川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」 2008/12
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#30 1902年(明治35年) 日本フットボールことはじめ 2 ―とりかえばやの物語―
投稿日時:2008/12/26(金) 01:13
この写真は1904年(明治37年)2月6日に撮影されたものである。前回紹介した中村覚之助は最後列真中の学生服、学帽の人物である。この日、日本で初めて日本人チームと外国人チームのゲームが行なわれた。東京高等師範学校とYC&AC(横浜外国人クラブ)の試合である。その記念として撮影された。サッカーに不慣れな日本チームに配慮してYC&ACはファースト・チームではなかったが結果は0対9でYC&ACの圧勝で終った。これに写っている人たちの何人かはちょっとした行き違いからアメリカンフットボールを経験した。もっとも練習にとどまり、ゲームまでには至らなかったようである。
東京高等師範学校の中村覚之助たちはサッカーに取り組もうとした。それがなぜアメリカンフットボールにつながったかについては1902年(明治35年)12月刊行の高等師範「交友会誌第2号」の記事を要約する。
この記述によれば高等師範は1896年(明治29年)に「フートボール部」を立ち上げていたが実際の活動は休眠状態が続いていた。1902年、これを呼び覚ましたのが中村覚之助だった。『アッソシエーションフットボール』を翻訳した同年春、アメリカのウィスコンシン大学のフットボール部で「助教」をしていたという「坂上」なる人物からサッカーのつもりで指導を受けた。
しかしケンカのようにあまりにも激しいスポーツであったので日本人には実行が難しいと思われたためメンバーで検討を行なった。これを改良することも考えたができあがった競技を変更することは難しいと判断した。そのころ『戸外遊戯法』の編集を行なった坪井玄道が海外視察から帰国したので相談したところ、坂上が指導をおこなったのは「ラグビー式」であり、あまりにも過激であるから「アッソシエーション式」の方が日本人に適当である、という答えであった。折りしも坪井玄道がサッカーの資料を持ち帰っていたのでこれに基づき10月の始めより練習を再開した。10月18日の秋季大運動会で2回のゲームを行なった。
時代の雰囲気を伝えるため原文より引用。基本文字使いなど原文のまま。旧字、旧かなを一部修正。
「フートボールという遊戯は、・・・(中略)・・・ラグビー流とアッソシエーション流との二派に分かれ、今も、尚(なお)此二流が英国に中々盛んであるとの事。二十年ばかり前に、米国にも此の遊戯が流行し始めたが、米国のは純粋のラグビー式でもなければ、アッソシエーション式でもなく、云(い)はゞ、ラグビ流を骨子として、多少、亜米利加化したものである・・・(中略)・・・
米国のフートボールに付いては、此年の春、合衆国のウィスコンシン大学に遊学して居る坂上某氏が帰朝した時、其(その)大体を聞き得たから、此所に其状況をしるそう。同氏はなかなかの運動家で、特に、此のフートボールは、最も得意であるから、今日では、同大学のフートボールの助教をして居るそうだ。
・・・(中略)・・・速早、氏を聘して、三時間計りフートボールの蹴方や、ゲームの仕方などの説明を聞き、夫(そ)れで、充分、会得出来ないから、運動場で実に、其の仕方を示して貰ったのである・・・(中略)・・・坂上氏より教授を受けたのは、即ち、云はゞ、ラクビ式であって、随分、激烈であるから、喧嘩すきは、日本人には、其の儘(まま)、実行することが余程むつかしい」
#16ですでに1884年に松方幸次郎がラトガーズ大学フットボール部に入部したことは述べた、従って坂上という人物がウィスコンシン大学でフットボールをかなりの程度まで習得していたというのはありえることと思われる。残念ながら姓だけが伝わっていて名は不明である。従って経歴など詳らかではない。また、「助教」という肩書きも元の英語が不明である。推測だが現在のアシスタント・コーチのように思われる。
