50年小史
4.忍従と雌伏の長い歳月(昭和32年-40年)
1991/02/11
関西を文句なく勝ち進んでいても甲子園には勝てない。一体どうなっているのだ。何故か不運に見舞われて紙一重の敗北を喫したことも再三であった。OB、同窓、ファンを切歯扼腕させたこの長い雌伏の時代。それも天の命であったのだろうか。それでもチームは確実に関西学院の支持を得ながら進んでいった。
創部20周年を迎えつつ、大・高・中10年一貫体制の、その結びつきに腐心
昭和32年から40年までの9年間は前時代に引き続き、関西では完全に一頭地を抜く存在となり、毎年の目標は12月の甲子園ボウル一本に絞られていた。しかし、残念ながらその大試合に勝てないこの時期は忍従と雌伏の長い歳月であった。 それでも「関学フットボール」はまだ、その体制固めに懸命に取り組んでいた。36年、創部20周年を記念して機関紙“FIGHT ON”を発行し、それは多少の曲折はあったものの、今日まで継続されている。OB会の整備、父兄会、後援会なども緒につき、38年、“KG Football Recreation Day”という、ファミリーを総動員した企画も盛大に遂行された。
さて、当時のフットボール界はまだまだマイナースポーツの域を脱し切れず、関西の大学は31年に甲南大が加盟してようやく6校。高校、中学に至ってはほんの一握りの競技者であった。従って関学の部員数も30数人から40人を少し上回るくらいの形勢。大・高・中三軍の監督を兼ねた米田は「中学生にはフットボールを好きにならせる。高等部は基本に徹する。大学には自覚を求める」ことを大方針にしながら、三者の結びつきに腐心していた。
大学、高等部が合同練習をする、合同合宿をするケースも再三あり、10年選手が次つぎに生まれていった。それはチーム作りに好適の環境を与えられたかに見えるが、しかし、同じ穴のムジナが適当なところで妥協し、厳しさに欠ける懸念も随所に見られた。
また当時の思想として、自由な交代制が可能であることを承知していながら、どの学校もレギュラーが攻守の両局面を担当する傾向があり、交代はわずかの部分に限られた。従って、中心選手の故障が勝敗の決定的な要素となり、そのために四苦八苦することが多かった。
春の東西交流戦で、関東の厚い壁を思い知らされる
春は関西寮の合宿に始まり、昭和39年、新グラウンドにスポーツセンターができるとそこに移った。34年、灯台の10選手が初参加、26年にもやってきた。昭和33年、米田監督が内地留学で1年間東大に行き、その時フットボール部創設に深く関与したつながりによるものであった。
試合は西日本大会と東西交流戦である。この期間、西日本の大半を制したのは当然のことであったが、34年、全神戸(関学OB)と0-0の優勝預かり、35年はまた全神戸に14-18で敗れた。毎年春はメンバー編成に苦しんで、力不足の危なっかしさがあった。
それでも明関定期戦を始めとして、春は東西交流が貴重な修練の場であった。明大とは9戦して7勝2敗(33年・36年)36年、創部20周年記念として西宮で戦った時、大黒柱のQB勝田が右足骨折という重傷を負ったのは大事件であり、試合もタイムアップ最後のプレーで逆転負けを喫する無念さであった。慶応大とは4戦3勝1分、立教大とは6戦2勝3敗1分、そして日大とは7戦1分6敗という歴然たる懸隔であった。関東、関西のレベルの差、フットボールの厳しさの違いを何回も何回も思い知らされるばかりであった。
福知山、岐阜、山陰‥‥‥。合宿で重ねられた楽しい思い出
夏は昭和31年から35年まで、また3年おいた39年に福知山で合宿を行い、そこの野球場と自衛隊グラウンドを使って懸命にチーム作りに努めた。御霊会館の大広間、「はとや」のおばちゃん、前の広場で見られる消防訓練、そして福知山音頭に浮かれる盆踊り。合宿最後の夜はジュースとクッキーでそれぞれの演芸を楽しみ、合宿ソングを繰り返し、そして米ヤンの「ダンチョネ」でお開きとなった。昭和36年は岐阜の金華山頂まで駆け上がり、37年、山陰倉吉で10数人の者が食中毒にかかり、ラジオ、テレビで報道されて大騒ぎとなった。38年の作州久世の思い出も深い。
