米田満氏論文「アメリカン・フットボールの起源とその発展段階」

第10章 近代フットボールの種々相

1959/02/28

 近代フットボールは1913年から始まるといってよい。1912年の恒久的ルールの設置以後、ルールに加えられた変更は比較的小さな性質のものであった。例えば1914年に選手の自由交代制を認めて攻守の専門チームを作り上げ、1953年には再びそれを取り止めたように、その効果に於いては徹底的なものであってもフットボールの性格そのものには何の関係もなかった。1912年のルールを知っていてその後全くフットボールと接触を絶っていた人でも今日のフットボールを完全に理解することができるのである。連年つづけて行われるルールの変更は基本的には選手とコーチの権利の保護、及び競技者の安全という二つの観点に立つわけであるが、形態的には攻守のバランスをつねに保持するという線に沿ってルール委員会が働らいていることは明瞭である。
 さて1912年を境として形態的に確固たる基礎が形成されるとともに、特に第一次世界大戦が終わってから1930年にかけては大衆の絶大な人気を集め、かつ折からの好況の恩恵を受けてフットボールは圧倒的な黄金時代を謳歌した。自動車と舗装道路による交通の便、新聞のスポーツ欄、ラジオによる宣伝の拡張など、マス・コミの好背景もあって各地に巨大なスタジアムが作られて数万に及ぶ観戦者を集めた。そして大学フットボールはそれ自体、大規模な商業主義の真只中で歩みつづけることを余儀なくされ、勢い数々の問題点をつねに抱きながら今日に至っている。この稿では1912年以降の主なるルール変更を取り上げるとともに、近代フットボールの種々相に触れてみる。


 1 背番号


 1915年に選手に背番号をつけることが正式に決まった。初めての試みは1908年、ワシントン・アンド・ジェファソン大学が陸上競技者の番号にヒントを得て使用したものであったが、この案は実用的でないという理由ですぐに取り止められてしまった。その後、1913年にスタッグの率いるシカゴ大学がウィスコンシン大学との試合に於て海老茶のユニフォームに白い背番号をつけて現れ、観客に大いに喜ばれた。1914年にはビッグ・テンが背番号をつける案を採択し、その年から翌年にかけてピッツバーグ大学のマネジャー、デビスがプログラムを売ってその中に選手の背番号を記入するという案を考えついて大成功を納めた。こうして1915年、正式にルールで選手に背番号をつけることが示され、1937年にはユニフォームの前後に番号をつけることが求められた。


 2 新しい得点形式


 1922年に新しい得点形式が取り上げられT・F・P(try for point)といわれた。以前はTDのあと、ゴールを狙うものとしてはプレース・キックだけが認められていたが、このルールによってゴール・ラインから5ヤード離れたところでスクリメージが許され、キック、ラン、パスの如何なる戦法を用いてT・F・Pを狙ってもよいことになった。1924年にはT・F・Pが5ヤード・ラインから3ヤード・ライン、1929年にはさらに2ヤード・ラインと変わった。1927年には危険をなくし、T・F・Pをさらに難しくするため、ゴール・ポストをエンド・ゾーンの端の線、すなわちゴール・ラインから10ヤード後方のエンド・ラインに置いた。しかしキックによってT・F・Pを試みる成功率が著しく高まる傾向に鑑み、1958年にはT・F・Pをゴール前3ヤードからとし、キックによるもの1点、ラン、またはパスによるもの2点と得点差をつけるようになった。


 3 最後の恒久的改革案


 1931年は多数の死傷者が出てまたまた大きな反響を呼んだ。そこで翌1932年、直ちに危険に対する安全策が樹立され、最後の恒久的改革案ともいえるルールの変更があった。それまでキック・オフの際にはレシーブ側の10人はボール保持者を囲み密集を作ってボールを進めることが許され、この一点に古いマス・プレーの名残りが留められていた。この危険を防止するため、ルールは“レシーブ側の少なくとも5人の選手はボールがキックされるまではキック側の制限線の15ヤード以内に留まること”を要求した。またボール保持者が倒れたのち、なお前進を止めない傾向を抑えて“ボールは保持者の身体が両手両足以外のどこが地面についても自動的にデッド”と宣告された。


