットーとなった。チームワーク、素材、猛練習、この三つがAクラス・チーム関学をスタートさせた。
さらに、24年から中学部、高等部のチームが活躍を開始し、それは大学との結びつきを伴いながら進んでいく。25年、米田満主将が「関学フットボール・フレー・フレー・フレー」というチーム・エールを提唱し、中・高・大、3チームが揃ってこれを唱え始めた。「関学フットボール」という呼称は「みんな仲間だぞ」という一体感をあきらかに指向したものであった。米田は27年、学院に帰ってきて専任コーチとしての生活を始め、10年一貫体制をさらに維持、強化することに意を注ぐ。
28年からの甲子園ボウル4連覇は前記したように昭和22年、中学部第1期生のひとつのグループがずっと関学フットボールから離れることなく、この時期、大学のフレッシュな核として縦横に活躍したことを多く負う。もちろん、各年度における上級生のリードも適切なものであった。この一団は昭和31年、バランスの取れた史上最強のチームとして有終の美を飾った。
この8年間、もちろん順境ばかりではなく、多難な局面もあった。27年、4年生は来往主将ただ一人、つづいて多士済々の3年生集団との間に問題が生じた。このとき、中谷一明らOB幹部は断固来往を擁護し、学生スポーツの大道をたがえることを戒められた。かくして関学は確実に前進していく。
この時期はまた、フォーメーションの変更をはじめ、フットボールの戦術、戦略などで一段の進歩を見せた。創部以来のシングルウイング・バック攻法を持って、24、25年に甲子園2連覇を果たした関学は、この間にTへの転換を意図し、26年から実現する。守備策も前時代の7-1-2-1一辺倒から脱し、いろいろな変化に踏み入れる。
「Fight on Kwansei」の誕生。甲子園に乗り込み、初の全国制覇
24年の渡辺主将を支えたのは剛の人、鳥内オッチャンである。その竹を割ったような人間味は常にチームの和の中心であった。春から練習場は野球グラウンドに隣接した現在のところに移る。5月の関大戦は前半、0-13とリードされ、後半、14-13と逆転。勝つことの難しさを肝に銘じた一戦であった。夏は四国松山ので炎暑の猛練習。チームは一段とたくましくなり、大学22人に、初めて高等部7人が参加してその結びつきを深めた。
秋の難敵はチーム結成3年目、神田主将以下、闘志満々の京大であった。 試合は2度まで京大が先行し、逆境の中に関学は「オイ、階段、階段!」と互いに励ましながら漸く勝つことができた。このあと、思いもかけず、戦後初めての日米対抗に歩を進める。九州NO.1の福岡砲兵隊と平和台で対戦した関学は歴然たる体格差をものともせず果敢に戦い、スタンドからヤンヤの声援を集めた。「若くとも小さくとも俺たちはやれるんだ」という思いがチームの真の勇気をかき立てた。帰って関大を一蹴、初めて関西リーグを制した後、アメリカから素晴らしものが贈られてきた。ポーター先生の兄上夫妻の作詞作曲になるチームソング「Fight on Kwansei」である。これでさらに盛り上がりをみせて甲子園ボウルに乗り込んだ関学は鎧袖一触、古豪の慶応大を退け、初めて感激の全国制覇を果たした。
Tの早大に大敗を喫するが、甲子園で慶応を破り、2連覇を達成
25年の確たる目標はもちろん「全国2連覇」の旗印であり、シーズンは幾つかの新機軸を持ってスタートした。
例年より一ヶ月早い、3月1日の練習開始、「関学フットボール・フレー・フレー・フレー」という新しいエール、殺人体操といわれた松葉徳三郎氏によるトレーニングなどであり、学生会館の中に部室も得られた。
それが、春のオープン戦でTの早大に完膚なきまでに叩きのめされ早くも赤信号。それは若くして桃源の夢をむさぼった者への一大鉄槌であったのかもしれない。この時からシングル攻撃の向上とTに対する守備という、二つの明瞭な明かしが灯された。
戦後の窮乏は6月末に勃発した朝鮮戦争による特需景気に救われる。