甲子園ボウル8連敗。悔やまれる4回の逆転・1点差負け
そして、いよいよ秋を迎える。この時期、9年間のリーグ45試合は総得点3024、総失点48であった。関学はあくまで甲子園ボウルに焦点を絞りながら関西の一戦一線を進めていった。
その甲子園ボウルに関学は連続して8回の敗戦を甘受する。うち7回は日大であり、1回は立教大である。日大には4回の逆転負け、しかも、1TD差、あるいは1点差の敗北がこれまた4回。32年(6-14)、33年(12-13)、36年(6-14)、37年(24-28)という結果であった。
昭和32年は9月初めにアンバランス・スプリットTの採用が検討され、10月下旬からその練習にとりかかっていた。甲子園で日大の守備は混乱し、関学のランは確実に前進していた。しかし肝心なときに2回のオーバータイム(反則)が出て、あたらTDをフイにし、自らの勝利のペースを停滞させた。
昭和33年はシングルとTの併用で2TDを先行したが、後半にパント・リターンで日大織部に80ヤードを走られ、12-13と逆転された。しかし、タイムアップ3分前に3兄弟の末弟、米田正勝から中西へのパスがゴールを割り、「われ勝てり」と陣営は湧いた。と、そのとき、無情の「Holding!」が宣告される。主将・杉浦剛の反則。にがい、にがい1点差の敗北。
昭和36年は春に負傷した勝田が足を引きずりながら健闘した。第2Qに日大のパスをインターセプトして50ヤードほども返したが、TDまでは走りきれなかった。痛々しいこのプレーがいまだに瞼に焼きついている。第4Q初めに山本のストレートで6-6としたが、終了5分前に突き放された。この試合、互角以上にペースをつかんでいただけに、大黒柱・勝田健在なりせばとつくづく悔やまれた。
リーグの安穏に打ち負かされて、大海の深さを知らず
1、2年主体の若いチームとなった昭和37年、新人梅田がただ一人でQBの重任を守りきった。春は明大、立教大、慶応大を破ったが、目指す日大に対してまだまだ大差のあることを西宮ボウルの対戦から示されていた。
8月には武田建ちゃんが長い留学から帰り、早速コーチとして関与する。シングルTで戦った甲子園は二転三転したが、関学はパスを有効に生かし、3Qを終わって24-12のリードである。しかし、試合内容は圧倒的に日大優位、4Qは阿部のラン一辺倒でひたひたと押してくる。関学はまたもラスト4分の重圧をモロに受け、精も魂も尽き果てた思いで頭を垂れた。
以上、接戦敗退のその4回、もしあの反則がなければ、あるいは勝田が‥‥‥と、また繰り言がしきりと出てきそうである。しかし、個々の心・技・体をチームワークによってまとめ上げ、戦術戦略を駆使して勝負する甲子園ボウルを考えた場合、その大舞台の緊張に耐え得なかった関学は、「関西のお山の大将、リーグの安穏に打ち負かされて、大海の深さを知ることができなかった」というべきであったろう。
篠竹・日大の幕開け。「残心」の合言葉むなしく逆境の底力に屈する
日大は昭和31年に卒業した篠竹幹夫氏が直ちに母校の教員となってチームにタッチし、34年から監督として「日大王国」作りに力を尽くす。その独自の精神教育と徹底した基礎訓練はこの時期の関学との競り合いを制しながら、日大流の勝負に対する執着力を確固たるものとしていったということができよう。
その日大が強力ラインと吉岡、織部の両HBをようした34年は一枚も二枚も役者が上であり、梶主将、平野副将以下キャリア十分のメンバーをそろえた関学も歯が立たなかった。
