米田満氏論文「アメリカン・フットボールの起源とその発展段階」
第3章 ラグビーの魅力
1959/02/28
ボストン・ゲームをただひとり固執したハーバード大学は運命の絆に導かれて、1874年カナダのマックギル大学とラグビー・ルールで対戦することとなった。そしてこのことが契機となり、サッカーよりも激しい体当たりの動作を合法とするこのゲームは忽ちのうちに東部の大学の間に魅力を持たれるようになった。そして1876年に大学フットボール協会(Intercollegiate Football Association)が設立され、サッカーよりもむしろラグビーを採るとの明確な方途が定まった。矢は弦を離れ、この転換によって現在のアメリカン・フットボールに至る巨歩が踏み出されたわけである。
アメリカン・フットボールにとって1874年は記憶さるべき年である。ハーバード大学はルールの相違があるために他校との対戦の機会に恵まれなかったが、突然カナダのモントリオールにあるマックギル大学から試合の申し込みを受けたので、大喜びでこれを受諾した。春の一日、両チームはケンブリッジで相会したが、マックギル大学の方はラグビー・ルールであり、対するハーバード大学のボストン・ルールでは、ボールを持って走れるのはただ一人だけで、そのほとんどの局面はサッカー流のゲームであった。そこで最初の試合はハーバード大学のルールでやり、翌日の二試合目はマックギル大学のルールで戦うことになった。試合は最初が3~0でハーバード大学の勝、第二試合は半時間ずつ三つのセクションで行なわれ、0~0の引分けに終った。マックギル大学のルールはラグビー・フットボール連合のルールを修正したものであり、英国のラグビーがゴールだけを得点とするのに対し、タッチ・ダウンもゴールと同様、得点に加えるようになっていた。この試合がアメリカにおいて行なわれた最初の学校対抗ラグビーである。その秋三度目の試合が今 度はモントリオールで行われ、3TD~0でハーバード大学が勝った。
初めてラグビーに接したハーバード大学にとってそのゲームは神秘的な、全く未知のものであった。しかしその精神、その内容にはアメリカの青年を魅了して止まぬものがあったため、ハーバード大学はキッキング・ゲームを捨ててこのラグビーに踏み切ろうと決意した。そしてこのゲームを熱心に拡げようとして、まずエール大学に試合を申し込んだ。両校の代表がマサチューセッツ州スプリングフィールドに集まり、ハーバード大学が一チーム15名で、ラグビー・ルールを加味することを条件としたのに対してエール大学が同意したため、ここに総ゆるフットボール対抗の中で最高の存在となったエール・ハーバード戦がその歴史的な幕を開いた。
試合は1875年11月13日、ニューヘブンのハミルトン・パークで行なわれ、前年の対マックギル戦で経験を積んだハーバード大学が4~0で勝った。聴衆は2,000人、入場料は50セントであった。ハーバード大学の応援に150人の学生がボストンから押しかけたのも当時としては珍しいことであった。エール大学は灰色のズボンと青いシャツ、それに黄色い帽子をかぶり、ハーバード大学は深紅色のシャツとストッキング、それに膝ズボンをつけたが、両軍ともにユニフォームをまとったのは大学対抗として最初のことであった。エール大学にとってラグビーは全く奇異のゲームであったわけだが、彼らもこれに傾倒し、1876年、ラグビー採用へと踏み切った。
最初のエール・ハーバード戦を見ていた聴衆の中にプリンストン大学のドッジとポッターがいた。二人はこのラグビーゲームにすっかり魅せられ、プリンストンに帰ってこれを伝えようと図った。最初学校の機運は1873年のサッカー・ルールを固執していたが、二人が説得にこれ努めたすえ、1876年11月2日、まずプリンストン大学においてラグビーを採用すること、ついでハーバード、エール、コロンビアの三大学に呼びかけてこのゲームを行うためのルールを制定すべく集会を開くことを決議した。三大学に送られた招待状には”現在各大学の行っているラグビー・ルールを調整し、互いに同一の、そして満足すべき基礎にもとづくフットボールを為し得るようなルールを確立するため”との趣旨が述べられ、大学フットボール協会設立の是非を審議する必要を訴えていた。
