石井晃のKGファイターズコラム「スタンドから」 2010/9
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(22)スペシャリストの活躍
投稿日時:2010/09/21(火) 09:34
「刮目(かつもく)して相待つべし」という言葉がある。有為の人材は、別れて3日後に会っても、目をこすって見直さなければならない、彼は必ず進歩している、いままでの先入観で判断してはならない、というような意味である。
秋のリーグ戦2戦目、近大との試合では、その言葉を思い起こすような場面に、たびたび遭遇した。
まずは、ハーフライン付近から始まったファイターズの最初の攻撃。第1プレーで、QB加藤からピッチを受けたRB稲村が左のライン際を駆け上がり、そのまま49ヤードを走り切ってタッチダウン(TD)。追いすがる相手守備陣をかわす絶妙のステップが目を見張らせた。初戦でエースRBの松岡と久司が負傷したことに発憤したのだろうか。驚くような成長ぶりだった。
ふたつ目は、主将・平澤を柱とするDL陣の成長ぶり。この日は平澤(4年)、梶原(2年)、長島(3年)、池永(1年)の4人が先発したが、その全員が大暴れ。QBサックやロスタックルを立て続けに見舞い、相手攻撃陣を完封した。
途中から交代で入った佐藤(3年)、朝倉(2年)、岸(2年)もそれぞれQBサックを記録。終わってみれば、相手攻撃をトータルでわずか1ヤード、ランプレーに至っては37回の攻撃でマイナス6ヤードという信じられない記録を作った。
1列目の面々が入れ替わり立ち代わりボールキャリアに襲い掛かるのだから、2列目、3列目の選手たちが活躍する場面がないように見えるほど(もちろん、2Qに鮮やかなインターセプトTDを決めたDB吉井駿哉をはじめ要所要所では活躍しているのだが、スタンドから見ていると、相手のほとんどのプレーを1列目が処理してしまっているように見えた)だった。
試合後、平澤主将に「存分に暴れて楽しかったやろ」と声をかけると「下級生がオレもオレもと競争で頑張ってくれたので……。あれだけ後輩が勢いよくプレーしてくれると、僕も思い切りに動けます」とにっこり。「みんな自信をつけたので、次からもいいプレーをしてくれるでしょう」と付け加えた。
言葉通り、3戦目以降も括目して待とう。下級生が試合ごとに経験を積み、成長していく姿を見るのはワクワクする。
稲村の好走、守備陣の活躍、それぞれに大満足。「満腹、満腹、ごちそうさん」といいたいところだったが、この日の真打ちは、ほかにいた。キッキングゲームで、リターナーとして活躍した尾崎である。彼の活躍ぶりこそ「括目して待っていた」内容だった。
記録を見ると、彼がボールに手を触れたのはキックオフリターンが1回12ヤード、パントリターンが5回161ヤード。獲得距離も素晴らしいが、そのうち2回が一発TDである。1Q8分37秒の55ヤード、4Q5分10秒の65ヤード。相手に警戒されながら、それでも守備陣を切り裂いて一気にゴールラインまで走り切る走力。ブロッカーを使う巧みなカット。スタンドからもどよめきが上がった。
スペシャリストの面目躍如。こんなプレーは、これから対戦する関大の選手の前で見せずに隠しておきたい、と贅沢なことを考えたほどだった。
思えばファイターズが好成績を残した年には、必ず信頼できるスペシャリストがいた。最近では、甲子園ボウルを制した2007年度卒のスナッパー小林雄一郎君。体が小さく、スタメンを奪うことはできなかったが、ロングスナップのスペシャリストとして欠かせぬ存在だった。ファイターズがキックを選択する場面になるたびに登場し、キッカーの大西君に正確無比なボールを供給、彼の活躍を支えた。その甲子園ボウルで、三原君から起死回生のパスを受け、ファイターズの攻撃を繋げたFB多田羅君も、そのプレーを成功させるためだけに1年間を費やしたようなスペシャリストだった。