夏は遠く山口に合宿、同地の日大OB松山一弥氏にお世話になった。大学27人、高等部9人のほか、新設、大阪警視庁からも6人が加入し、総勢40人を超える大所帯が懸命に努めた。合宿から帰ってきた9月3日、阪神地域にジェーン台風が見舞い、学院理工科の屋根が吹き飛ばされた。
秋は無難に関西2連覇を達成。関東リーグの動向を注目した2回の上京で、早立戦と、全勝対決の早慶戦を見た。その決戦は早大12-0の先行を追った慶応大が最後は13-12の逆転勝利を得る。この瞬間、春以来、ひたすらワセダ、ワセダと思いつめてきた甲子園ボウルの相手は一転、慶応大との再戦となった。そして関学はこれに勝ち、初めて全国2連覇を達成する。しかし、もし早大が出て来ていたら、果たして勝てたかどうか。神様は我らがひたむきな心根を嘉し給うたのであろう。
立教大の前に、2年連続の苦杯。苦難の年、続く
4年は来住主将一人、多士済々の3年群像を擁した26年は、春からT攻法の採用を決めた。来住の懸命のリードをめぐって3年集団との間に乱れが生じた。生一本の来住は部内の融和に直進したが、春の不振は地いまだ固まらざる悩みであった。夏の信州、別所合宿にも内紛の後遺症が散見された。それが、秋に入るとチームは見事に立ち直る。Tとシングルウイングを使って米軍と戦い、リーグ戦は快調に進められた。
甲子園ボウルの相手は初出場、上がり調子の立教大である。オークス・コーチ指導のT攻法は堅実そのもの、3Q初めに19-0とリードしたが、ここから関学が爆発的な反撃を見せる。2TDを返して、19-14と迫り、緊迫の終盤戦が続く。最後、二宮のダブル・リバース・パスを今井がキャッチしたとき、タイムアップの号砲鳴る。そして、今井はゴールに3ヤードを余して立教大のタックルに倒れた。1年間の精神面の浮動はついに、この3ヤードの壁を破ることができなかった。しかし、来住主将以下せめて力のありたけを出しつくした心意気はまさに壮とすべきであろう。
27年は尾田主将、藤井副将を陣頭に不動の陣容で王座奪回を目指した。また、米田満が児玉国之進先生の招きに応じて学院の教員となり、専任コーチとしての生活を始める。春はわずか3試合、夏の菅平合宿の後、試合数の過少を補うため、米軍と3回の対戦を組む。試合はいずれも善戦であったが、最後は身長、体重に圧倒されて敗退した。奈良キャンプの巨漢FBサミュエルは元プロの選手であったとか。単調ながら、その中央突破のパワーは凄まじいものがあった。
関西リーグは完全に水をあけて優勝、甲子園ではスプリットTとシングルウイングを併用して立教大に挑んだが、開始3プレーでTDされ、後終始ペースをとられて敗れた。立教Tは心技充実のチーム・プレー。関学は群雄割拠の大型チームがまとまりきれず、完敗を喫した。
大・高・中3チームそろって全国制覇の快挙を遂げる
そして、28年、新しい時代がやってきた。「2回も負けたんやからもうアクセクせんと、初めからやり直しや。新人もようけはいったことやし、みんな伸び伸びやろう。」大剛・太瀬主将はこう宣言してスタートした。高等部で2年連続、全国を制した若者が大量に加入。1月、初めての冬季練習、3月、初めての春合宿が持たれた。春は新人戦を組み、チームには新風が吹き、立教大、明大にも勝った。
夏は「山」のつく地を求めて「津山」の合宿。雨が降ったらパンツ一枚、ハダカのラグビーで暴れた。秋はリーグ初加盟の立命大を一蹴した後、神宮で極東空軍と戦う。これまで対した米軍とは比較にならぬ、子の本格チームを相手に闘志みなぎる試合を挑み、意気、大いに揚がった。
甲子園を前にして、OB会主催の激励会が開かれた。これまた初めての試みである。若い諸君はすき焼きをモリモリ食い、「今度こそ立教を―」と、まなじりを決した。大型ラインを誇る、その立教大は自信満々で西下して来た。しかし、その体重差をものともしない新人が大舞台で若さを存分に発揮し、攻めてはエース中川が3本のTDを決めて快勝。同じ日、高等部、中学部も勝って大・高・中・日本一という快挙は感激であった。