集会は1876年11月26日、マサチューセッツ州スプリングフィールドのマサーソイト館で開かれ、四大学から二人ずつの代表が参加した。そして大学フットボール協会を設立するとともに、ラグビー連合の”試合はゴールの多い方をもって勝とする”というルールに変更を加え”試合はTDの数によって決まり、1ゴールは4TDに等しい。タイの場合にはTDからのゴール・キックが4TDに優先する”という修正案を採択した。一方、競技人員はエール大学の11人案に反してラグビー連合の規則通り15人と決まった。エール大学のベーカー主将はこの両件に対して異議をとなえ協会に入ることを拒んだが、年々会議には代表を送り、漸く1879年に至って協会に参加した。かくしてアメリカ独立百年祭の記念すべきこの年、サイは投げられ、ボールを持って走り、タックルを許すという動きを認めることによって、以後アメリカン・フットボールへ徐々に発展していく門が開かれた。
その他、競技時間は45分ハーフとしてその間に10分の休憩時間を設けること、フィールドの大きさをタテ140ヤード、ヨコ70ヤードとすること、審判としてレフェリー1人のほかに両チームから1人ずつのジャッジを出すことなどを決めた。
斬界の先達スタッグ(Alonzo Stagg)はアメリカン・フットボールの基礎ともいうべきラグビーの採用に関連して、ハーバード、プリンストン、エール三大学の尽した貢献を「ハーバード大学は1874年にラグビーを採用するや一貫してそのプレーをつづけた功績、プリンストン大学は最初の会議を招集する労を取り、その結果、協会の設立となったこと、また均一のルールを採用するに至らしめた功績、さらにエール大学の功は選手の数を11人から15人とする案に反対し、1880年ついにその主張通りになる端緒を開いた点にある」と述べている。
スプリングフィールドの集会に先立つ5日前にエール大学はハーバード大学と対戦して1~0で勝った。試合はエール大学の提案した11人制とTDを得点にしないというルールが認められた。この最初の11人制ラグビーに関する詳しい記述から当時の模様を推測することができる。
ライン・アップの構成は現在のライン・メンに当る6人のラッシャーズが相手の6人と互いに相対してスクラメージ(1878年にスクリメージと変った)の前の壁を作り、その外側や後方はハーフ・テンズ(half tends 現在のQB)が動いてラッシャーズの間の争いから出てくるボールを待ち受けていた。ボールは最初のキック・オフの時以外はスクラムでプレーされ、二つのラッシュラインズの間に置かれたボールを各ラッシャーズが争って足でハーフ・テンズに送ろうと努めた。現在のHBとFBに当るテンズ(tends)はずっと深い位置でプレーしていた。スクラムからのボールを最初に取った者は後方または外側にトスしてランかキックに移ったが、相手のタックルを避けるためラトラル・パスとキックが大いに強調された。
エール大学はこの試合の数日前に初めてハーバード大学から正規のラグビー・ボールを入手したが、その卵型のボールのどこを蹴るべきかについて激しい議論を闘わせたという。彼らの練習はグラウンドで午後1時間、夜9時に体育館で3マイルのランニングを行うという激しいものであり、粘り強さとタックリングの2点においてハーバード大学の技巧を制することができた。
協会の設立がラグビーへ踏み切った大きなターニング・ポイントであることは間違いないが、1880年以後の著るしい充実ぶりに比べると、それ以前のこの時期は古い制度の時代であった。練習計画、コーチングにも専門的な配慮がなされず、マネージメントは完全に学生自身がやっていた。当時の競技の取扱いや慣習がいわゆるラグビー精神に影響され、識不識にかかわらず英国のケンブリッジ、オックスフォードなどに似ていた点は十分認められるところである。しかしアメリカン・フットボールの初期形成期として、組織は不完全であり用具は不足しがちであったが、選手たちは次第にフットボールに対する関心と意欲を増してゆき、しかも観客は陸続としてその数を増してフットボール熱に拍車を掛けていった。初期のフットボールは特にゲームを楽しむという社交的な要素を含んでいたため、試合ごとに両チーム出席のもとに昼食をともにし、試合終了後は晩餐をともにするという具合で和気藹々たる雰囲気に満ちていた。しかしゲームが次第次第に激しい闘いの内容を示し始めた点は否めず、ひいては次の時代の大発展とともに数々の弊害、非難を予見させるものをはらんでいた。
1 最初のアメリカン・フットボール