昨年のチームでいえば、4年生QBの浅海君がそんな役割を果たしていた。最終の立命戦で披露したバスケットボールのゴールシーンのようなパスも、彼が1年間、WR柴田君らと組んで、磨きに磨いた技だった。
ファイターズには、スタッフを除いても150人もの部員がいる。いくら交代自由のアメフットとはいえ、その全員がプレーヤーとして出場し、チームに貢献するのは難しい。けれども、ひとつでも長所があれば、それを磨き抜くことで道は開ける。背の低い者は誰よりも低いタックルをすることで役割が果たせるし、足の速い者はそれで貢献できる。スナッパーもキッカーも、ホールダーも、一芸を磨くことで、役割を果たせる。
こうしてチームに所属するさまざまなメンバーがそれぞれの役割、居場所を見つけることができれば、チームのモラルも向上する。
そういう考え方で、各人がそれぞれ活躍できる場面を想定し、日々黙々と練習しているのがファイターズである。そのリーダー格の尾崎君が颯爽と走る姿を見て、彼らの活躍の場が広がったことを実感できたことがうれしかった。
リーグ戦は始まったばかり。これから対戦するチームは当然、対策を講じてくるだろうが、その警戒網をかいくぐってさらなる活躍をしてほしい。スペシャリストの活躍が現実になったとき、ファイターズの「日本1」が見えてくるはずだ。
秋のリーグ戦2戦目、近大との試合では、その言葉を思い起こすような場面に、たびたび遭遇した。
まずは、ハーフライン付近から始まったファイターズの最初の攻撃。第1プレーで、QB加藤からピッチを受けたRB稲村が左のライン際を駆け上がり、そのまま49ヤードを走り切ってタッチダウン(TD)。追いすがる相手守備陣をかわす絶妙のステップが目を見張らせた。初戦でエースRBの松岡と久司が負傷したことに発憤したのだろうか。驚くような成長ぶりだった。
ふたつ目は、主将・平澤を柱とするDL陣の成長ぶり。この日は平澤(4年)、梶原(2年)、長島(3年)、池永(1年)の4人が先発したが、その全員が大暴れ。QBサックやロスタックルを立て続けに見舞い、相手攻撃陣を完封した。
途中から交代で入った佐藤(3年)、朝倉(2年)、岸(2年)もそれぞれQBサックを記録。終わってみれば、相手攻撃をトータルでわずか1ヤード、ランプレーに至っては37回の攻撃でマイナス6ヤードという信じられない記録を作った。
1列目の面々が入れ替わり立ち代わりボールキャリアに襲い掛かるのだから、2列目、3列目の選手たちが活躍する場面がないように見えるほど(もちろん、2Qに鮮やかなインターセプトTDを決めたDB吉井駿哉をはじめ要所要所では活躍しているのだが、スタンドから見ていると、相手のほとんどのプレーを1列目が処理してしまっているように見えた)だった。
試合後、平澤主将に「存分に暴れて楽しかったやろ」と声をかけると「下級生がオレもオレもと競争で頑張ってくれたので……。あれだけ後輩が勢いよくプレーしてくれると、僕も思い切りに動けます」とにっこり。「みんな自信をつけたので、次からもいいプレーをしてくれるでしょう」と付け加えた。
言葉通り、3戦目以降も括目して待とう。下級生が試合ごとに経験を積み、成長していく姿を見るのはワクワクする。
稲村の好走、守備陣の活躍、それぞれに大満足。「満腹、満腹、ごちそうさん」といいたいところだったが、この日の真打ちは、ほかにいた。キッキングゲームで、リターナーとして活躍した尾崎である。彼の活躍ぶりこそ「括目して待っていた」内容だった。
記録を見ると、彼がボールに手を触れたのはキックオフリターンが1回12ヤード、パントリターンが5回161ヤード。獲得距離も素晴らしいが、そのうち2回が一発TDである。1Q8分37秒の55ヤード、4Q5分10秒の65ヤード。相手に警戒されながら、それでも守備陣を切り裂いて一気にゴールラインまで走り切る走力。ブロッカーを使う巧みなカット。スタンドからもどよめきが上がった。