以上のように偶然によるアメリカンフットボールとの出会いは幸福ではなかった。「歴史のもし」は繰言にしか過ぎないのだが、このとき高等師範のメンバーがアメリカンフットボールを受け入れていたら日本におけるフットボールの位置づけはかなり変わっていたであろうと思われる。まだ、フォワード・パスがルールに入っていない段階のフットボールは死者を数多く出す競技だった。安全のためもありフォワード・パスを認めるなど大幅なルール改革に着手されるのは1905年からである。それまであと3年だった。
こうして日本でのアメリカンフットボールの偶然による最初の伝播は少しユーモア含んだほろ苦いエピソードとして終った。
中村覚之助は教職に就くため清国山東省に渡る。そこで病を得てルールが変わった1906年、世を去った。わずかに29歳であった。
今年は本欄をお読みいただきありがとうございました。明年掲載第1回は1月7日(水)を予定しております。よいお年をお迎えください。
川口 仁
#29 1902年(明治35年) 日本フットボールことはじめ 1 ―とりかえばやの物語―
投稿日時:2008/12/25(木) 11:33
甲子園ボウルに出かけた。予報では午後雨だったが、ときおり思い出したように雨粒を落としただけで泣き出しそうな雲行きのままゲーム・オーバーになった。甲子園ボウルはもう30年来見つづけている。テレビで見たことも含めると40回近くなる。甲子園ボウルの最初のテレビ中継は1956年(昭和31年)だが、このときはまだ子供で、フットボールのことは知る由もない。継続して見るという意味もあったが、ある選手を彼が高校2年生の時から注目していてそのプレーを見るのも、もうひとつの目的だった。スタジアムを出たころ雨がやってきた。3時間近くほぼ同じ姿勢のまま見ていたので固まった身体を解凍するために銭湯に寄った。露天風呂につかり、顔に雨粒を感じながら雨をやり過ごした。それからせがれと軽くビールを飲み帰宅した。
今回から何回かにわたり時系列的に日本で行われたアメリカンフットボールの試みやゲームについて紹介したい。まず明治時代のわが国における近代スポーツやサッカーのはなしから。
『アッソシエーションフットボール』というサッカーの本がある。1903年(明治36年)10月4日に出版された日本で最初のサッカーの専門書である。「アソシエーション」の間違いではなく当時はこのように表記した。本邦への最初のサッカー紹介は1885年(明治18年)に出版された『西洋戸外遊戯法』、『戸外遊戯法』という2書において行われた。外来スポーツの一つとしてサッカーにもふれているが数ページにとどまっており『アッソシエーションフットボール』のような専門書ではない。この頃サッカーは「フートボール」と表記されることもあった。かなり長い間『戸外遊戯法』(坪井玄道、田中盛業編)が最初の本であると思われていたが、『西洋戸外遊戯法』(下村泰大編)という本が見出され『戸外遊戯法』は先駆けの座をゆずった。ただ、『西洋戸外遊戯法』、1885年3月発行、『戸外遊戯法』、4月発行ときわどく、陸上100m、ゴール写真判定ほどの差しかない。なお、日本で最初にチームを作ったのは1889年に創部した兵庫県尋常師範学校、のちの御影師範学校であるとされているが異説もある。