アメリカン・フットボールにとって1874年は記憶さるべき年である。ハーバード大学はルールの相違があるために他校との対戦の機会に恵まれなかったが、突然カナダのモントリオールにあるマックギル大学から試合の申し込みを受けたので、大喜びでこれを受諾した。春の一日、両チームはケンブリッジで相会したが、マックギル大学の方はラグビー・ルールであり、対するハーバード大学のボストン・ルールでは、ボールを持って走れるのはただ一人だけで、そのほとんどの局面はサッカー流のゲームであった。そこで最初の試合はハーバード大学のルールでやり、翌日の二試合目はマックギル大学のルールで戦うことになった。試合は最初が3~0でハーバード大学の勝、第二試合は半時間ずつ三つのセクションで行なわれ、0~0の引分けに終った。マックギル大学のルールはラグビー・フットボール連合のルールを修正したものであり、英国のラグビーがゴールだけを得点とするのに対し、タッチ・ダウンもゴールと同様、得点に加えるようになっていた。この試合がアメリカにおいて行なわれた最初の学校対抗ラグビーである。その秋三度目の試合が今 度はモントリオールで行われ、3TD~0でハーバード大学が勝った。
2 エール大学共鳴す
初めてラグビーに接したハーバード大学にとってそのゲームは神秘的な、全く未知のものであった。しかしその精神、その内容にはアメリカの青年を魅了して止まぬものがあったため、ハーバード大学はキッキング・ゲームを捨ててこのラグビーに踏み切ろうと決意した。そしてこのゲームを熱心に拡げようとして、まずエール大学に試合を申し込んだ。両校の代表がマサチューセッツ州スプリングフィールドに集まり、ハーバード大学が一チーム15名で、ラグビー・ルールを加味することを条件としたのに対してエール大学が同意したため、ここに総ゆるフットボール対抗の中で最高の存在となったエール・ハーバード戦がその歴史的な幕を開いた。
試合は1875年11月13日、ニューヘブンのハミルトン・パークで行なわれ、前年の対マックギル戦で経験を積んだハーバード大学が4~0で勝った。聴衆は2,000人、入場料は50セントであった。ハーバード大学の応援に150人の学生がボストンから押しかけたのも当時としては珍しいことであった。エール大学は灰色のズボンと青いシャツ、それに黄色い帽子をかぶり、ハーバード大学は深紅色のシャツとストッキング、それに膝ズボンをつけたが、両軍ともにユニフォームをまとったのは大学対抗として最初のことであった。エール大学にとってラグビーは全く奇異のゲームであったわけだが、彼らもこれに傾倒し、1876年、ラグビー採用へと踏み切った。
3 プリンストン大学の貢献
最初のエール・ハーバード戦を見ていた聴衆の中にプリンストン大学のドッジとポッターがいた。二人はこのラグビーゲームにすっかり魅せられ、プリンストンに帰ってこれを伝えようと図った。最初学校の機運は1873年のサッカー・ルールを固執していたが、二人が説得にこれ努めたすえ、1876年11月2日、まずプリンストン大学においてラグビーを採用すること、ついでハーバード、エール、コロンビアの三大学に呼びかけてこのゲームを行うためのルールを制定すべく集会を開くことを決議した。三大学に送られた招待状には”現在各大学の行っているラグビー・ルールを調整し、互いに同一の、そして満足すべき基礎にもとづくフットボールを為し得るようなルールを確立するため”との趣旨が述べられ、大学フットボール協会設立の是非を審議する必要を訴えていた。
4 ラグビー採択
集会は1876年11月26日、マサチューセッツ州スプリングフィールドのマサーソイト館で開かれ、四大学から二人ずつの代表が参加した。そして大学フットボール協会を設立するとともに、ラグビー連合の”試合はゴールの多い方をもって勝とする”というルールに変更を加え”試合はTDの数によって決まり、1ゴールは4TDに等しい。タイの場合にはTDからのゴール・キックが4TDに優先する”という修正案を採択した。一方、競技人員はエール大学の11人案に反してラグビー連合の規則通り15人と決まった。エール大学のベーカー主将はこの両件に対して異議をとなえ協会に入ることを拒んだが、年々会議には代表を送り、漸く1879年に至って協会に参加した。かくしてアメリカ独立百年祭の記念すべきこの年、サイは投げられ、ボールを持って走り、タックルを許すという動きを認めることによって、以後アメリカン・フットボールへ徐々に発展していく門が開かれた。
その他、競技時間は45分ハーフとしてその間に10分の休憩時間を設けること、フィールドの大きさをタテ140ヤード、ヨコ70ヤードとすること、審判としてレフェリー1人のほかに両チームから1人ずつのジャッジを出すことなどを決めた。
