石井晃のKGファイターズコラム「スタンドから」 2015/8
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(20)ああ10年、333回
投稿日時:2015/08/27(木) 07:18
高校生の夏休みを利用して毎週1度、開催している勉強会でのことである。先日は、実際のスポーツ選抜入試を想定して、過去問にチャレンジしてもらった。
チームのスタッフが用意してくれた昨年の問題を見て驚いた。村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)から出題されているではないか。
「おお懐かしい。この本については、僕も以前、このコラムで書いたことがある」。そう思って、過去のコラムを繰ってみると、ありました。2007年11月10日に「苦しみは選択事項」というタイトルで書いている。
そこにはこんな言葉がある。「この本の急所に当たる言葉が『痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(選択事項)』であり、オプショナルとしての苦しみを通して学んだメモワールを綴ったのがこの本である」「気持ちの持ち方ひとつ、取り組む姿勢ひとつで、すべての景色が変わってくる。諸君の人生のありようまでが変わってくる。苦しみを力に替え、エネルギーにして、勝利への道を突っ走ってもらいたい」
そのコラムを読み返しながら、毎年、飽きもせず、同じようなことを書いているな、としばし感慨にふけった。
振り返れば、このコラムをファイターズのホームページに書き始めたのは2006年5月。柏木君が主将、いまオフェンスのコーチをしてくれている野原君が副将の時代だった。それから数えて今季は10シーズン目。その間、チームは甲子園ボウルに6回出場し、5度の優勝を飾っている。
その間に書いたコラムは、前回までで計333回。毎回、ざっと2000字を書いたとすると66万6千字、400字詰め原稿用紙にして1665枚になる。
そのうち甲子園ボウルを制覇した5シーズンは、部員にプレゼントするためにその年のコラムを冊子「栄光への軌跡」にまとめて発行しているから、それぞれの年に関しては、即座に手元で原稿を確認できる。いま、2007年版の「栄光への軌跡」を懐かしく読み返しながら「よくぞまあ、書き続けてきたことよ」と半ばあきれ、半ば感心している。
「塵も積もれば山となる」か、それとも「ただのマンネリ」か。評価は読む人に任せるが、本人としては、ファイターズという魅力たっぷりのチームにこの10年、ずっと伴走し、その成長ぶりをつぶさに観察し続けてこられたことに、ある種の幸福感と充実感を味わっている。
よい機会だから、最近、このコラムを読んでくださるようになった読者に、僕がなぜ、このコラムを書くようになったか、そのいきさつを紹介しておきたい。ちょうど「苦しみは選択事項」というコラムを書いた前の週、2007年11月1日にそのことについて書いているので、興味のある人は過去のコラムから引っ張り出して読んでもらうと、事情は明らかだが、ひとことでいえば、こんな話である。
そもそもファイターズのOBでもない、ただの新聞記者(それもスポーツの担当ではなく、生粋の社会部記者)の僕に「ファイターズを中心にしたスポーツコラムを書いてほしい」と声を掛けてくれたのが、当時、オフェンスのコーディネーターをされていた小野コーチだった。
僕はその4年前から、朝日新聞のニュースサイト「アサヒ・コム」に、その名も「スポーツ・ジャーナル」というコラムを毎週書き続けていた。いまは亡き親友がそのサイトの編集長をしていた縁で依頼された仕事だったが、それを書きながら、いつも日本のスポーツジャーナリズムの底の浅さに不信感を持っていた。試合に勝った負けたのことしか関心がなく、なぜ勝ったのか、なぜ敗れたのか、スポーツを通して何を学び、どのように自己実現を図ったのか、というような部分に光を当てたコラムがほとんどないことにいらついていた。