まだ『西洋戸外遊戯法』が見出されていなかったころ国会図書館で『戸外遊戯法』を読んだ。東京に勤務していた頃、休みにはよく通ってフットボール関係の本を探した。読んだといっても「マイクロフィッシュ」という本をモノクロ・ポジのスライドにしたものである。新聞雑誌の多くは映画フィルムのようなマイクロ・フィルムと呼ばれるものにコピーされる。古い書籍や新聞雑誌は長年たつと紙が酸化して触れるとくずれるような状態になる。これにくらべるとパピルス、羊皮紙、こうぞ、みつまたのほうが文明かもしれない。「マイクロフィッシュ」は一枚がハガキほどの大きさで、ここに見開き2ページ分を10数ミリの方形に縮小しそれを何十枚か焼き込んである。したがって数百ページほどの本でもマイクロフィッシュでは10枚前後になってかさばらない。デジタル化が行われる前には非常に便利なメディアだった。古い本で劣化したものや貴重な書籍がマイクロ化されている。このフィルムをバックライトのついたビューアーにかけてひとコマひとコマ読んでいく。もとがフィルムで鮮明度に限界があるため読みづらいことに加え光源が強い光のハロゲン球であるためかなり疲れる。
先日、ウェブで国会図書館の蔵書検索を行い『アッソシエーションフットボール』を立ち上げたら、結果に見慣れない表示とマークがつけられていた。それぞれ「本文をみる」、「近代デジタルライブラリー」となっている。クリックすると本文ページが現れた。マイクロフィッシュとはくらべものにならないほど鮮明な画面だった。かねてから世界中の図書館の蔵書がネットを通じて閲覧できるようになるということが言われていたが実際に体験したのは今回がはじめてで、すこぶる便利である。最近のネット書店では本の中身を「立ち読み」できるから、こうしたことは今後ますます促進されるだろう。1980年代初頭、アメリカ留学した人の話によると大学図書館のレファレンス検索ではすでに現在のネット検索の初期のものが使用されていたそうである。インターネットそのものの起源はそれよりもさらに10数年さかのぼるので当然かもしれない。
『アッソシエーションフットボール』に載っているイラスト
『西洋戸外遊戯法』や『戸外遊戯法』そして『アッソシエーションフットボール』が出版された明治時代も、そのあとの大正年間も一般にはサッカー、ラグビー、フットボールの区別がはっきりと理解されていたわけではない。それに加え、外来語にいろいろな訳語が考案され始めた時代だった。人口に膾炙(かいしゃ)したところでは、例えば“baseball”に「野球」という訳語が与えられたのも明治中期である。考案者は正岡子規説もあったが現在は子規と同じ旧制第一高等学校野球部の中馬庚(かなえ)であることが分かっている。子規は一時期、名が「升」(のぼる)であったので、これをもじって雅号に「野」(の)+「球」(ぼーる)、「野球」を用いていた。ここより推測しての子規命名説はどこかほほえましい。「まり投げて見たき広場や春の草」など野球を扱った句や歌を残している。子規の名声の大きさは野球殿堂に子規を叙した。中馬庚も子規よりも早く殿堂入りしている。スポーツに関連する訳語はさまざまに変遷し、それが理解と普及の速度を遅くした一因となった。ついでながら現在ではすでに日本語に同化している「スポーツ」という言葉にはまだ訳語がない。この言葉の持つ多義性に対応する日本語を発明できなかったためと思われる。日本ではビリヤードやチェスをスポーツの範疇に入れるには違和感があるようだが西欧ではこれらもスポーツに属している。また、#27で紹介したように富国強兵の国家政策のもとでは軍事教練が重視され体育は副次的な立場に置かれていた。これは戦後も後遺症として残り、スポーツが鍛錬と混同されそれに特化されている場面に出会うのは珍しいことではない。かてて加えて戦前において体育に触れることができたのは、ほぼ旧制中学の生徒に留まっていた。旧制中学への進学率は最盛期でも10%前後であったからスポーツの普及には自ずと限界が生じた。
民俗フットボールはイングランドで規則化され1863年にフットボール・アソシエーションができ、アソシエーションという言葉からサッカーという呼称が生まれた。このアソシエーション・フットボールを略し、サッカーは長い間「ア式蹴球」と呼ばれていた。これにならいラグビーを「ラ式蹴球」、時代がかなりくだってアメリカンフットボールを「米式蹴球」と呼んだ。戦前に創部したフットボールのチームの中にはたとえば早稲田大学のように現在も「米式蹴球部」という名称を使用していることがある。