炎暑の和歌山合宿。小雨の甲子園で立教大を破る
29年はフットボール創設20周年を記念して、春には後楽園球場でナイターの東西対抗。秋には全関東・全関西の西宮ボウル(ナイター)が開幕した。関学はもはや関西の決定的な主力であり、関東を一手に引き受けてたじろくことはなっかた。 夏は炎暑の和歌山で悪戦苦闘した後、秋リーグを前にして初めて日大と対戦、そのひたむきなチームプレーには将来の強を予見させるものがあった。10月初め、米田豊主将が一時病に倒れて悲壮感がただよったが、大試合を前に復帰、チームは4度立教大と相対した。
世評は圧倒的に立教大優位、しかし関学勢はその一週間前に逝去された大石学長に捧げる喪章をつけ、小雨に濡れた甲子園で燃えた。前半の終わりごろ、清家が甲子園ボウル史上初のフィールドゴールを決める。後半、一度は逆転されたが、尻上がりに勝負の鬼と化した面々はただちに反発して、さらに2TDを取った。エース長手の確実なラン、それに立教Tに対する5-4守備策の成功も勝因。
試合終了40秒前、甲子園初出場の日大と劇的な引き分け
30年春、米田監督の提唱で西日本選手権大会がスタートした。関西5大学の試合数を増やすため、OBチームや地域のクラブ・チームの結成をうながし、学生も加えて全体のトーナメント大会が始められた。デンバーT採用の関学は全神戸(関学OB)をも破り、順当に優勝した。その後、関東勢との3戦があり、明大、法政大に勝ち、日大に敗れる。その特異なアンバランスTの馬力はすざまじいものであった。
その日大は初めて関東リーグの制覇を掌中にする。わが部室には直ちに「まず3連覇達成へ熱烈なる意欲を燃やせ!そして闘志、結束、思考、これのみ」という監督の「檄」が大書された。
しかし、甲子園でのこの強敵との再戦は常に先手先手を奪われ、内容的にはすべてに圧倒されていた。関学はかろうじて勝負師・大藤が55ヤード、65ヤードの2つのTDランを決めて食い下がるのみであった。最後、試合は余すところ40秒、関学陣18ヤードの追い詰められた地点で、スコアは日大の26に、関学は20、敗色ここにきわまった感があった。しかし待て、最後の一秒までわれわれは努めねばならない。そして、最後のプレーに‥‥‥。鈴木チューから西村ダイモンへ大きなパスが通って、ダイモンは走った。今に残る、甲子園ボウルの語り草は、この26-26の引き分け試合である。
「無敗」のチーム誕生。10年一貫体制の成果が実りはじめる
復活10年、若い関学はここまでのし上がってきた。31年春の遠征で明大、立教大、日大の3大学を倒してから甲子園ボウルのその日まで、敗れることを知らぬチームがここに生まれた。夏の福知山合宿では途中、12キロのマラソンを実施、トップで帰ってきた清家智光はゴールするや、バッタと倒れて意識を失った。一人ひとり、クセのある、気骨のある連中が木谷主将、吉村副将のリードで一つに固まった。
甲子園を前にした激励会の席で「50点取っても、60点取っても、もう一点を取るために最後の一秒まで戦い抜く」と語った西村一朗の言葉は、そこにいるすべての者の気持ちを代弁するものであった。その大舞台は33-0の快勝となる。中学部以来の長いチームワークが結実し、大・高・中、一貫体制が見事な成果を伴って動き出した最初の証左であった。
この基盤の上に大学チームはチームワーク、素材、猛練習という3要素を集約して素晴らしい一時期を謳歌した。この間、勝利のみに走らず、学生スポーツの高いモラルを求めたのが最大の喜び。
秋季リーグで初の関西制覇。チーム・エールのもとに黄金時代を迎える
昭和24年秋のリーグで関学は初めて関西の制覇を得、勢いのままに甲子園ボウル快勝。この年から31年までの8年間に全国制覇6回(うち1回は引き分け)という黄金時代を迎える。それは異例の快挙といわれるかもしれない。戦後の復活から4シーズン目にして始められた関学の快進撃。その原因はどこにあるのだろう。
