石井晃のKGファイターズコラム「スタンドから」 2009/6
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(12)鮮やかな逆転勝利、だけど。
投稿日時:2009/06/22(月) 17:53
11-10。19日の関大戦は、試合終了8秒前、ファイターズがQB加藤からRB久司に鮮やかなショベルパスを決め、2点をもぎ取って逆転勝ち。詰めかけた大勢のファンが「すごい追い上げ。まるで1昨年の甲子園ボウルみたい」と大喜びする幕切れだった。
たしかに、自陣27ヤード地点から始まった最後の攻撃シリーズは素晴らしかった。実は、この攻撃シリーズは、ある意味で関大からもらったチャンスだった。説明しよ
う。
物語は、その前のファイターズの攻撃シリーズから始まる。3-10でリードする関大を追うファイターズの攻撃は、自陣26ヤード付近から。まずQB浅海のキープで8ヤード、続く久司のランでダウンを更新。ここまではよかった。しかし、ここでファイターズのOLに手痛いパーソナルファールがあり、15ヤードの罰退。起死回生のパスを狙ったが、相手守備陣に狙い澄ましたブリッツを決められ、陣地は後退するばかり。第4ダウンでパントを蹴ろうとした時点ではゴール前3ヤード付近まで追いつめられた。
あわやセーフティーというピンチだったが、K高野が落ち着いてパントを決め、自陣47ヤード付近まで盛り返して、攻撃権は関大に移る。勢いに乗る相手は、この局面からぐいぐいとランプレーで押し込み、気がつけばゴール前25ヤード付近に迫っている。第4ダウン1ヤード。さあ、フィールドゴールを決めてファイターズを突き放すか、それとも勢いに乗って第4ダウンも攻撃してくるか。3点を取られ、3-13とされれば、残り時間から考えて、ファイターズにほとんど勝ち目はない。けれども、強い風が吹く中で42ヤードという距離は、微妙。この日の彼我の勢いから考えると、押せ押せムードに乗ってギャンブルに来る選択も当然考えられる。
案の定、関大は第4ダウンも攻撃を選択。それをファイターズ守備陣が極端に言えば「全員ブリッツ」とでもいうようなプレーで食い止めたのだ。この時のDLは、4人中3人が1年生。金本(滝川)、梶原(箕面自由)、早坂(法政二)という、ほとんど試合経験のない面々である。彼らが相手OLに真っ向から当たった瞬間に、吉川を中心にしたLB陣が相手のボールキャリアに襲いかかり、攻撃を食い止めた。チーム一丸となった見事なプレーだった。
もし、相手がFGを選択していたら、もし、QBがRBにボールを渡さず、自ら中央を突破するプレーを選択していたら、というのは結果論。だが、とにかくファイターズは、最高の形で攻撃権を手に入れたのである。
そこからの攻撃は、鮮やかだった。まず、加藤からTE垣内への短いパスを決めて陣地を進め、次は加藤からWR松原への22ヤードパスで相手陣に攻め込む。次のパスは失敗したが、続けてWR萬代に10ヤードのパスを決めてダウン更新。敵陣35ヤードからの攻撃はまたもやWR柴田へのパス。ここで相手DBがインターフェアの反則で敵陣21ヤード。ここでまた垣内への短いパスとRB松岡へのスクリーン気味のパスが通ってついにゴール前10ヤード。
相手がパスを警戒する中で、あえてパスを投げ続け、一気に60ヤード以上を稼いだファイターズのパス攻撃がさえる。しかし、ここで再び、OLが手痛い反則。トリッピングで15ヤードを下げられてしまう。
残り時間はどんどんなくなっていく。パスを警戒されても、パスで行くしかない、と思ったところで、加藤から松岡への絶妙のドロープレー。松岡が中央を走り込み、残り4ヤード。ここでタイムアウトをとり、じっくり作戦を練って加藤から松原へのパス。これを相手DBがゴール内でインターフェア。ゴール前2ヤードからの攻撃を加藤が右隅に走り込んでTD。残り時間8秒というギリギリの場面で9-10に追い上げる。