「ア式蹴球」という言葉が現在でも流通しているところに出会う。数年前にある都市の図書館でアメリカンフットボールに関する資料をお願いしたところ、たくさんありますよ、と言って出してこられたのが「ア式蹴球」という言葉がタイトルに入った本だった。「ア」とつくのでアメリカンフットボールの「ア」と取り違えられたようである。対応いただいた方は20代と見受けられる司書の方だったのでまだまだ根強く残っているようである。
ことのついでに言えば「アメラグ」という言葉もある。アメリカ式のラグビーがつづまったもののようである。新聞、雑誌と言った印刷物に大正末期、あるいは昭和の初期から見られる呼称である。これも現在でも使われることがあり、メディアの方やフットボールの競技経験者の方も使われる。この言い方を好まれない方が大勢おられ、ゴキブリ退治のように矯正しようとされるが、なかなかにタフな言葉で根絶はむつかしいようである。
『アッソシエーションフットボール』を訳したのは中村覚之助という和歌山県那智勝浦出身の東京高等師範学校生であった。前書きによれば、各地の中学校師範学校よりサッカーのゲームの仕方をもとめられたので書いた、とあるので1885年の最初の紹介以降ある程度広まっていたと思われる。中村は翻訳を行い、ア式蹴球部を作り校内で仲間を募った。先に触れたように出版は1903年(明治36年)10月。翻訳は1902年4月に行なったとされているのでこの間出版社をさがしていた可能性がある。まだサッカーというものを知る人が少数だった時代なので版元も出すことをためらったであろうことは容易に想像がつく。結果として大阪に本店を置く鍾美堂という出版社から発行された。中村の出身が関西であることと関連があるのかも知れない。また同時に作成したテキスト通りに実行できるか実際のゲームを通して確認するという作業を行なっていたからとも考えられる。これは後年、東京高等師範学校のラグビー部がアメリカンフットボールの研究を行なった際にも同じように翻訳後、テスト的なゲームを行なうという手順を踏んでいる※。
※#27参照
サッカー日本代表のシンボルマークとなっている「八咫烏(やたがらす)」という三本足の烏は中村覚之助の生家から200mほどのところにある熊野那智大社のシンボルである。早世した中村覚之助に敬意を表し、東京高等師範学校の人たちによってデザインされたと言われている。神話では八咫烏は神武天皇が東征したときその道案内をしたという伝説がある。神話時代のことなのでなんの証拠もないがこの遠征で征服されたネイティブ紀州人、ナガスネヒコ一族は自分たちの祖先だと父が冗談めかして言っていたことがある。
中村覚之助たち東京高等師範学校ア式蹴球部のメンバーは偶然からアメリカンフットボールに出会う。コロンブスがインドに至ろうとして西インド諸島にたどりついたように、サッカーをもとめてアメリカンフットボールに遭遇した。このことについては次回扱いたいと思う。
次回は明日掲載。
今回から何回かにわたり時系列的に日本で行われたアメリカンフットボールの試みやゲームについて紹介したい。まず明治時代のわが国における近代スポーツやサッカーのはなしから。
『アッソシエーションフットボール』というサッカーの本がある。1903年(明治36年)10月4日に出版された日本で最初のサッカーの専門書である。「アソシエーション」の間違いではなく当時はこのように表記した。本邦への最初のサッカー紹介は1885年(明治18年)に出版された『西洋戸外遊戯法』、『戸外遊戯法』という2書において行われた。外来スポーツの一つとしてサッカーにもふれているが数ページにとどまっており『アッソシエーションフットボール』のような専門書ではない。この頃サッカーは「フートボール」と表記されることもあった。かなり長い間『戸外遊戯法』(坪井玄道、田中盛業編)が最初の本であると思われていたが、『西洋戸外遊戯法』(下村泰大編)という本が見出され『戸外遊戯法』は先駆けの座をゆずった。ただ、『西洋戸外遊戯法』、1885年3月発行、『戸外遊戯法』、4月発行ときわどく、陸上100m、ゴール写真判定ほどの差しかない。なお、日本で最初にチームを作ったのは1889年に創部した兵庫県尋常師範学校、のちの御影師範学校であるとされているが異説もある。