スペシャリストの面目躍如。こんなプレーは、これから対戦する関大の選手の前で見せずに隠しておきたい、と贅沢なことを考えたほどだった。
思えばファイターズが好成績を残した年には、必ず信頼できるスペシャリストがいた。最近では、甲子園ボウルを制した2007年度卒のスナッパー小林雄一郎君。体が小さく、スタメンを奪うことはできなかったが、ロングスナップのスペシャリストとして欠かせぬ存在だった。ファイターズがキックを選択する場面になるたびに登場し、キッカーの大西君に正確無比なボールを供給、彼の活躍を支えた。その甲子園ボウルで、三原君から起死回生のパスを受け、ファイターズの攻撃を繋げたFB多田羅君も、そのプレーを成功させるためだけに1年間を費やしたようなスペシャリストだった。
昨年のチームでいえば、4年生QBの浅海君がそんな役割を果たしていた。最終の立命戦で披露したバスケットボールのゴールシーンのようなパスも、彼が1年間、WR柴田君らと組んで、磨きに磨いた技だった。
ファイターズには、スタッフを除いても150人もの部員がいる。いくら交代自由のアメフットとはいえ、その全員がプレーヤーとして出場し、チームに貢献するのは難しい。けれども、ひとつでも長所があれば、それを磨き抜くことで道は開ける。背の低い者は誰よりも低いタックルをすることで役割が果たせるし、足の速い者はそれで貢献できる。スナッパーもキッカーも、ホールダーも、一芸を磨くことで、役割を果たせる。
こうしてチームに所属するさまざまなメンバーがそれぞれの役割、居場所を見つけることができれば、チームのモラルも向上する。
そういう考え方で、各人がそれぞれ活躍できる場面を想定し、日々黙々と練習しているのがファイターズである。そのリーダー格の尾崎君が颯爽と走る姿を見て、彼らの活躍の場が広がったことを実感できたことがうれしかった。
リーグ戦は始まったばかり。これから対戦するチームは当然、対策を講じてくるだろうが、その警戒網をかいくぐってさらなる活躍をしてほしい。スペシャリストの活躍が現実になったとき、ファイターズの「日本1」が見えてくるはずだ。
(21)イヤーブックと大人の経験知
投稿日時:2010/09/14(火) 00:56
ファイターズの2010年度イヤーブックが出来上がった。さっそくページを開き、端から端まで丁寧に読み込む。
例年通りの部長や学長、院長の挨拶、主将の抱負、パートごとの紹介から始まり、「なんでもベスト3」と名付けた部内のランキング、大学から高校、中学校、そして啓明学院の高校、中学校、さらには女子タッチフットボール部に至るまで個々のデータをしっかり盛り込んだ選手・部員紹介へと続く。
今年は、ビッグプレーメーカーの特集、コーチとしてジャーマン・ジャパンボウルに参加した神田コーチの随想や南メソジスト大学に出掛け、練習にも参加した松原弘樹君の体験記もあり、読み応えは十分。例年通りチームの過去の戦績と卒業生の一覧、過去3年間の卒業生の進路一覧もあるので、資料的な価値も高い。僕もこのコラムを書くときに、基礎資料としてたびたび利用させていただいている。
編集の実務は毎年、3年生マネジャーが担当している。今年はリクルーター担当でもある森田義樹君。昨年は竹田ゆいさん、その前の年は豊田早穂さんが担当だった。
チームに出入りしている関係で、この編集作業を横合いから垣間見る機会がある。それを通じて、いろいろ思うところもある。内輪の話になるが、その一端を紹介してみたい。それによってファイターズというチームの特徴を紹介することも可能だろう。