さあ、ここでどうする。成功する確率は低くても2点を取って勝ちに行くか、確実にキックで同点、引き分けを狙うか。当然のことながら、ベンチが選択したのは勝ちに行くプレー。ここで、加藤から久司へのショベルパスが見事に決まって、11-10。薄氷の逆転勝利を収めた。
と、ファイターズが鮮やかに攻め込んだ場面だけを取り上げれば、まさに1昨年の甲子園ボウル、日大戦の幕切れを思わせる劇的な勝利である。だが、現実はそんなにかっこいいモノではない。試合開始当初から、関大の周到なランプレーに押しまくられ、ディフェンスは四苦八苦。攻撃も、要所要所で相手にラインを割られたり手痛い反則を犯したりして、リズムに乗れない。終始、相手に先手を許し、最後の最後まで苦しい戦いを強いられたのが実情である。それは相手の獲得ヤードが237ヤード、ファイターズが最後の73ヤードのTDドライブを含めて185ヤードという数字をみても、明かである。
かろうじてK高野のロングパントと、K大西の45ヤードフィールドゴールで、接戦に持ち込んでいたが、これが秋のリーグ戦だったら、と背筋が寒くなったのでは、僕だけではあるまい。
思えば、春のシーズンは日大、京大に勝つには勝ったが圧倒され、その後の明治とアサヒ飲料には敗戦。そして最終の関大戦も、あわやというところまで追いつめられた。鮮やかな逆転勝ちを喜んでいるような状況ではないのである。
これらの試合で突きつけられた、たくさんの宿題にどんな回答を用意するか。立命に勝って日本1というのなら、ファイターズの全員が、宮本武蔵が「五輪書」にいう「よくよく工夫し、朝鍛、夕錬を重ねるべし」。すなわち、自分のやるべきことを見据え、工夫し、朝に鍛錬、夕べに鍛錬を重ねるしかないのである。がんばろうではないか。
たしかに、自陣27ヤード地点から始まった最後の攻撃シリーズは素晴らしかった。実は、この攻撃シリーズは、ある意味で関大からもらったチャンスだった。説明しよ
う。
物語は、その前のファイターズの攻撃シリーズから始まる。3-10でリードする関大を追うファイターズの攻撃は、自陣26ヤード付近から。まずQB浅海のキープで8ヤード、続く久司のランでダウンを更新。ここまではよかった。しかし、ここでファイターズのOLに手痛いパーソナルファールがあり、15ヤードの罰退。起死回生のパスを狙ったが、相手守備陣に狙い澄ましたブリッツを決められ、陣地は後退するばかり。第4ダウンでパントを蹴ろうとした時点ではゴール前3ヤード付近まで追いつめられた。
あわやセーフティーというピンチだったが、K高野が落ち着いてパントを決め、自陣47ヤード付近まで盛り返して、攻撃権は関大に移る。勢いに乗る相手は、この局面からぐいぐいとランプレーで押し込み、気がつけばゴール前25ヤード付近に迫っている。第4ダウン1ヤード。さあ、フィールドゴールを決めてファイターズを突き放すか、それとも勢いに乗って第4ダウンも攻撃してくるか。3点を取られ、3-13とされれば、残り時間から考えて、ファイターズにほとんど勝ち目はない。けれども、強い風が吹く中で42ヤードという距離は、微妙。この日の彼我の勢いから考えると、押せ押せムードに乗ってギャンブルに来る選択も当然考えられる。
案の定、関大は第4ダウンも攻撃を選択。それをファイターズ守備陣が極端に言えば「全員ブリッツ」とでもいうようなプレーで食い止めたのだ。この時のDLは、4人中3人が1年生。金本(滝川)、梶原(箕面自由)、早坂(法政二)という、ほとんど試合経験のない面々である。彼らが相手OLに真っ向から当たった瞬間に、吉川を中心にしたLB陣が相手のボールキャリアに襲いかかり、攻撃を食い止めた。チーム一丸となった見事なプレーだった。
もし、相手がFGを選択していたら、もし、QBがRBにボールを渡さず、自ら中央を突破するプレーを選択していたら、というのは結果論。だが、とにかくファイターズは、最高の形で攻撃権を手に入れたのである。