スポーツの専門家が書かない(書けない)のなら、僕が書いてやる。スポーツを興行とか娯楽とか趣味とかいう視点ではなく、もっと文化的、教育的な側面からとらえる見方があってもよかろう。そのためには「素人」の視点こそが不可欠だ。ならば、僕がチャレンジしてやる。そういう野心と心意気でスタートしたのがこのコラムである。
以来、10年。そのトータルが333回、66万字である。当初の目的が達成されたかどうかは、読者の判断に委ねるしかないが、少なくとも僕は「目指す方向性は間違っていなかった」と思っている。
それはこの春、プリンストン大学を招いた際に関西学院大学が開催したシンポジウム「プリンストン大学と考えるグローバル人材の育て方」の中で、双方のパネリストが「課外活動は、人間力を育む」として「文化としてのスポーツ、教育の一環としての課外活動」に焦点を当てて議論を交わしいるのを聴いて、確信に変わった(アリソン体育局副局長の基調講演日本語訳)。
今季もいよいよ関西リーグが開幕する。リーグが始まれば、最終の立命戦まではあっという間。首尾よくライバルたちを倒して甲子園、東京ドームへと駒を進めることができたとしても、ほんの4カ月余の期間である。
けれども、その短い時間の中で、橋本主将を中心にしたファイターズの諸君は、必ずや心に刻む試合を演じてくれるに違いない。そう思うと、週末の開幕戦が待ちきれない。
チームのスタッフが用意してくれた昨年の問題を見て驚いた。村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)から出題されているではないか。
「おお懐かしい。この本については、僕も以前、このコラムで書いたことがある」。そう思って、過去のコラムを繰ってみると、ありました。2007年11月10日に「苦しみは選択事項」というタイトルで書いている。
そこにはこんな言葉がある。「この本の急所に当たる言葉が『痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(選択事項)』であり、オプショナルとしての苦しみを通して学んだメモワールを綴ったのがこの本である」「気持ちの持ち方ひとつ、取り組む姿勢ひとつで、すべての景色が変わってくる。諸君の人生のありようまでが変わってくる。苦しみを力に替え、エネルギーにして、勝利への道を突っ走ってもらいたい」
そのコラムを読み返しながら、毎年、飽きもせず、同じようなことを書いているな、としばし感慨にふけった。
振り返れば、このコラムをファイターズのホームページに書き始めたのは2006年5月。柏木君が主将、いまオフェンスのコーチをしてくれている野原君が副将の時代だった。それから数えて今季は10シーズン目。その間、チームは甲子園ボウルに6回出場し、5度の優勝を飾っている。
その間に書いたコラムは、前回までで計333回。毎回、ざっと2000字を書いたとすると66万6千字、400字詰め原稿用紙にして1665枚になる。
そのうち甲子園ボウルを制覇した5シーズンは、部員にプレゼントするためにその年のコラムを冊子「栄光への軌跡」にまとめて発行しているから、それぞれの年に関しては、即座に手元で原稿を確認できる。いま、2007年版の「栄光への軌跡」を懐かしく読み返しながら「よくぞまあ、書き続けてきたことよ」と半ばあきれ、半ば感心している。
「塵も積もれば山となる」か、それとも「ただのマンネリ」か。評価は読む人に任せるが、本人としては、ファイターズという魅力たっぷりのチームにこの10年、ずっと伴走し、その成長ぶりをつぶさに観察し続けてこられたことに、ある種の幸福感と充実感を味わっている。
よい機会だから、最近、このコラムを読んでくださるようになった読者に、僕がなぜ、このコラムを書くようになったか、そのいきさつを紹介しておきたい。ちょうど「苦しみは選択事項」というコラムを書いた前の週、2007年11月1日にそのことについて書いているので、興味のある人は過去のコラムから引っ張り出して読んでもらうと、事情は明らかだが、ひとことでいえば、こんな話である。
そもそもファイターズのOBでもない、ただの新聞記者(それもスポーツの担当ではなく、生粋の社会部記者)の僕に「ファイターズを中心にしたスポーツコラムを書いてほしい」と声を掛けてくれたのが、当時、オフェンスのコーディネーターをされていた小野コーチだった。