 4 防具


 1939年にヘルメットをつけることが命じられたが、防具の変遷については全く選手が必要に応じて適宜使用、改良したものであってルールによる規定はこの時が初めてである。1869年、プリンストン大学とラトガース大学の間に行なわれた最初の学校対抗の時はユニフォームもなく上衣とチョッキだけをつけて戦ったが、1875年、エール大学とハーバード大学の第一回対抗戦の時に初めてエール大学が紺色、ハーバード大学が深紅色のユニフォームをつけて現われた。身体を保護するものとしては1890年前後からフットボール・パンツに自家製のパッドを入れて膝や向こう脛を保護するくらいであり、やっと1900年ごろに皮のヘルメット、皮だけのショールダー・パットが用いられるようになった。しかし、そうしたパッドを使うのは卑怯者だといった観念がまだ失われず、普遍的な使用には至らなかった。1906年ゲームの安全化に腐心するルール委員会が種々の改革案を取り上げたころから漸く腰のパッド、肘を保護するパッドが普ねく取り上げられるようになり、1910年ごろにはヘルメットも一般的になっていった。しかし防具が次第に一般化するとともに逆に金属性の板で補強したパッドの類を使用するという危険な状態をしばしば見るようになったため、1932年、ルールでその保護措置を明確にし、越えて1939年、初めてヘルメットを必ず着けることを膝と肩のパッドの厚みを増すように決めた。
 現在用いられているファイバー製の防具はスタンフォード大学のコーチ、ワーナーが靴ベラからヒントを得て制作させたものであり、その材料はまたたく間に全国的に利用されるようになった。


 5 攻守交代制


 初期のフットボール時代にはほとんどのチームがフルに活動し、故障の場合にのみ交代選手を使ったようであるが、この選手交代に関する明確なルールを規定したのは1922年が最初で“一度退場した選手はタイムアウトの場合にのみ、つぎのクォーターにはゲームに戻り得る”となって多少交代制が緩和され、越えて1941年、選手交代に関する根本的な変更があって選手の自由交代制が認められることになった。この改革から4年後、ミシガン大学が始めた二交代作戦がフットボールの効果という観点から大きな問題となって浮かび上ってくる。
 1945年、ミシガン大学のクリスラーが初めて攻守の二交代作戦を実行に移し、強豪アーミーに対して善戦したので一躍これが全国的に普及する端緒となった。丁度1942年からの戦時制限とフットボール人口の減少のためにどこのチームも選手不足に苦しんでいた。従って攻守どちらかしか才能のない選手といえども実に貴重な存在であった。対アーミー戦を前にしたクリスラーは全く必要に迫られて攻守の才能によって選手を使い分ける方法を考え出した。当時のアーミーはデービス、ブランチャードを擁して全米一の強チームであり、ミシガン大学の方は兵役に関係のない若者か、身体に故障のあるものばかりで、勝敗の帰結は明瞭であったが、それでもこの新しいシステムの使用によって第三クォーターまで7~の好試合を演じて大きなセンセーションを巻き起こした。この時のミシガン大学はラインだけに限って攻守の専門選手を使ったが、1947年には全選手に及び、しかもほとんどのチームがこのシステムを採用するようになった。
 この二交代策の結果、多くの選手がプレーをする機会を与えられ、しかも疲労が少なくなるため負傷者が減少するという利点もあったが、その普及とともに多数のメンバーを揃え、コーチング・スタッフを増員する必要に迫られて、そのための出費が著るしくかさみ、ために小さな大学ではフットボールを廃止するようなところもあった。また事実上、大きな大学はますます強くなる一方であり、強弱チームの色分けを余りにも明瞭にしたのも一面このシステムのもたらした行き過ぎであった。
 これに対処するため、1953年には選手の自由交代制が全面的に廃止されて、1941年以前の状態に戻された。この変更に当たって一流チームのコーチ連は強い反対をとなえたが、ルール委員会では「自由交代制によってフットボール廃止の止むなきに至るがごときチームが出るのを抑えるため」としてあえて強行した。しかし1955年には交代ルールが多少緩和され“各クォーターごとにスタートした選手は一度退場してもまた同じクォーターにゲームに戻る”ことが許され、その傾向はさらに1958年には“スタート・メンバー以外でも各クォーターに2回はゲームに参加できる”ことになった。


 6 スタジアムの建設と観客動員


 近代的な鉄筋建設の競技場は1903年、ハーバード大学に建てられたものが最初で、座席数23,000という当時としては驚異的なものであった。第一次世界大戦終了後、フットボールはあらゆる要素に恵まれて最も人気のあるスポーツにのし上がり、多くの大学は工費50万~100万ドルもする巨大なスタジアムを十分建造できるだけの費用を集められるようになった。しかもある場合には入場料が2倍、3倍にはね上がったとしてもなおこのスポーツの興味を減じないほど隆盛を極めたので、学校のためにあらゆる負債を支払い、また他のスポーツを援助してもなおありあまるだけのものがあった。
 1914年にフタをあけたエール大学のスタジアムは座席数7万を越え、当時その種のものとしては世界で最も堂々たる建物であったが、1920年から1930年に至る10年間は多くのスタジアムが建てられた。この10年間に135の大学競技場の座席数は929,523から一躍2,307,850へと増加している。こうしたスタジアムはすり鉢型、馬梯型、半円型とそれぞれの特色を打ち出し、とくに中西部に巨大なスタジアムがみられたが、中でも87,500の座席をもつミシガン大学、77,000を収容するオハイオ州立大学のものがその双璧であった。こうしたスタジアムの建設に伴う多額の経費の取扱い、並びに拡張設備のための借金の処理問題などはフットボール競技を大事業の一部分にしてしまう原因となったのである。黄金期1930年には観客動員数はついに1,000万を超える勢いであった。
 この黄金期のあと数年間は経済不況とゲームのラジオ放送のため、やや観客数は下降を示し、とくに第二次大戦中は交通の制限があってかなりの影響をうけたが、1945年のフットボール・シーズン開幕を前にして戦争が終わったので観客はそれまで以上に物凄い勢いで集まってきた。そして1946年の入場者は秋季スポーツのあらゆるレコードを上回り、以後はつねに1,500万を越える記録を示している。