斬界の先達スタッグ(Alonzo Stagg)はアメリカン・フットボールの基礎ともいうべきラグビーの採用に関連して、ハーバード、プリンストン、エール三大学の尽した貢献を「ハーバード大学は1874年にラグビーを採用するや一貫してそのプレーをつづけた功績、プリンストン大学は最初の会議を招集する労を取り、その結果、協会の設立となったこと、また均一のルールを採用するに至らしめた功績、さらにエール大学の功は選手の数を11人から15人とする案に反対し、1880年ついにその主張通りになる端緒を開いた点にある」と述べている。
5 11人制フットボール
スプリングフィールドの集会に先立つ5日前にエール大学はハーバード大学と対戦して1~0で勝った。試合はエール大学の提案した11人制とTDを得点にしないというルールが認められた。この最初の11人制ラグビーに関する詳しい記述から当時の模様を推測することができる。
ライン・アップの構成は現在のライン・メンに当る6人のラッシャーズが相手の6人と互いに相対してスクラメージ(1878年にスクリメージと変った)の前の壁を作り、その外側や後方はハーフ・テンズ(half tends 現在のQB)が動いてラッシャーズの間の争いから出てくるボールを待ち受けていた。ボールは最初のキック・オフの時以外はスクラムでプレーされ、二つのラッシュラインズの間に置かれたボールを各ラッシャーズが争って足でハーフ・テンズに送ろうと努めた。現在のHBとFBに当るテンズ(tends)はずっと深い位置でプレーしていた。スクラムからのボールを最初に取った者は後方または外側にトスしてランかキックに移ったが、相手のタックルを避けるためラトラル・パスとキックが大いに強調された。
エール大学はこの試合の数日前に初めてハーバード大学から正規のラグビー・ボールを入手したが、その卵型のボールのどこを蹴るべきかについて激しい議論を闘わせたという。彼らの練習はグラウンドで午後1時間、夜9時に体育館で3マイルのランニングを行うという激しいものであり、粘り強さとタックリングの2点においてハーバード大学の技巧を制することができた。
6 初期形成期の背景
協会の設立がラグビーへ踏み切った大きなターニング・ポイントであることは間違いないが、1880年以後の著るしい充実ぶりに比べると、それ以前のこの時期は古い制度の時代であった。練習計画、コーチングにも専門的な配慮がなされず、マネージメントは完全に学生自身がやっていた。当時の競技の取扱いや慣習がいわゆるラグビー精神に影響され、識不識にかかわらず英国のケンブリッジ、オックスフォードなどに似ていた点は十分認められるところである。しかしアメリカン・フットボールの初期形成期として、組織は不完全であり用具は不足しがちであったが、選手たちは次第にフットボールに対する関心と意欲を増してゆき、しかも観客は陸続としてその数を増してフットボール熱に拍車を掛けていった。初期のフットボールは特にゲームを楽しむという社交的な要素を含んでいたため、試合ごとに両チーム出席のもとに昼食をともにし、試合終了後は晩餐をともにするという具合で和気藹々たる雰囲気に満ちていた。しかしゲームが次第次第に激しい闘いの内容を示し始めた点は否めず、ひいては次の時代の大発展とともに数々の弊害、非難を予見させるものをはらんでいた。
アーカイブ
- 2025年1月(5)
- 2024年12月(3)
- 2024年11月(13)
- 2024年10月(4)
- 2024年9月(6)
- 2024年8月(5)
- 2024年7月(3)
- 2024年6月(9)
- 2024年5月(11)
- 2024年4月(6)
- 2024年3月(7)
- 2024年2月(2)
- 2024年1月(4)
- 2023年12月(10)
- 2023年11月(6)
- 2023年10月(3)
- 2023年9月(5)
- 2023年8月(4)
- 2023年7月(1)
- 2023年6月(6)
- 2023年5月(6)
- 2023年4月(4)
- 2023年3月(4)
- 2023年2月(1)
- 2023年1月(6)
- 2022年12月(10)
- 2022年11月(6)
- 2022年10月(4)
- 2022年9月(4)
- 2022年8月(3)
- 2022年7月(2)
- 2022年6月(4)