この編集作業は、新しいチームがスタートすると同時に始まる。まずは企画を立て、広告を集める段取りから開始。その年の部員がほぼ確定する6月になると、写真の撮影(今年は名鑑に使う顔写真だけで計605人。膨大な人数だから、その作業だけでも大変だ)やゲーム写真の選択作業が始まる。同時に原稿を集め、7月になると編集、校閲の作業に入る。7月には前期試験があるから、試験勉強と同時並行だ。8月には2度の合宿もあるし、リクルーター担当マネジャーはスポーツ推薦で受験する高校生の世話もしなければならない。
しかし、どんなに忙しくても秋のシーズン開始までに完成させ、市販しなければならないという制約があるから、作業工程(各種の締め切り)は厳守。有料で販売し、資料として利用する人もいるから、校正ミスなど間違いは許されない。
当然、担当者一人の手に負えるものではない。ディレクター補佐の宮本敬士氏をはじめコーチやスタッフが協力して、企画から編集、校正までの作業を手助けする。
聞けば、イヤーブックを初めて手掛けたのは、当時のヘッドコーチで、現在はチームのディレクターをしている伊角富三氏。伊角氏の話では「1970年代の後半、アメリカで発行されていたメディアガイドから発想し、その真似事で始めた。77年と78年はメンバー表を少し詳しくしたぐらいで、イヤーブックの体裁になったのはたしか79年から。当時、日本でイヤーブックを発行しているチームはなく、ファイターズが初めて手掛けた。部員にプライドを持たせ、責任を自覚させるためにも効果があったと思う」という。
その当時から、編集や企画についてはマネジャーの担当だったが、広告集めや校正の仕事は伊角氏の受け持ち。「主体はあくまで学生だったが、大人が関与することで、社会的に信頼してもらえた。誌面企画にあたり、大人の経験知を伝えることで、内容的にも次第に充実してきた」と伊角さん。
この「大人の経験知を伝える」という仕組みが、実はファイターズの特徴であり、ファイターズの生命線だと僕は考えている。
大学生の課外活動である以上、学生が活動できるのは4年間。どんなに優秀、有能であっても、5年目には現場を離れなければならない。これは、グラウンドに出る選手であっても、それを支えるスタッフであっても等しく与えられた制約である。
その制約の中で、チームをどのように強くしていくか、どう育てていくか。これを考えると、当然監督・コーチを初め、チームにかかわる大人の役割が見えてくる。コーチには4年間という時間の制約がない。毎年のチーム作りの中で蓄えたノウハウを経験知として蓄積し、それを選手たちに伝えることができる。同様に、スタッフを支える人たちも毎年積み重ねた経験知をチームに還元することができる。
これによって学生の情熱と実行力を刺激することができれば、同じ4年間でも学生の伸びる可能性は大きくなる。仕事のできる範囲も広がる。選手に技術的なことを指導するだけでなく、戦術の面でも、育成方法や組織づくりの点でも、大人の経験知を適切に伝承することの効果は計り知れないのである。
ファイターズでは、これがイヤーブックの制作にも生かされている。だからこそ、僕たちは毎年、秋のシーズンが開幕するまでに、商品として充実し、資料的な価値も高いイヤーブックを手にすることができるのである。
例年通りの部長や学長、院長の挨拶、主将の抱負、パートごとの紹介から始まり、「なんでもベスト3」と名付けた部内のランキング、大学から高校、中学校、そして啓明学院の高校、中学校、さらには女子タッチフットボール部に至るまで個々のデータをしっかり盛り込んだ選手・部員紹介へと続く。
今年は、ビッグプレーメーカーの特集、コーチとしてジャーマン・ジャパンボウルに参加した神田コーチの随想や南メソジスト大学に出掛け、練習にも参加した松原弘樹君の体験記もあり、読み応えは十分。例年通りチームの過去の戦績と卒業生の一覧、過去3年間の卒業生の進路一覧もあるので、資料的な価値も高い。僕もこのコラムを書くときに、基礎資料としてたびたび利用させていただいている。