 7 ボウル・ゲーム


 1915年、カリフォルニア州、パサディナ市では翌1916年1月1日の“バラの祭典”の一行事としてフットボール・ゲームを行なうことを決めた。そしてそのシーズン、太平洋岸の強チームであったワシントン州立大学に、どこか東部のチームを選んでパサディナでゲームをする権利を与えた。ワシントン州立大学はブラウン大学を相手に選び14-0で快勝した。これが正規シーズン終了後のフットボールとしてボウル・ゲームの始まりであり、最初は“ローズ協会トーナメント”と呼ばれていた。この年以後、毎年元旦にパサディナで招待ゲームが行なわれたが、1923年に現在のスタジアムが建設され、その形がすり鉢型であるところから“ローズ・ボウル(Rose Bowl)”と命名され、試合の名称も“ローズ・ボウル・ゲーム”と変わった。そして各シーズンごとに太平洋岸の強チームが選ばれて東部のチームを相手とする権利が与えられた。このゲームは大成功を納め、観客は9万人を越えるようになり、純益は約45万ドルにのぼり、それは出場2チームと競技委員会の三者で分けられた。1942年にただ一度戦時下の交通事情のため、場所をノースカロライナ州ダーハムにあるデューク・スタジアムに移したことがあったが、翌1943年にはまたローズ・ボウルで開かれた。しかし東部から太平洋岸の旅行が困難なったため、翌1944年には東部のチームを招かぬこととし、太平洋岸のチームのうち優秀な2チームを対戦させることになって、この年はサザーン・カリフォルニア大学とワシントン大学が戦った。1946年には「1947年以後5年間は太平洋岸の覇者とビッグ・テンの覇者とがローズ・ボウルに出場する」と決まり、この条項は5年経ってまた改定された。
 このローズ・ボウルの推移に対し、最初の1916年のゲームよりも以前、すなわち1902年にパサディナで行われたミシガン大学とスタンフォード大学の試合をローズ・ボウルの始まりだとする説もある。この試合はシーズン後の1月1日に古いルールの前後半2つのセクションで行われ、このシーズンの最強チーム、ミシガン大学が49-0でスタンフォード大学を一蹴した。観客は8,000人、このゲームものちのローズ・ボウルと同様、“バラの祭典”の一行事として行われたものであった。
 初期のローズ・ボウルが大成功を納めたので、これに刺激されてシーズン終了後の競技会が各地で開かれるようになり、大抵フットボール・シーズンの最後を飾るものとして元旦に行われた。そうしたゲームのうち、一番最初のものは東西対抗戦であり、1925年、サンフランシスコで始まった。この試合には東西の大学のスターが一堂に会したため物凄い観客を集め、その収益は慈善事業に寄附された。1933年にはバルチモアで南北対抗戦が始まり、一時休止したことはあったが熱心なファンの要望があったため、1939年からまた復活され、以後はずっとアラバマ州バーミンガムで行われている。
 ローズ・ボウルと並んでアメリカの4大ボウルといわれるのはオレンジ・ボウル(Orange Bowl)シュガー・ボウル(Suger Bowl)コットン・ボウル(Cotton Bowl)であり、オレンジ・ボウルは1935年、フロリダ州マイアミで、シュガー・ボウルは1935年、ルイジアナ州ニューオルリンズで、コットン・ボウルは1937年、テキサス州ダラスでそれぞれ始まった。その他、テキサス州エルパソで始まったサン・ボウル(Sun Bowl)1946年、フロリダ州ジャクソンビルで始まったゲイター・ボウル(Gator Bowl)などがあるが、これらのボウル・ゲームは大ていその土地の名産、土地の特徴を冠してその名称とし、いずれも満員の大観衆を集めて盛大に行われている。