松本圧逸が2年間の主将時代に家族主義的な独自のチームカラーを作る。厳しくはあったが、上級生が下級生を殴るといった姿は皆無であった。橘高マネージャーが優秀な素材を集めてきた。加えて24年から意志の人、渡辺主将が猛練習を軌道に乗せ、それはグラウンドでの練習の前後に学院裏手の階段を昇降するなど、その質量は大幅にアップされ、「階段を忘れるな!」が年度のモットーとなった。チームワーク、素材、猛練習、この三つがAクラス・チーム関学をスタートさせた。
さらに、24年から中学部、高等部のチームが活躍を開始し、それは大学との結びつきを伴いながら進んでいく。25年、米田満主将が「関学フットボール・フレー・フレー・フレー」というチーム・エールを提唱し、中・高・大、3チームが揃ってこれを唱え始めた。「関学フットボール」という呼称は「みんな仲間だぞ」という一体感をあきらかに指向したものであった。米田は27年、学院に帰ってきて専任コーチとしての生活を始め、10年一貫体制をさらに維持、強化することに意を注ぐ。
28年からの甲子園ボウル4連覇は前記したように昭和22年、中学部第1期生のひとつのグループがずっと関学フットボールから離れることなく、この時期、大学のフレッシュな核として縦横に活躍したことを多く負う。もちろん、各年度における上級生のリードも適切なものであった。この一団は昭和31年、バランスの取れた史上最強のチームとして有終の美を飾った。
この8年間、もちろん順境ばかりではなく、多難な局面もあった。27年、4年生は来往主将ただ一人、つづいて多士済々の3年生集団との間に問題が生じた。このとき、中谷一明らOB幹部は断固来往を擁護し、学生スポーツの大道をたがえることを戒められた。かくして関学は確実に前進していく。
この時期はまた、フォーメーションの変更をはじめ、フットボールの戦術、戦略などで一段の進歩を見せた。創部以来のシングルウイング・バック攻法を持って、24、25年に甲子園2連覇を果たした関学は、この間にTへの転換を意図し、26年から実現する。守備策も前時代の7-1-2-1一辺倒から脱し、いろいろな変化に踏み入れる。
「Fight on Kwansei」の誕生。甲子園に乗り込み、初の全国制覇
24年の渡辺主将を支えたのは剛の人、鳥内オッチャンである。その竹を割ったような人間味は常にチームの和の中心であった。春から練習場は野球グラウンドに隣接した現在のところに移る。5月の関大戦は前半、0-13とリードされ、後半、14-13と逆転。勝つことの難しさを肝に銘じた一戦であった。夏は四国松山ので炎暑の猛練習。チームは一段とたくましくなり、大学22人に、初めて高等部7人が参加してその結びつきを深めた。
秋の難敵はチーム結成3年目、神田主将以下、闘志満々の京大であった。 試合は2度まで京大が先行し、逆境の中に関学は「オイ、階段、階段!」と互いに励ましながら漸く勝つことができた。このあと、思いもかけず、戦後初めての日米対抗に歩を進める。九州NO.1の福岡砲兵隊と平和台で対戦した関学は歴然たる体格差をものともせず果敢に戦い、スタンドからヤンヤの声援を集めた。「若くとも小さくとも俺たちはやれるんだ」という思いがチームの真の勇気をかき立てた。帰って関大を一蹴、初めて関西リーグを制した後、アメリカから素晴らしものが贈られてきた。ポーター先生の兄上夫妻の作詞作曲になるチームソング「Fight on Kwansei」である。これでさらに盛り上がりをみせて甲子園ボウルに乗り込んだ関学は鎧袖一触、古豪の慶応大を退け、初めて感激の全国制覇を果たした。
Tの早大に大敗を喫するが、甲子園で慶応を破り、2連覇を達成
25年の確たる目標はもちろん「全国2連覇」の旗印であり、シーズンは幾つかの新機軸を持ってスタートした。
例年より一ヶ月早い、3月1日の練習開始、「関学フットボール・フレー・フレー・フレー」という新しいエール、殺人体操といわれた松葉徳三郎氏によるトレーニングなどであり、学生会館の中に部室も得られた。