そこからの攻撃は、鮮やかだった。まず、加藤からTE垣内への短いパスを決めて陣地を進め、次は加藤からWR松原への22ヤードパスで相手陣に攻め込む。次のパスは失敗したが、続けてWR萬代に10ヤードのパスを決めてダウン更新。敵陣35ヤードからの攻撃はまたもやWR柴田へのパス。ここで相手DBがインターフェアの反則で敵陣21ヤード。ここでまた垣内への短いパスとRB松岡へのスクリーン気味のパスが通ってついにゴール前10ヤード。
相手がパスを警戒する中で、あえてパスを投げ続け、一気に60ヤード以上を稼いだファイターズのパス攻撃がさえる。しかし、ここで再び、OLが手痛い反則。トリッピングで15ヤードを下げられてしまう。
残り時間はどんどんなくなっていく。パスを警戒されても、パスで行くしかない、と思ったところで、加藤から松岡への絶妙のドロープレー。松岡が中央を走り込み、残り4ヤード。ここでタイムアウトをとり、じっくり作戦を練って加藤から松原へのパス。これを相手DBがゴール内でインターフェア。ゴール前2ヤードからの攻撃を加藤が右隅に走り込んでTD。残り時間8秒というギリギリの場面で9-10に追い上げる。
さあ、ここでどうする。成功する確率は低くても2点を取って勝ちに行くか、確実にキックで同点、引き分けを狙うか。当然のことながら、ベンチが選択したのは勝ちに行くプレー。ここで、加藤から久司へのショベルパスが見事に決まって、11-10。薄氷の逆転勝利を収めた。
と、ファイターズが鮮やかに攻め込んだ場面だけを取り上げれば、まさに1昨年の甲子園ボウル、日大戦の幕切れを思わせる劇的な勝利である。だが、現実はそんなにかっこいいモノではない。試合開始当初から、関大の周到なランプレーに押しまくられ、ディフェンスは四苦八苦。攻撃も、要所要所で相手にラインを割られたり手痛い反則を犯したりして、リズムに乗れない。終始、相手に先手を許し、最後の最後まで苦しい戦いを強いられたのが実情である。それは相手の獲得ヤードが237ヤード、ファイターズが最後の73ヤードのTDドライブを含めて185ヤードという数字をみても、明かである。
かろうじてK高野のロングパントと、K大西の45ヤードフィールドゴールで、接戦に持ち込んでいたが、これが秋のリーグ戦だったら、と背筋が寒くなったのでは、僕だけではあるまい。
思えば、春のシーズンは日大、京大に勝つには勝ったが圧倒され、その後の明治とアサヒ飲料には敗戦。そして最終の関大戦も、あわやというところまで追いつめられた。鮮やかな逆転勝ちを喜んでいるような状況ではないのである。
これらの試合で突きつけられた、たくさんの宿題にどんな回答を用意するか。立命に勝って日本1というのなら、ファイターズの全員が、宮本武蔵が「五輪書」にいう「よくよく工夫し、朝鍛、夕錬を重ねるべし」。すなわち、自分のやるべきことを見据え、工夫し、朝に鍛錬、夕べに鍛錬を重ねるしかないのである。がんばろうではないか。
(11)驚嘆の技は工夫から
投稿日時:2009/06/16(火) 08:48
江戸後期の剣客、千葉周作の弟子に驚異的な脚力を持つ飛脚がいた。信じがたい話だが、江戸と高崎(群馬県)の間、200余キロを1昼夜で往復できたという。ある時、高崎藩で大阪の蔵屋敷に至急の用件が持ち上がり、3日で大阪へ到着しなければならなくなった。国家老から直々の要請で、彼がその仕事を請け負い、3日で東海道を走破して大阪に到着、帰りも3日で戻ってきたという。
この話は、武術家の甲野善紀さんに教えてもらったが、千葉周作自身が書き物にしている有名な話だという。司馬遼太郎さんも「北斗の人」(角川文庫)で、このエピソードを紹介している。
異能の人というしかないが、さらにそれよりすごい話がある。甲野さんの「武術の新・人間学」(PHP研究所)によると、昔、仙台藩にいた源兵衛という早道の達人は、江戸を朝の6時に発ってその日の内に仙台に着いたという。江戸と仙台は300キロ以上。それを1日で走りきるというのだから、まさに人間離れした能力である。
そんなに古い話ではなく、比較的身近なところにも、異能の人は少なくない。