まだ『西洋戸外遊戯法』が見出されていなかったころ国会図書館で『戸外遊戯法』を読んだ。東京に勤務していた頃、休みにはよく通ってフットボール関係の本を探した。読んだといっても「マイクロフィッシュ」という本をモノクロ・ポジのスライドにしたものである。新聞雑誌の多くは映画フィルムのようなマイクロ・フィルムと呼ばれるものにコピーされる。古い書籍や新聞雑誌は長年たつと紙が酸化して触れるとくずれるような状態になる。これにくらべるとパピルス、羊皮紙、こうぞ、みつまたのほうが文明かもしれない。「マイクロフィッシュ」は一枚がハガキほどの大きさで、ここに見開き2ページ分を10数ミリの方形に縮小しそれを何十枚か焼き込んである。したがって数百ページほどの本でもマイクロフィッシュでは10枚前後になってかさばらない。デジタル化が行われる前には非常に便利なメディアだった。古い本で劣化したものや貴重な書籍がマイクロ化されている。このフィルムをバックライトのついたビューアーにかけてひとコマひとコマ読んでいく。もとがフィルムで鮮明度に限界があるため読みづらいことに加え光源が強い光のハロゲン球であるためかなり疲れる。
先日、ウェブで国会図書館の蔵書検索を行い『アッソシエーションフットボール』を立ち上げたら、結果に見慣れない表示とマークがつけられていた。それぞれ「本文をみる」、「近代デジタルライブラリー」となっている。クリックすると本文ページが現れた。マイクロフィッシュとはくらべものにならないほど鮮明な画面だった。かねてから世界中の図書館の蔵書がネットを通じて閲覧できるようになるということが言われていたが実際に体験したのは今回がはじめてで、すこぶる便利である。最近のネット書店では本の中身を「立ち読み」できるから、こうしたことは今後ますます促進されるだろう。1980年代初頭、アメリカ留学した人の話によると大学図書館のレファレンス検索ではすでに現在のネット検索の初期のものが使用されていたそうである。インターネットそのものの起源はそれよりもさらに10数年さかのぼるので当然かもしれない。
『アッソシエーションフットボール』に載っているイラスト
『西洋戸外遊戯法』や『戸外遊戯法』そして『アッソシエーションフットボール』が出版された明治時代も、そのあとの大正年間も一般にはサッカー、ラグビー、フットボールの区別がはっきりと理解されていたわけではない。それに加え、外来語にいろいろな訳語が考案され始めた時代だった。人口に膾炙(かいしゃ)したところでは、例えば“baseball”に「野球」という訳語が与えられたのも明治中期である。考案者は正岡子規説もあったが現在は子規と同じ旧制第一高等学校野球部の中馬庚(かなえ)であることが分かっている。子規は一時期、名が「升」(のぼる)であったので、これをもじって雅号に「野」(の)+「球」(ぼーる)、「野球」を用いていた。ここより推測しての子規命名説はどこかほほえましい。「まり投げて見たき広場や春の草」など野球を扱った句や歌を残している。子規の名声の大きさは野球殿堂に子規を叙した。中馬庚も子規よりも早く殿堂入りしている。スポーツに関連する訳語はさまざまに変遷し、それが理解と普及の速度を遅くした一因となった。ついでながら現在ではすでに日本語に同化している「スポーツ」という言葉にはまだ訳語がない。この言葉の持つ多義性に対応する日本語を発明できなかったためと思われる。日本ではビリヤードやチェスをスポーツの範疇に入れるには違和感があるようだが西欧ではこれらもスポーツに属している。また、#27で紹介したように富国強兵の国家政策のもとでは軍事教練が重視され体育は副次的な立場に置かれていた。これは戦後も後遺症として残り、スポーツが鍛錬と混同されそれに特化されている場面に出会うのは珍しいことではない。かてて加えて戦前において体育に触れることができたのは、ほぼ旧制中学の生徒に留まっていた。旧制中学への進学率は最盛期でも10%前後であったからスポーツの普及には自ずと限界が生じた。