- 2022年5月(4)
- 2022年4月(2)
- 2022年3月(6)
- 2022年1月(1)
- 2021年12月(9)
- 2021年11月(5)
- 2021年10月(4)
- 2021年9月(4)
- 2021年8月(1)
- 2021年7月(3)
- 2021年6月(7)
- 2021年4月(3)
- 2021年3月(3)
- 2021年2月(1)
- 2021年1月(3)
- 2020年12月(11)
- 2020年11月(6)
- 2020年10月(2)
- 2020年9月(4)
- 2020年6月(2)
- 2020年5月(1)
- 2020年4月(7)
- 2020年3月(2)
- 2020年2月(9)
- 2020年1月(8)
- 2019年12月(12)
- 2019年11月(7)
- 2019年10月(4)
- 2019年9月(5)
- 2019年8月(2)
- 2019年7月(1)
- 2019年6月(5)
- 2019年5月(8)
- 2019年4月(2)
- 2019年3月(8)
- 2019年2月(5)
- 2019年1月(4)
- 2018年12月(11)
- 2018年11月(6)
- 2018年10月(2)
- 2018年9月(4)
- 2018年8月(3)
- 2018年7月(3)
- 2018年6月(5)
- 2018年5月(5)
- 2018年4月(6)
- 2018年3月(9)
- 2018年2月(4)
- 2018年1月(4)
- 2017年12月(11)
- 2017年11月(5)
- 2017年10月(3)
- 2017年9月(3)
- 2017年8月(3)
- 2017年7月(2)
- 2017年6月(4)
- 2017年5月(6)
- 2017年4月(2)
- 2017年3月(6)
- 2017年2月(4)
- 2017年1月(5)
- 2016年12月(11)
- 2016年11月(7)
- 2016年10月(2)
- 2016年9月(4)
- 2016年8月(4)
- 2016年7月(2)
- 2016年6月(11)
- 2016年5月(6)
- 2016年4月(4)
- 2016年3月(9)
- 2016年2月(4)
- 2016年1月(1)
- 2015年12月(5)
- 2015年11月(9)
- 2015年10月(2)
- 2015年9月(3)
- 2015年8月(3)
- 2015年7月(3)
- 2015年6月(7)
- 2015年5月(3)
- 2015年4月(2)
- 2015年3月(8)
- 2015年2月(6)
- 2015年1月(3)
- 2014年12月(10)
- 2014年11月(7)
- 2014年10月(5)
- 2014年9月(3)
- 2014年8月(4)
- 2014年7月(8)
- 2014年6月(6)
- 2014年5月(10)
- 2014年4月(4)
- 2014年3月(9)
- 2014年2月(6)
- 2014年1月(2)
- 2013年12月(10)
- 2013年11月(7)
- 2013年10月(4)
- 2013年9月(4)
- 2013年8月(3)
- 2013年7月(5)
- 2013年6月(6)
- 2013年5月(5)
- 2013年4月(5)
- 2013年3月(7)
- 2013年2月(5)
- 2013年1月(4)
- 2012年12月(8)
- 2012年11月(7)
- 2012年10月(4)
- 2012年9月(3)
- 2012年8月(2)
- 2012年7月(6)
- 2012年6月(7)
- 2012年5月(4)
- 2012年4月(5)
- 2012年3月(6)
- 2012年2月(6)
- 2012年1月(2)
- 2011年12月(8)
- 2011年11月(3)
- 2011年10月(4)
- 2011年9月(4)
- 2011年8月(3)
- 2011年7月(3)
- 2011年6月(6)
- 2011年5月(6)
- 2011年4月(10)
- 2011年3月(9)
- 2011年2月(4)
- 2011年1月(3)
- 2010年12月(6)
- 2010年11月(14)
- 2010年10月(4)
- 2010年9月(3)
- 2010年8月(3)
- 2010年7月(3)
- 2010年6月(6)
- 2010年5月(4)
- 2010年4月(9)
- 2010年3月(7)