紀伊山地のど真ん中にある釈迦ケ岳(1799メートル)の山頂に、高さ3.6メートルもある青銅製の釈迦如来像を担ぎ上げた大峯山脈の強力、岡田雅行もその一人だろう。彼は奈良県天川村の人で、大正13年夏、これをふもとの前鬼口から一人で担ぎ上げたそうだ。標高差にして約1300メートル、距離は約20キロ。仏像は分解して運んだそうだが、一番重い台座は134キロもあったそうだ。前鬼から釈迦ケ岳への道は、山伏が修行をする大峯奥駈道の一部。僕も歩いたことがあるが、自分の体を運ぶだけでも息の上がる険路である。それを134キロの荷物を背負って登り切るなんて人間の技とも思えない。
こういう伝説の中の人ばかりではない。紀伊山地で炭を焼く人たちの女房は、夫が焼いた備長炭を詰めた重さ15キロの炭俵を4俵も5俵も背中に背負い、険しい山道を半日がかりで歩いて里に運んだ。幼い子がいれば、その炭俵の上に、さらに子どもを乗せて歩いたそうだ。想像を絶する話である。
しかし、いずれも実話である。強力の話は和歌山県田辺市在住の山の作家、宇江敏勝さんが「熊野修験の森」(新宿書房)で紹介しているし、炭焼きの女房の話は同じ田辺市の山びと、坂口貞男さんが「熊野山ごよみ」(角川春樹事務所)に、自分の母親を例に、よくある話として記述している。
似たような話は、司馬遼太郎さんも「街道を行く・古座街道」の中で紹介している。
和歌山県の古座川筋では、重さ60キロの米俵を担いで船着き場から荷揚げできない女性は嫁に行く資格がないといわれていたという話である。
それぞれ、いまでは想像もつかない世界であり、驚嘆の技としかいいようがない。
では、彼、彼女らは、どうしてこのような技というか、体力というか、体の使い方を身につけたのだろうか。
先日、朝日カルチャーセンターの講義で、久しぶりに大阪に来られた甲野さんにお会いし、この疑問をぶつけたところ、返ってきた答えは明確だった。
「それは石井さん、仕事だからですよ」
「つまり、重い荷物を担ぐのも、速く走るのも、それが毎日の仕事ということになれば、少しでも楽にしたいと考える。効率よく仕事をしようと工夫する。どうすれば、重い荷物を背負っても疲れないか、自分の体を使って工夫し、実証していく。その工夫の中から、バランスのとれた体の使い方を見つけることで、2俵の俵しか担げなかった人が4俵、5俵と担げるようになる。そうすると、同じ時間働いても、稼ぎは2倍にも3倍にもなる。その切実さがあるから、想像を絶する体の使い方が発見できるのですよ」
なるほど。そういえば、さきに紹介した宇江さんも坂口さんも、若いころ、それぞれが早く一人前以上の山仕事ができることを周囲に認めさせる(つまりは、一人前以上の日当を稼げるようになる)ために、特別な工夫をして自分の能力を開発していったことを、それぞれの著書に書いている。
つまり、ここがポイントである。自分を追い込み、苦しくするための練習ではなく、自分を楽にするための工夫。より稼ぎを多くするための体の使い方の発見。そこから技と呼べる体の使い方、異能の人が生まれてくるのである。
その発想の転換がない限り、努力をしても、質的な向上はなかなか期待できない。それは古来、名人と呼ばれた剣客が弟子を鍛え、秘伝の奥義を伝授しても、師を越える弟子はなかなか育たず、ついにはその流儀が形骸化していった日本の武術史が証明している。
事情はファイターズの諸君にとっても同じこと。周囲から言われるがままの、受け身の反復練習だけではなかなか上達は望めない。自分自身の頭で考え、体で確かめながら、能動的に取り組むことで、初めて質的な向上が促されるのである。いつの時代にあっても、驚嘆の技は、創意と工夫から生まれる。
この話は、武術家の甲野善紀さんに教えてもらったが、千葉周作自身が書き物にしている有名な話だという。司馬遼太郎さんも「北斗の人」(角川文庫)で、このエピソードを紹介している。
異能の人というしかないが、さらにそれよりすごい話がある。甲野さんの「武術の新・人間学」(PHP研究所)によると、昔、仙台藩にいた源兵衛という早道の達人は、江戸を朝の6時に発ってその日の内に仙台に着いたという。江戸と仙台は300キロ以上。それを1日で走りきるというのだから、まさに人間離れした能力である。