昭和35年は春から「残心」を合言葉に懸命に努めた。「残心」は弓道の用語。これをフットボールの場に置き換え、一挙手一投足、最後まで頑張りぬくための指標とした。沢田主将のリードで、充実した一年であった。リーグを終わり、最後の決戦は甲子園球場改修のため、初めて西宮球場で挙行され、相手も6年ぶりに日大を降ろした立教大の登場となる。その大型ライン、エース石田のランなど、彼らのほうが激しい「残心」であり、1年はまたも終わった。
昭和38年はグラウンドに自動車のタイヤが登場し、伊藤主将以下、きついタイヤ引きの明け暮れから基礎体力の養成が図られた。そして、最後の甲子園は前半14-6で日大のリード。後半、関学はランを主にして確実にヤードを進め4Q8分、大滝のオープンが決まって18-14と逆転する。しかし、ここでフワフワと浮き足立ったのか、その後、大きなパスを通され、こちらのパスをインターセプトされて、アッというまに2TDを取られ、日大30-18のタイムアップとなる。逆境に強い日大の底力であろうか。
「七転八起」を掲げた昭和39年は春の交流戦で明・立・慶を破り、力はついていた。折りしも日本のフットボール創始30周年を期して、初めて全日本学生選抜軍をハワイに送ることが決まり、日大・関学から12人づつ、それに篠竹・米田の両コーチなどが12月初め壮途についた。記念すべきハワイでの2戦は1勝(28-10/クラブチームNO.1のフォーティーナイナーズ)1敗(0-40/ハワイ大学)であった。
甲子園ボウル9年振り引き分け優勝で、米田時代終わる
昭和40年はハワイの著名なフットボール・コーチ、久保田秋夫先生との出会いがある。夏までの1年間、特別研究生として関学に来られた先生は帰国寸前の9日間、スポーツセンターでの夏合宿に参加され、「モラルとタイミング」という要諦を強調された。
甲子園は春に引き分けた立教大との再戦。関学は丸上、逸見、新井ら力のある選手がQB梅田のリードで優勢に試合を進めていったが、最後にミスが出て追いつかれる。そして、この無念残念の王座預かりを引き際にして米田監督が正式に引退を表明、関学フットボールの前半期を担当した“米式フットボール”の時代を終えた。
創部20周年を迎えつつ、大・高・中10年一貫体制の、その結びつきに腐心
昭和32年から40年までの9年間は前時代に引き続き、関西では完全に一頭地を抜く存在となり、毎年の目標は12月の甲子園ボウル一本に絞られていた。しかし、残念ながらその大試合に勝てないこの時期は忍従と雌伏の長い歳月であった。 それでも「関学フットボール」はまだ、その体制固めに懸命に取り組んでいた。36年、創部20周年を記念して機関紙“FIGHT ON”を発行し、それは多少の曲折はあったものの、今日まで継続されている。OB会の整備、父兄会、後援会なども緒につき、38年、“KG Football Recreation Day”という、ファミリーを総動員した企画も盛大に遂行された。
さて、当時のフットボール界はまだまだマイナースポーツの域を脱し切れず、関西の大学は31年に甲南大が加盟してようやく6校。高校、中学に至ってはほんの一握りの競技者であった。従って関学の部員数も30数人から40人を少し上回るくらいの形勢。大・高・中三軍の監督を兼ねた米田は「中学生にはフットボールを好きにならせる。高等部は基本に徹する。大学には自覚を求める」ことを大方針にしながら、三者の結びつきに腐心していた。
大学、高等部が合同練習をする、合同合宿をするケースも再三あり、10年選手が次つぎに生まれていった。それはチーム作りに好適の環境を与えられたかに見えるが、しかし、同じ穴のムジナが適当なところで妥協し、厳しさに欠ける懸念も随所に見られた。
また当時の思想として、自由な交代制が可能であることを承知していながら、どの学校もレギュラーが攻守の両局面を担当する傾向があり、交代はわずかの部分に限られた。従って、中心選手の故障が勝敗の決定的な要素となり、そのために四苦八苦することが多かった。