編集の実務は毎年、3年生マネジャーが担当している。今年はリクルーター担当でもある森田義樹君。昨年は竹田ゆいさん、その前の年は豊田早穂さんが担当だった。
チームに出入りしている関係で、この編集作業を横合いから垣間見る機会がある。それを通じて、いろいろ思うところもある。内輪の話になるが、その一端を紹介してみたい。それによってファイターズというチームの特徴を紹介することも可能だろう。
この編集作業は、新しいチームがスタートすると同時に始まる。まずは企画を立て、広告を集める段取りから開始。その年の部員がほぼ確定する6月になると、写真の撮影(今年は名鑑に使う顔写真だけで計605人。膨大な人数だから、その作業だけでも大変だ)やゲーム写真の選択作業が始まる。同時に原稿を集め、7月になると編集、校閲の作業に入る。7月には前期試験があるから、試験勉強と同時並行だ。8月には2度の合宿もあるし、リクルーター担当マネジャーはスポーツ推薦で受験する高校生の世話もしなければならない。
しかし、どんなに忙しくても秋のシーズン開始までに完成させ、市販しなければならないという制約があるから、作業工程(各種の締め切り)は厳守。有料で販売し、資料として利用する人もいるから、校正ミスなど間違いは許されない。
当然、担当者一人の手に負えるものではない。ディレクター補佐の宮本敬士氏をはじめコーチやスタッフが協力して、企画から編集、校正までの作業を手助けする。
聞けば、イヤーブックを初めて手掛けたのは、当時のヘッドコーチで、現在はチームのディレクターをしている伊角富三氏。伊角氏の話では「1970年代の後半、アメリカで発行されていたメディアガイドから発想し、その真似事で始めた。77年と78年はメンバー表を少し詳しくしたぐらいで、イヤーブックの体裁になったのはたしか79年から。当時、日本でイヤーブックを発行しているチームはなく、ファイターズが初めて手掛けた。部員にプライドを持たせ、責任を自覚させるためにも効果があったと思う」という。
その当時から、編集や企画についてはマネジャーの担当だったが、広告集めや校正の仕事は伊角氏の受け持ち。「主体はあくまで学生だったが、大人が関与することで、社会的に信頼してもらえた。誌面企画にあたり、大人の経験知を伝えることで、内容的にも次第に充実してきた」と伊角さん。
この「大人の経験知を伝える」という仕組みが、実はファイターズの特徴であり、ファイターズの生命線だと僕は考えている。
大学生の課外活動である以上、学生が活動できるのは4年間。どんなに優秀、有能であっても、5年目には現場を離れなければならない。これは、グラウンドに出る選手であっても、それを支えるスタッフであっても等しく与えられた制約である。
その制約の中で、チームをどのように強くしていくか、どう育てていくか。これを考えると、当然監督・コーチを初め、チームにかかわる大人の役割が見えてくる。コーチには4年間という時間の制約がない。毎年のチーム作りの中で蓄えたノウハウを経験知として蓄積し、それを選手たちに伝えることができる。同様に、スタッフを支える人たちも毎年積み重ねた経験知をチームに還元することができる。
これによって学生の情熱と実行力を刺激することができれば、同じ4年間でも学生の伸びる可能性は大きくなる。仕事のできる範囲も広がる。選手に技術的なことを指導するだけでなく、戦術の面でも、育成方法や組織づくりの点でも、大人の経験知を適切に伝承することの効果は計り知れないのである。
ファイターズでは、これがイヤーブックの制作にも生かされている。だからこそ、僕たちは毎年、秋のシーズンが開幕するまでに、商品として充実し、資料的な価値も高いイヤーブックを手にすることができるのである。
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