そんなに古い話ではなく、比較的身近なところにも、異能の人は少なくない。
紀伊山地のど真ん中にある釈迦ケ岳(1799メートル)の山頂に、高さ3.6メートルもある青銅製の釈迦如来像を担ぎ上げた大峯山脈の強力、岡田雅行もその一人だろう。彼は奈良県天川村の人で、大正13年夏、これをふもとの前鬼口から一人で担ぎ上げたそうだ。標高差にして約1300メートル、距離は約20キロ。仏像は分解して運んだそうだが、一番重い台座は134キロもあったそうだ。前鬼から釈迦ケ岳への道は、山伏が修行をする大峯奥駈道の一部。僕も歩いたことがあるが、自分の体を運ぶだけでも息の上がる険路である。それを134キロの荷物を背負って登り切るなんて人間の技とも思えない。
こういう伝説の中の人ばかりではない。紀伊山地で炭を焼く人たちの女房は、夫が焼いた備長炭を詰めた重さ15キロの炭俵を4俵も5俵も背中に背負い、険しい山道を半日がかりで歩いて里に運んだ。幼い子がいれば、その炭俵の上に、さらに子どもを乗せて歩いたそうだ。想像を絶する話である。
しかし、いずれも実話である。強力の話は和歌山県田辺市在住の山の作家、宇江敏勝さんが「熊野修験の森」(新宿書房)で紹介しているし、炭焼きの女房の話は同じ田辺市の山びと、坂口貞男さんが「熊野山ごよみ」(角川春樹事務所)に、自分の母親を例に、よくある話として記述している。
似たような話は、司馬遼太郎さんも「街道を行く・古座街道」の中で紹介している。
和歌山県の古座川筋では、重さ60キロの米俵を担いで船着き場から荷揚げできない女性は嫁に行く資格がないといわれていたという話である。
それぞれ、いまでは想像もつかない世界であり、驚嘆の技としかいいようがない。
では、彼、彼女らは、どうしてこのような技というか、体力というか、体の使い方を身につけたのだろうか。
先日、朝日カルチャーセンターの講義で、久しぶりに大阪に来られた甲野さんにお会いし、この疑問をぶつけたところ、返ってきた答えは明確だった。
「それは石井さん、仕事だからですよ」
「つまり、重い荷物を担ぐのも、速く走るのも、それが毎日の仕事ということになれば、少しでも楽にしたいと考える。効率よく仕事をしようと工夫する。どうすれば、重い荷物を背負っても疲れないか、自分の体を使って工夫し、実証していく。その工夫の中から、バランスのとれた体の使い方を見つけることで、2俵の俵しか担げなかった人が4俵、5俵と担げるようになる。そうすると、同じ時間働いても、稼ぎは2倍にも3倍にもなる。その切実さがあるから、想像を絶する体の使い方が発見できるのですよ」
なるほど。そういえば、さきに紹介した宇江さんも坂口さんも、若いころ、それぞれが早く一人前以上の山仕事ができることを周囲に認めさせる(つまりは、一人前以上の日当を稼げるようになる)ために、特別な工夫をして自分の能力を開発していったことを、それぞれの著書に書いている。
つまり、ここがポイントである。自分を追い込み、苦しくするための練習ではなく、自分を楽にするための工夫。より稼ぎを多くするための体の使い方の発見。そこから技と呼べる体の使い方、異能の人が生まれてくるのである。
その発想の転換がない限り、努力をしても、質的な向上はなかなか期待できない。それは古来、名人と呼ばれた剣客が弟子を鍛え、秘伝の奥義を伝授しても、師を越える弟子はなかなか育たず、ついにはその流儀が形骸化していった日本の武術史が証明している。
事情はファイターズの諸君にとっても同じこと。周囲から言われるがままの、受け身の反復練習だけではなかなか上達は望めない。自分自身の頭で考え、体で確かめながら、能動的に取り組むことで、初めて質的な向上が促されるのである。いつの時代にあっても、驚嘆の技は、創意と工夫から生まれる。
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