民俗フットボールはイングランドで規則化され1863年にフットボール・アソシエーションができ、アソシエーションという言葉からサッカーという呼称が生まれた。このアソシエーション・フットボールを略し、サッカーは長い間「ア式蹴球」と呼ばれていた。これにならいラグビーを「ラ式蹴球」、時代がかなりくだってアメリカンフットボールを「米式蹴球」と呼んだ。戦前に創部したフットボールのチームの中にはたとえば早稲田大学のように現在も「米式蹴球部」という名称を使用していることがある。
「ア式蹴球」という言葉が現在でも流通しているところに出会う。数年前にある都市の図書館でアメリカンフットボールに関する資料をお願いしたところ、たくさんありますよ、と言って出してこられたのが「ア式蹴球」という言葉がタイトルに入った本だった。「ア」とつくのでアメリカンフットボールの「ア」と取り違えられたようである。対応いただいた方は20代と見受けられる司書の方だったのでまだまだ根強く残っているようである。
ことのついでに言えば「アメラグ」という言葉もある。アメリカ式のラグビーがつづまったもののようである。新聞、雑誌と言った印刷物に大正末期、あるいは昭和の初期から見られる呼称である。これも現在でも使われることがあり、メディアの方やフットボールの競技経験者の方も使われる。この言い方を好まれない方が大勢おられ、ゴキブリ退治のように矯正しようとされるが、なかなかにタフな言葉で根絶はむつかしいようである。
『アッソシエーションフットボール』を訳したのは中村覚之助という和歌山県那智勝浦出身の東京高等師範学校生であった。前書きによれば、各地の中学校師範学校よりサッカーのゲームの仕方をもとめられたので書いた、とあるので1885年の最初の紹介以降ある程度広まっていたと思われる。中村は翻訳を行い、ア式蹴球部を作り校内で仲間を募った。先に触れたように出版は1903年(明治36年)10月。翻訳は1902年4月に行なったとされているのでこの間出版社をさがしていた可能性がある。まだサッカーというものを知る人が少数だった時代なので版元も出すことをためらったであろうことは容易に想像がつく。結果として大阪に本店を置く鍾美堂という出版社から発行された。中村の出身が関西であることと関連があるのかも知れない。また同時に作成したテキスト通りに実行できるか実際のゲームを通して確認するという作業を行なっていたからとも考えられる。これは後年、東京高等師範学校のラグビー部がアメリカンフットボールの研究を行なった際にも同じように翻訳後、テスト的なゲームを行なうという手順を踏んでいる※。
※#27参照
サッカー日本代表のシンボルマークとなっている「八咫烏(やたがらす)」という三本足の烏は中村覚之助の生家から200mほどのところにある熊野那智大社のシンボルである。早世した中村覚之助に敬意を表し、東京高等師範学校の人たちによってデザインされたと言われている。神話では八咫烏は神武天皇が東征したときその道案内をしたという伝説がある。神話時代のことなのでなんの証拠もないがこの遠征で征服されたネイティブ紀州人、ナガスネヒコ一族は自分たちの祖先だと父が冗談めかして言っていたことがある。
中村覚之助たち東京高等師範学校ア式蹴球部のメンバーは偶然からアメリカンフットボールに出会う。コロンブスがインドに至ろうとして西インド諸島にたどりついたように、サッカーをもとめてアメリカンフットボールに遭遇した。このことについては次回扱いたいと思う。
次回は明日掲載。
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