それが、春のオープン戦でTの早大に完膚なきまでに叩きのめされ早くも赤信号。それは若くして桃源の夢をむさぼった者への一大鉄槌であったのかもしれない。この時からシングル攻撃の向上とTに対する守備という、二つの明瞭な明かしが灯された。
戦後の窮乏は6月末に勃発した朝鮮戦争による特需景気に救われる。
夏は遠く山口に合宿、同地の日大OB松山一弥氏にお世話になった。大学27人、高等部9人のほか、新設、大阪警視庁からも6人が加入し、総勢40人を超える大所帯が懸命に努めた。合宿から帰ってきた9月3日、阪神地域にジェーン台風が見舞い、学院理工科の屋根が吹き飛ばされた。
秋は無難に関西2連覇を達成。関東リーグの動向を注目した2回の上京で、早立戦と、全勝対決の早慶戦を見た。その決戦は早大12-0の先行を追った慶応大が最後は13-12の逆転勝利を得る。この瞬間、春以来、ひたすらワセダ、ワセダと思いつめてきた甲子園ボウルの相手は一転、慶応大との再戦となった。そして関学はこれに勝ち、初めて全国2連覇を達成する。しかし、もし早大が出て来ていたら、果たして勝てたかどうか。神様は我らがひたむきな心根を嘉し給うたのであろう。
立教大の前に、2年連続の苦杯。苦難の年、続く
4年は来住主将一人、多士済々の3年群像を擁した26年は、春からT攻法の採用を決めた。来住の懸命のリードをめぐって3年集団との間に乱れが生じた。生一本の来住は部内の融和に直進したが、春の不振は地いまだ固まらざる悩みであった。夏の信州、別所合宿にも内紛の後遺症が散見された。それが、秋に入るとチームは見事に立ち直る。Tとシングルウイングを使って米軍と戦い、リーグ戦は快調に進められた。
甲子園ボウルの相手は初出場、上がり調子の立教大である。オークス・コーチ指導のT攻法は堅実そのもの、3Q初めに19-0とリードしたが、ここから関学が爆発的な反撃を見せる。2TDを返して、19-14と迫り、緊迫の終盤戦が続く。最後、二宮のダブル・リバース・パスを今井がキャッチしたとき、タイムアップの号砲鳴る。そして、今井はゴールに3ヤードを余して立教大のタックルに倒れた。1年間の精神面の浮動はついに、この3ヤードの壁を破ることができなかった。しかし、来住主将以下せめて力のありたけを出しつくした心意気はまさに壮とすべきであろう。
27年は尾田主将、藤井副将を陣頭に不動の陣容で王座奪回を目指した。また、米田満が児玉国之進先生の招きに応じて学院の教員となり、専任コーチとしての生活を始める。春はわずか3試合、夏の菅平合宿の後、試合数の過少を補うため、米軍と3回の対戦を組む。試合はいずれも善戦であったが、最後は身長、体重に圧倒されて敗退した。奈良キャンプの巨漢FBサミュエルは元プロの選手であったとか。単調ながら、その中央突破のパワーは凄まじいものがあった。
関西リーグは完全に水をあけて優勝、甲子園ではスプリットTとシングルウイングを併用して立教大に挑んだが、開始3プレーでTDされ、後終始ペースをとられて敗れた。立教Tは心技充実のチーム・プレー。関学は群雄割拠の大型チームがまとまりきれず、完敗を喫した。
大・高・中3チームそろって全国制覇の快挙を遂げる
そして、28年、新しい時代がやってきた。「2回も負けたんやからもうアクセクせんと、初めからやり直しや。新人もようけはいったことやし、みんな伸び伸びやろう。」大剛・太瀬主将はこう宣言してスタートした。高等部で2年連続、全国を制した若者が大量に加入。1月、初めての冬季練習、3月、初めての春合宿が持たれた。春は新人戦を組み、チームには新風が吹き、立教大、明大にも勝った。
夏は「山」のつく地を求めて「津山」の合宿。雨が降ったらパンツ一枚、ハダカのラグビーで暴れた。秋はリーグ初加盟の立命大を一蹴した後、神宮で極東空軍と戦う。これまで対した米軍とは比較にならぬ、子の本格チームを相手に闘志みなぎる試合を挑み、意気、大いに揚がった。