- 2010年2月(7)
- 2009年12月(1)
- 2009年11月(2)
- 2009年10月(2)
- 2009年9月(2)
- 2009年8月(4)
- 2009年7月(5)
- 2009年6月(8)
- 2009年5月(5)
- 2009年4月(7)
- 2009年3月(10)
- 2009年2月(3)
- 2009年1月(1)
- 2008年12月(1)
- 2008年11月(4)
- 2008年10月(2)
- 2008年9月(3)
- 2008年8月(2)
- 2008年7月(1)
- 2008年6月(5)
- 2008年5月(2)
- 2008年4月(4)
- 2008年3月(6)
- 2008年2月(1)
- 2008年1月(6)
- 2007年12月(2)
- 2007年11月(2)
- 2007年10月(2)
- 2007年9月(3)
- 2007年8月(4)
- 2007年7月(5)
- 2007年6月(8)
- 2007年5月(5)
- 2007年4月(9)
- 2007年3月(11)
- 2007年2月(3)
- 2007年1月(6)
- 2006年12月(3)
- 2006年11月(3)
- 2006年10月(4)
- 2006年9月(2)
- 2006年8月(7)
- 2006年7月(3)
- 2006年6月(7)
- 2006年5月(6)
- 2006年4月(6)
- 2006年3月(6)
- 2006年2月(3)
- 2006年1月(3)
- 2005年12月(1)
- 2005年11月(2)
- 2005年10月(3)
- 2005年9月(2)
- 2005年8月(8)
- 2005年7月(1)
- 2005年6月(4)
- 2005年5月(6)
- 2005年4月(6)
- 2005年3月(6)
- 2005年2月(4)
- 2005年1月(3)
- 2004年12月(1)
- 2004年11月(2)
- 2004年10月(3)
- 2004年9月(3)
- 2004年8月(2)
- 2004年7月(2)
- 2004年6月(3)
- 2004年5月(3)
- 2004年4月(4)
- 2004年3月(10)
- 2004年2月(1)
- 2004年1月(4)
- 2003年11月(3)
- 2003年10月(2)
- 2003年9月(3)
- 2003年8月(16)
- 2003年7月(1)
- 2003年6月(5)
- 2003年5月(3)
- 2003年4月(4)
- 2003年3月(8)
- 2003年2月(4)
- 2003年1月(3)
- 2002年11月(3)
- 2002年10月(2)
- 2002年9月(3)
- 2002年8月(2)
- 2002年7月(3)
- 2002年6月(5)
- 2002年5月(5)
- 2002年4月(4)
- 2002年3月(6)
- 2002年2月(6)
- 2002年1月(6)
- 2001年12月(4)
- 2001年11月(2)
- 2001年10月(4)
- 2001年9月(3)
- 2001年8月(2)
- 2001年7月(5)
- 2001年6月(5)
- 2001年5月(3)
- 2001年4月(4)
- 2001年3月(14)
- 2001年2月(3)
- 2001年1月(2)
- 2000年12月(2)
- 2000年11月(2)
- 2000年10月(4)
- 2000年9月(3)
- 2000年8月(3)
- 2000年7月(6)
- 2000年6月(3)
- 2000年5月(3)
- 2000年4月(3)
- 2000年3月(5)
- 2000年2月(4)
- 2000年1月(5)
- 1999年12月(4)
- 1999年11月(3)
- 1999年10月(2)
- 1999年9月(3)
- 1999年8月(1)
- 1999年7月(3)
- 1999年6月(3)
- 1999年5月(6)
- 1999年4月(4)
- 1999年3月(5)
- 1999年1月(3)
- 1997年12月(3)
- 1997年11月(2)
- 1997年10月(2)
- 1997年9月(3)
- 1997年8月(1)
- 1997年7月(2)
- 1997年6月(8)
- 1997年5月(5)
- 1997年4月(4)
- 1997年3月(4)
- 1997年2月(1)
- 1997年1月(3)
- 1991年2月(6)
- 1959年2月(11)