僕はその4年前から、朝日新聞のニュースサイト「アサヒ・コム」に、その名も「スポーツ・ジャーナル」というコラムを毎週書き続けていた。いまは亡き親友がそのサイトの編集長をしていた縁で依頼された仕事だったが、それを書きながら、いつも日本のスポーツジャーナリズムの底の浅さに不信感を持っていた。試合に勝った負けたのことしか関心がなく、なぜ勝ったのか、なぜ敗れたのか、スポーツを通して何を学び、どのように自己実現を図ったのか、というような部分に光を当てたコラムがほとんどないことにいらついていた。
スポーツの専門家が書かない(書けない)のなら、僕が書いてやる。スポーツを興行とか娯楽とか趣味とかいう視点ではなく、もっと文化的、教育的な側面からとらえる見方があってもよかろう。そのためには「素人」の視点こそが不可欠だ。ならば、僕がチャレンジしてやる。そういう野心と心意気でスタートしたのがこのコラムである。
以来、10年。そのトータルが333回、66万字である。当初の目的が達成されたかどうかは、読者の判断に委ねるしかないが、少なくとも僕は「目指す方向性は間違っていなかった」と思っている。
それはこの春、プリンストン大学を招いた際に関西学院大学が開催したシンポジウム「プリンストン大学と考えるグローバル人材の育て方」の中で、双方のパネリストが「課外活動は、人間力を育む」として「文化としてのスポーツ、教育の一環としての課外活動」に焦点を当てて議論を交わしいるのを聴いて、確信に変わった(アリソン体育局副局長の基調講演日本語訳)。
今季もいよいよ関西リーグが開幕する。リーグが始まれば、最終の立命戦まではあっという間。首尾よくライバルたちを倒して甲子園、東京ドームへと駒を進めることができたとしても、ほんの4カ月余の期間である。
けれども、その短い時間の中で、橋本主将を中心にしたファイターズの諸君は、必ずや心に刻む試合を演じてくれるに違いない。そう思うと、週末の開幕戦が待ちきれない。
(19)夏合宿
投稿日時:2015/08/19(水) 14:40
先週末の2日間、休みを利用して東鉢伏に出掛け、ファイターズの夏合宿を見学してきた。監督、コーチ、スタッフ、そして選手が全員、ここが勝負どころと気合いを入れて取り組んでいた。張り詰めた空気。とても半端な取材が出来る雰囲気ではない。2日間、じっとグラウンドの片隅で目に映る光景を眺めていた。以下、そこで見たことの一端を報告する。
?練習の密度
合宿といっても、部員たちが一日中、グラウンドに出ているわけではない。日によってスケジュールは異なるが、午前の練習はJVは8時半から9時半、Vチームは9時半から11時、その後少しばかりアフター練習をすることもある。Vチームが練習をしている時間、JVのメンバーは体幹トレーニングなどに取り組む。
昼食後、簡単なミーティングや休憩をとり、午後の練習はおおむね3時から。ここもJVチームが先にグラウンドで練習、その後にVチームの練習。6時にはすべてを切り上げて食事。その後入浴や洗濯を済ませ、ミーティングが続く。日によっては、ほかに早朝、食事前に短い練習を組み込む日もあるし、キッキングの練習をする日もある。
こうした時間の流れを見れば、意外に練習時間が短い、と感じられる方も多いだろう。しかし、問題は時間ではない。密度である。とにかく練習の開始から終了まで、途中サプリメント補給の短い休憩を挟んで、秒刻みで練習メニューが進んでいく。一つのメニューから次のメニューに移るまでの移動も、スタッフを含めた全員が駆け足。手を抜いて休憩する時間もない。
これは上ヶ原のグラウンドでも同じことだが、合宿に来ると練習の密度がさらに濃密になる。事前にその日のスケジュールと練習メニューを全員に周知し、全員が秒刻みで行動することが習慣になっているからこそ可能なことだろう。
密度だけではない。練習の内容がまた濃い。オフェンスとディフェンスがガチンコで対決し、互いに譲らない。仲間内の練習だからといって手をゆるめたりする部員は一人もいない。当然、けが人も出るが、それも織り込み済みのように思えるほどの迫力のある練習が続く。