春の東西交流戦で、関東の厚い壁を思い知らされる
春は関西寮の合宿に始まり、昭和39年、新グラウンドにスポーツセンターができるとそこに移った。34年、灯台の10選手が初参加、26年にもやってきた。昭和33年、米田監督が内地留学で1年間東大に行き、その時フットボール部創設に深く関与したつながりによるものであった。
試合は西日本大会と東西交流戦である。この期間、西日本の大半を制したのは当然のことであったが、34年、全神戸(関学OB)と0-0の優勝預かり、35年はまた全神戸に14-18で敗れた。毎年春はメンバー編成に苦しんで、力不足の危なっかしさがあった。
それでも明関定期戦を始めとして、春は東西交流が貴重な修練の場であった。明大とは9戦して7勝2敗(33年・36年)36年、創部20周年記念として西宮で戦った時、大黒柱のQB勝田が右足骨折という重傷を負ったのは大事件であり、試合もタイムアップ最後のプレーで逆転負けを喫する無念さであった。慶応大とは4戦3勝1分、立教大とは6戦2勝3敗1分、そして日大とは7戦1分6敗という歴然たる懸隔であった。関東、関西のレベルの差、フットボールの厳しさの違いを何回も何回も思い知らされるばかりであった。
福知山、岐阜、山陰‥‥‥。合宿で重ねられた楽しい思い出
夏は昭和31年から35年まで、また3年おいた39年に福知山で合宿を行い、そこの野球場と自衛隊グラウンドを使って懸命にチーム作りに努めた。御霊会館の大広間、「はとや」のおばちゃん、前の広場で見られる消防訓練、そして福知山音頭に浮かれる盆踊り。合宿最後の夜はジュースとクッキーでそれぞれの演芸を楽しみ、合宿ソングを繰り返し、そして米ヤンの「ダンチョネ」でお開きとなった。昭和36年は岐阜の金華山頂まで駆け上がり、37年、山陰倉吉で10数人の者が食中毒にかかり、ラジオ、テレビで報道されて大騒ぎとなった。38年の作州久世の思い出も深い。
甲子園ボウル8連敗。悔やまれる4回の逆転・1点差負け
そして、いよいよ秋を迎える。この時期、9年間のリーグ45試合は総得点3024、総失点48であった。関学はあくまで甲子園ボウルに焦点を絞りながら関西の一戦一線を進めていった。
その甲子園ボウルに関学は連続して8回の敗戦を甘受する。うち7回は日大であり、1回は立教大である。日大には4回の逆転負け、しかも、1TD差、あるいは1点差の敗北がこれまた4回。32年(6-14)、33年(12-13)、36年(6-14)、37年(24-28)という結果であった。
昭和32年は9月初めにアンバランス・スプリットTの採用が検討され、10月下旬からその練習にとりかかっていた。甲子園で日大の守備は混乱し、関学のランは確実に前進していた。しかし肝心なときに2回のオーバータイム(反則)が出て、あたらTDをフイにし、自らの勝利のペースを停滞させた。
昭和33年はシングルとTの併用で2TDを先行したが、後半にパント・リターンで日大織部に80ヤードを走られ、12-13と逆転された。しかし、タイムアップ3分前に3兄弟の末弟、米田正勝から中西へのパスがゴールを割り、「われ勝てり」と陣営は湧いた。と、そのとき、無情の「Holding!」が宣告される。主将・杉浦剛の反則。にがい、にがい1点差の敗北。
昭和36年は春に負傷した勝田が足を引きずりながら健闘した。第2Qに日大のパスをインターセプトして50ヤードほども返したが、TDまでは走りきれなかった。痛々しいこのプレーがいまだに瞼に焼きついている。第4Q初めに山本のストレートで6-6としたが、終了5分前に突き放された。この試合、互角以上にペースをつかんでいただけに、大黒柱・勝田健在なりせばとつくづく悔やまれた。
リーグの安穏に打ち負かされて、大海の深さを知らず