 8 マス・コミ


 新聞に近代的なスポーツ欄を設けた最初の人はハースト(William R. Hearst)であり、1895年にニューヨーク・ジャーナル紙を買収してそれまでの常識を遙かに上回るほどスポーツの報道にスペースをさいた。この新しい方法が圧倒的なファンの支持を受けると全国の各新聞もそろってこれにならい、折から伸張一路をたどるフットボールの発展にますます拍車を掛けることとなった。そして新聞はその商業政策から個人的なニュースを語るという外国には類例のない一つの型を生み出した。大学のスター選手の写真を掲載し、その身辺にまで記事の分野をひろげるといった傾向は若い青年層に重大な影響を及ぼすものとなった。こうしたマス・コミの行き過ぎは随所にみられて多くの問題を提供しているが、大方の大学当局ではその最も有利な宣伝材料たるフットボール選手の存在を是認し、自校の評判をあげるために優秀なチームを作り上げようと努力している。新聞とともにラジオ、テレビの普及はさらにフットボールの商業主義的な傾向をますます激しくしていった。
 しかしテレビの発展が逆に観客動員に微妙な影響を及ぼすようになり、とくに第二次大戦後に再びブームが回復してくると、テレビはフットボール界の新しい問題となってきた。このため強力な組織をもつNCAAを筆頭に全国の各種機関はテレビに対してある種の制限を課することを強要するようになってきた。例えばレギュラー・シーズンの間、毎土曜日に全国的にテレビで流すのは1、2のゲームに限って許可するといった措置が取られた。テレビで大試合の実写を行うために他のゲームの観客動員に脅威を与えるというのが大多数の意見であったが、中にはテレビの使用を強力に推進する少数派もあった。このテレビに関する議論は未だに満足すべき解決も下されずに年を追うている現状である。


 9 表彰制度


 総ゆる手段を動員して勝利を追求するフットボールの行き方はその勝利チームに賛辞を呈し、また個人的に優秀な選手に対しても最大限の拍手を送った。フットボールの大企業かが進むにつれてチーム、選手に対する表彰制度が次第に確立され、チーム、選手は勝利を目指すことによってこの表彰を意識し、一般観客もこの制度に注目を集めるようになった。チームに与えられる全米最高チーム(National Champion)個人の名誉を示す全米選抜選手(All-America)の制度はその選定に当たる全国的雑誌、新聞の影響力などを考えてもアメリカのスポーツ観に合致し、時流に則するものであった。

 (1)全米最高チーム


 1936年A.P. がスポーツ・ライターの投票によってこの制度を創め、年々全国のチームの力を比較してベスト・テンのランキングを決めたが、そのナンバー・ワンは全米最高のチームと認められている。A. P. 投票以前の1924年から1930年まではリスマン・トロフィ(Rissman Trophy)1931年から1935年まではロックン・トロフィ(Knute Rockne Trophy)が全米最高のシンボルと一般に認められていた。
 近代フットボール以前の古い制度の時代には東部のエール、ハーバード、プリンストン、ペンシルヴァニアらの諸大学がやはり断然強かったが、フォワード・パスが採用され近代フットボールの諸要素が確立されて以後は中西部、西部、太平洋岸の新興諸チームに主導権が渡った形であり、A. P. 投票によるランキングには明瞭にこの分布図が描かれている。全米の各チームはそれぞれの地区の協議会に属してリーグ戦を行っているが、ただひとり名門ノートルダム大学だけはどこの地区にも属さず、独自の立場で各地の強チームとスケジュールを組んでいる。1866年に初めてチームを結成したノートルダム大学は以後1955年までの67年間に432勝、88敗、34分、勝率83.1%という驚くべき成績で断然全米最高の記録を示している。ノートルダム大学についで勝率はエール大学の78.6%、プリンストン大学の77.5%、ミシガン大学の76.1%(以上3校の記録は1952年度までのもの)とつづいているが、勝利総数では古いエール大学が534勝でトップ、試合数最高はペンシルヴァニア大学の759試合(この二つの記録も1952年度までのもの)である。
 

 (2)全米選抜選手


 1889年、キャンプ(Walter Camp)が各ポジションごとに最も優秀な選手を選んで全米選抜チームを作る制度を始めた。キャンプの選考は全国的雑誌「コリアーズ」に発表され、1925年3月14日、彼が死ぬまでつづいた。彼の死後はスポーツ・ライターの最高権威、ライス(Grantland Rice)が後継者となって1947年までは「コリアーズ」のために選考をつづけたが、1948年以後、ライスはフットボール・ライター協会と一しょになって雑誌「ルック」のために選考をつづけた。「コリアーズ」の方は1948年からは全米の有名なコーチの投票によって全米選抜群を選んでいる。
 この全米選抜群のリストも全米最高チームと同様、古い時代には東部の大学のスターがずらりと顔をそろえていたが、近代フットボール以後は、漸時、新興地区にその牛耳を取られている。近代に移って攻守の二交代作戦が一般化した1950年から以後は攻撃チーム・守備チーム両方の全米選抜群を作っている。

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