僕が夏合宿の見学をするようになって10年ほどになるが、チーム内の競争と練習内容の濃度は毎年、より激しくなっているように思える。
?合宿に参加するOB
ここ数年に限っても、合宿の激励に来てくれるOBは毎年増えている。今年は古いOBの姿も目立った。もちろん、練習台を務めてくれる若手OBも多い。僕が出掛けた日にはなんと最近4年間の主将が全員顔を揃え、練習に加わってくれた。11年卒業の松岡君、12年の梶原君、13年の池永君、そして14年の鷺野君である。それぞれの学年の仲間を誘い合ってきているから、まるで同窓会のようだ。
現役の頃とはまるで違った体型になったOBもいるが、それぞれがファイターズの歴史に残る名選手であり、学生相手に4年間負け知らずのチームを築いた闘将である。それが練習を手伝い、後輩たちに胸を貸してくれた。梶原君のような社会人チームの現役選手もいるし、鷺野君のように「合宿に備えて急きょ、筋トレをしてきました」というOBもいる。
こうした「オールスターメンバー」に加えて5年生でアシスタントコーチを務めている面々が練習台を務めてくれるのだから、現役選手にとっては何よりの刺激になる。仲間内の練習だけでは気付かない気付きも得られる。当然、練習の内容は濃くなっていく。本当にありがたいことだ。
久々に顔を出してくれた古いOBが増えたことも含め、ファイターズというチームが先輩たちの魂のふるさと、帰るべき場所になっているからこそのことだろう。ここに、ファイターズの特徴があり、それがチームの財産になっていると痛感する。
そんな感想を夜、一緒にテーブルを囲んだOB会の役員の方々に話すと、こんな答えが返ってきた。「ファイターズが懐かしくて帰って来るOBはもちろん多い。けれども最近は、自分が現役の頃にやり残したことに再度挑戦しようという気持ちで会に貢献してくれるOBが増えています」
なるほど。そうしたOBも含めて「現役を支援する活動」が盛んになってきたのか。ファイターズ・ホールの設立に尽力し、OB会費の納入率を上げ、夏合宿の激励に訪れるOBが年々増えていくというのは、同じ根っこから育った兄弟なんだ、とこれまたチームの奥行きの深さに感動する。
?平郡君に誓う
8月16日は、平郡雷太君が2003年にこの東鉢伏で亡くなられた日。部員、コーチは全員午前6時半にグラウンドの前に集合し、鳥内監督の言葉を聞いた後、黙祷を捧げた。彼を知っている現役の部員は一人もいないが「平郡雷太」という名前は、全員が知っている。上ヶ原の第3フィールドを見下ろす「平郡君のヤマモモ」の根方にある「平郡君の碑」に毎日頭を下げ、プレートに刻まれた文章を読んでから毎日の練習に取り組んでいるからである。
この合宿にも、平郡君への誓いを刻んだプレートが持ち込まれ、グラウンド入り口の机の上に置かれている。選手たちはグラウンドに降りる前には必ず「平郡さん、勇気を与えて下さい。僕らが高き頂きに挑むために」の言葉で始まるこの誓いを読んで、練習に取り組む。その意味で、平郡君もまた、毎年、この合宿に参加し、後輩たちを励ましてくれる得難い先輩である。
こういう先輩に終始見守られ、励まし、叱咤されているファイターズというチーム。その濃密な練習とOBとの絆、チームのたたずまいの一端をご紹介できるのは、何よりもうれしいことである。
?練習の密度
合宿といっても、部員たちが一日中、グラウンドに出ているわけではない。日によってスケジュールは異なるが、午前の練習はJVは8時半から9時半、Vチームは9時半から11時、その後少しばかりアフター練習をすることもある。Vチームが練習をしている時間、JVのメンバーは体幹トレーニングなどに取り組む。
昼食後、簡単なミーティングや休憩をとり、午後の練習はおおむね3時から。ここもJVチームが先にグラウンドで練習、その後にVチームの練習。6時にはすべてを切り上げて食事。その後入浴や洗濯を済ませ、ミーティングが続く。日によっては、ほかに早朝、食事前に短い練習を組み込む日もあるし、キッキングの練習をする日もある。