1、2年主体の若いチームとなった昭和37年、新人梅田がただ一人でQBの重任を守りきった。春は明大、立教大、慶応大を破ったが、目指す日大に対してまだまだ大差のあることを西宮ボウルの対戦から示されていた。
8月には武田建ちゃんが長い留学から帰り、早速コーチとして関与する。シングルTで戦った甲子園は二転三転したが、関学はパスを有効に生かし、3Qを終わって24-12のリードである。しかし、試合内容は圧倒的に日大優位、4Qは阿部のラン一辺倒でひたひたと押してくる。関学はまたもラスト4分の重圧をモロに受け、精も魂も尽き果てた思いで頭を垂れた。
以上、接戦敗退のその4回、もしあの反則がなければ、あるいは勝田が‥‥‥と、また繰り言がしきりと出てきそうである。しかし、個々の心・技・体をチームワークによってまとめ上げ、戦術戦略を駆使して勝負する甲子園ボウルを考えた場合、その大舞台の緊張に耐え得なかった関学は、「関西のお山の大将、リーグの安穏に打ち負かされて、大海の深さを知ることができなかった」というべきであったろう。
篠竹・日大の幕開け。「残心」の合言葉むなしく逆境の底力に屈する
日大は昭和31年に卒業した篠竹幹夫氏が直ちに母校の教員となってチームにタッチし、34年から監督として「日大王国」作りに力を尽くす。その独自の精神教育と徹底した基礎訓練はこの時期の関学との競り合いを制しながら、日大流の勝負に対する執着力を確固たるものとしていったということができよう。
その日大が強力ラインと吉岡、織部の両HBをようした34年は一枚も二枚も役者が上であり、梶主将、平野副将以下キャリア十分のメンバーをそろえた関学も歯が立たなかった。
昭和35年は春から「残心」を合言葉に懸命に努めた。「残心」は弓道の用語。これをフットボールの場に置き換え、一挙手一投足、最後まで頑張りぬくための指標とした。沢田主将のリードで、充実した一年であった。リーグを終わり、最後の決戦は甲子園球場改修のため、初めて西宮球場で挙行され、相手も6年ぶりに日大を降ろした立教大の登場となる。その大型ライン、エース石田のランなど、彼らのほうが激しい「残心」であり、1年はまたも終わった。
昭和38年はグラウンドに自動車のタイヤが登場し、伊藤主将以下、きついタイヤ引きの明け暮れから基礎体力の養成が図られた。そして、最後の甲子園は前半14-6で日大のリード。後半、関学はランを主にして確実にヤードを進め4Q8分、大滝のオープンが決まって18-14と逆転する。しかし、ここでフワフワと浮き足立ったのか、その後、大きなパスを通され、こちらのパスをインターセプトされて、アッというまに2TDを取られ、日大30-18のタイムアップとなる。逆境に強い日大の底力であろうか。
「七転八起」を掲げた昭和39年は春の交流戦で明・立・慶を破り、力はついていた。折りしも日本のフットボール創始30周年を期して、初めて全日本学生選抜軍をハワイに送ることが決まり、日大・関学から12人づつ、それに篠竹・米田の両コーチなどが12月初め壮途についた。記念すべきハワイでの2戦は1勝(28-10/クラブチームNO.1のフォーティーナイナーズ)1敗(0-40/ハワイ大学)であった。
甲子園ボウル9年振り引き分け優勝で、米田時代終わる
昭和40年はハワイの著名なフットボール・コーチ、久保田秋夫先生との出会いがある。夏までの1年間、特別研究生として関学に来られた先生は帰国寸前の9日間、スポーツセンターでの夏合宿に参加され、「モラルとタイミング」という要諦を強調された。
甲子園は春に引き分けた立教大との再戦。関学は丸上、逸見、新井ら力のある選手がQB梅田のリードで優勢に試合を進めていったが、最後にミスが出て追いつかれる。そして、この無念残念の王座預かりを引き際にして米田監督が正式に引退を表明、関学フットボールの前半期を担当した“米式フットボール”の時代を終えた。
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