甲子園を前にして、OB会主催の激励会が開かれた。これまた初めての試みである。若い諸君はすき焼きをモリモリ食い、「今度こそ立教を―」と、まなじりを決した。大型ラインを誇る、その立教大は自信満々で西下して来た。しかし、その体重差をものともしない新人が大舞台で若さを存分に発揮し、攻めてはエース中川が3本のTDを決めて快勝。同じ日、高等部、中学部も勝って大・高・中・日本一という快挙は感激であった。
炎暑の和歌山合宿。小雨の甲子園で立教大を破る
29年はフットボール創設20周年を記念して、春には後楽園球場でナイターの東西対抗。秋には全関東・全関西の西宮ボウル(ナイター)が開幕した。関学はもはや関西の決定的な主力であり、関東を一手に引き受けてたじろくことはなっかた。 夏は炎暑の和歌山で悪戦苦闘した後、秋リーグを前にして初めて日大と対戦、そのひたむきなチームプレーには将来の強を予見させるものがあった。10月初め、米田豊主将が一時病に倒れて悲壮感がただよったが、大試合を前に復帰、チームは4度立教大と相対した。
世評は圧倒的に立教大優位、しかし関学勢はその一週間前に逝去された大石学長に捧げる喪章をつけ、小雨に濡れた甲子園で燃えた。前半の終わりごろ、清家が甲子園ボウル史上初のフィールドゴールを決める。後半、一度は逆転されたが、尻上がりに勝負の鬼と化した面々はただちに反発して、さらに2TDを取った。エース長手の確実なラン、それに立教Tに対する5-4守備策の成功も勝因。
試合終了40秒前、甲子園初出場の日大と劇的な引き分け
30年春、米田監督の提唱で西日本選手権大会がスタートした。関西5大学の試合数を増やすため、OBチームや地域のクラブ・チームの結成をうながし、学生も加えて全体のトーナメント大会が始められた。デンバーT採用の関学は全神戸(関学OB)をも破り、順当に優勝した。その後、関東勢との3戦があり、明大、法政大に勝ち、日大に敗れる。その特異なアンバランスTの馬力はすざまじいものであった。
その日大は初めて関東リーグの制覇を掌中にする。わが部室には直ちに「まず3連覇達成へ熱烈なる意欲を燃やせ!そして闘志、結束、思考、これのみ」という監督の「檄」が大書された。
しかし、甲子園でのこの強敵との再戦は常に先手先手を奪われ、内容的にはすべてに圧倒されていた。関学はかろうじて勝負師・大藤が55ヤード、65ヤードの2つのTDランを決めて食い下がるのみであった。最後、試合は余すところ40秒、関学陣18ヤードの追い詰められた地点で、スコアは日大の26に、関学は20、敗色ここにきわまった感があった。しかし待て、最後の一秒までわれわれは努めねばならない。そして、最後のプレーに‥‥‥。鈴木チューから西村ダイモンへ大きなパスが通って、ダイモンは走った。今に残る、甲子園ボウルの語り草は、この26-26の引き分け試合である。
「無敗」のチーム誕生。10年一貫体制の成果が実りはじめる
復活10年、若い関学はここまでのし上がってきた。31年春の遠征で明大、立教大、日大の3大学を倒してから甲子園ボウルのその日まで、敗れることを知らぬチームがここに生まれた。夏の福知山合宿では途中、12キロのマラソンを実施、トップで帰ってきた清家智光はゴールするや、バッタと倒れて意識を失った。一人ひとり、クセのある、気骨のある連中が木谷主将、吉村副将のリードで一つに固まった。
甲子園を前にした激励会の席で「50点取っても、60点取っても、もう一点を取るために最後の一秒まで戦い抜く」と語った西村一朗の言葉は、そこにいるすべての者の気持ちを代弁するものであった。その大舞台は33-0の快勝となる。中学部以来の長いチームワークが結実し、大・高・中、一貫体制が見事な成果を伴って動き出した最初の証左であった。
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