こうした時間の流れを見れば、意外に練習時間が短い、と感じられる方も多いだろう。しかし、問題は時間ではない。密度である。とにかく練習の開始から終了まで、途中サプリメント補給の短い休憩を挟んで、秒刻みで練習メニューが進んでいく。一つのメニューから次のメニューに移るまでの移動も、スタッフを含めた全員が駆け足。手を抜いて休憩する時間もない。
これは上ヶ原のグラウンドでも同じことだが、合宿に来ると練習の密度がさらに濃密になる。事前にその日のスケジュールと練習メニューを全員に周知し、全員が秒刻みで行動することが習慣になっているからこそ可能なことだろう。
密度だけではない。練習の内容がまた濃い。オフェンスとディフェンスがガチンコで対決し、互いに譲らない。仲間内の練習だからといって手をゆるめたりする部員は一人もいない。当然、けが人も出るが、それも織り込み済みのように思えるほどの迫力のある練習が続く。
僕が夏合宿の見学をするようになって10年ほどになるが、チーム内の競争と練習内容の濃度は毎年、より激しくなっているように思える。
?合宿に参加するOB
ここ数年に限っても、合宿の激励に来てくれるOBは毎年増えている。今年は古いOBの姿も目立った。もちろん、練習台を務めてくれる若手OBも多い。僕が出掛けた日にはなんと最近4年間の主将が全員顔を揃え、練習に加わってくれた。11年卒業の松岡君、12年の梶原君、13年の池永君、そして14年の鷺野君である。それぞれの学年の仲間を誘い合ってきているから、まるで同窓会のようだ。
現役の頃とはまるで違った体型になったOBもいるが、それぞれがファイターズの歴史に残る名選手であり、学生相手に4年間負け知らずのチームを築いた闘将である。それが練習を手伝い、後輩たちに胸を貸してくれた。梶原君のような社会人チームの現役選手もいるし、鷺野君のように「合宿に備えて急きょ、筋トレをしてきました」というOBもいる。
こうした「オールスターメンバー」に加えて5年生でアシスタントコーチを務めている面々が練習台を務めてくれるのだから、現役選手にとっては何よりの刺激になる。仲間内の練習だけでは気付かない気付きも得られる。当然、練習の内容は濃くなっていく。本当にありがたいことだ。
久々に顔を出してくれた古いOBが増えたことも含め、ファイターズというチームが先輩たちの魂のふるさと、帰るべき場所になっているからこそのことだろう。ここに、ファイターズの特徴があり、それがチームの財産になっていると痛感する。
そんな感想を夜、一緒にテーブルを囲んだOB会の役員の方々に話すと、こんな答えが返ってきた。「ファイターズが懐かしくて帰って来るOBはもちろん多い。けれども最近は、自分が現役の頃にやり残したことに再度挑戦しようという気持ちで会に貢献してくれるOBが増えています」
なるほど。そうしたOBも含めて「現役を支援する活動」が盛んになってきたのか。ファイターズ・ホールの設立に尽力し、OB会費の納入率を上げ、夏合宿の激励に訪れるOBが年々増えていくというのは、同じ根っこから育った兄弟なんだ、とこれまたチームの奥行きの深さに感動する。
?平郡君に誓う
8月16日は、平郡雷太君が2003年にこの東鉢伏で亡くなられた日。部員、コーチは全員午前6時半にグラウンドの前に集合し、鳥内監督の言葉を聞いた後、黙祷を捧げた。彼を知っている現役の部員は一人もいないが「平郡雷太」という名前は、全員が知っている。上ヶ原の第3フィールドを見下ろす「平郡君のヤマモモ」の根方にある「平郡君の碑」に毎日頭を下げ、プレートに刻まれた文章を読んでから毎日の練習に取り組んでいるからである。
この合宿にも、平郡君への誓いを刻んだプレートが持ち込まれ、グラウンド入り口の机の上に置かれている。選手たちはグラウンドに降りる前には必ず「平郡さん、勇気を与えて下さい。僕らが高き頂きに挑むために」の言葉で始まるこの誓いを読んで、練習に取り組む。その意味で、平郡君もまた、毎年、この合宿に参加し、後輩たちを励ましてくれる得難い先輩である。
こういう先輩に終始見守られ、励まし、叱咤されているファイターズというチーム。その濃密な練習とOBとの絆、チームのたたずまいの一端をご紹介できるのは、何よりもうれしいことである。
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