川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」 2008/12/17
#28 社会人選手権:JXBにいたるまで
投稿日時:2008/12/17(水) 10:19
13日(土)、社会人選手権、Japan X Bowlが行われた。結果はすでにご承知のことと思うがパナソニック電工インパルスの勝利に終った。今年10月に社名を変更されたパナソニック電工にとってこれ以上はないタイミングでのパブリシティ力満点の勝利だった。いろいろなメディアで大きく報道された。スポーツ面の紙数が限られている日経新聞でも3段3分の1あまりのスペースが割かれていた。インパルスは堅実なチームである。
1994年度 創部20周年
社会人選手権優勝
日本選手権(ライス・ボウル)優勝
1995年度 会社設立60周年
社会人選手権優勝
2004年度 創部30周年
4度目の社会人選手権優勝
2度目の日本選手権連覇
こう並ぶと運もさることながら強い意志の結果であると言えよう。しかし意図しても結果が出せないのはこの世の常である。もの作りをされている会社だけにフットボールにおいても生産計画がしっかりされているのであろう。
社会人フットボールの歴史をスケッチしてみる。主にこれまであまり触れられなかった1970年までのことについて触れてみたい。社会人のフットボールの歴史は戦前からある。ただし卒業生が取り組むという性格上、学生の歴史にくらべると短くなるのは自然の成り行きである。学生のリーグ戦は1934年に始まった。社会人は『日本アメリカンフットボール50年史』に書かれている、1940年(昭和15年)、1941年の6人制ゲームにおけるチームが現在確認できる最も古いものである。
1940年に普及のため主に中学生への底辺拡大をはかって、日本独自の6人制ルールが考案された。6月15、16日と「紀元二千六百年奉祝六人制米蹴大会」と名づけられた催しが神宮競技場で行なわれた。トーナメントが組まれその中にOBで構成された「ビクター」というチーム名が見られる。翌1941年は5月に開催され、ビクターが三洋商会というチームと対戦し、13-6という記録を残している。
「紀元二千六百年」は『日本書紀』の記述に基づき1872年(明治5年)太政官布告により制定された日本の歴史年数の数え方である。西暦紀元前660年を日本の元年として数えると1940年が2600年になり、この年それをことほぎさまざまな行事が行なわれた。「ゼロ戦」と略して呼ばれる「零式艦上戦闘機」いう戦闘機の名機もこの年に開発されたので下2桁の「00」を採って名づけられた。このことは年配の方には馴染み深い逸話である。
戦後は昭和20年代前半に「アンドリュース商会」という会社がスポンサーをした社会人チームがあった。アンドリュース商会は詳細不明だが熱処理材などを扱う代理店であったようである。立教大学アメリカンフットボール部のOBが数名勤務していた関係でスポンサーになったものと思われる。しかし、戦績などは未確認である。
昭和20年代。1950年(昭和25年)当時は「大阪市警視庁」と呼ばれた現在の大阪府警にフットボール部ができ、関西学院大学が最初に甲子園ボウルに優勝したチームのキャプテンであった渡邊年夫が警視庁に入庁しここでもキャプテンを務めた。
昭和30年代から40年代前半。関東では1957年(昭和32年)秋に明治大学、立教大学OBを中心として「東京ラムス」が結成され、それに続いて日本大学OBを中心とした「不死倶楽部」もスタートした。慶応OBで結成された「東京クラブ」というチームもあった。ラムスは3年間ほどの活動を行なった。不死倶楽部は活動を続け、その後チームはシルバースターに継承される。また1966年アパレル・メーカーのVANに実業団チームができた。関西では1961年、滋賀県の三菱樹脂の長浜工場に社会人チームが生まれた。
昭和40年代後半。1970年代に入り社会人のリーグが生まれる。関西では関西アメリカンフットボール連盟が創設された。この後1980年代前半にかけ東西でひとつの大学のOBを中心とし、勤務先の異なるメンバーで構成されたクラブ・チームがリーグを立ち上げた。一方、同一企業に勤務するメンバーからなるチームにより実業団リーグができた。松下電工、現在のパナソニック電工はこの動きのなかで1974年に創部された。
1984年までいくつかのリーグが並立していた。1984年、日本アメリカンフットボール協会の50周年を期してそれまで東西学生のオールスター戦であったライス・ボウルが学生代表と社会人代表による日本選手権に衣替えされた。これにともない社会人の代表を決めるため東西3つのリーグが1985年8月に統一され、日本社会人アメリカンフットボール協会(金沢好夫理事長:当時)が創設された。
その後何度かの改革を経て1996年に「Xリーグ」がスタートした。リーグ戦のあとに上位6チームによりトーナメントを行いチャンピオンを決定する方式が新リーグ開始の時から始まり現在に至っている。
※社会人の歴史について詳しくは『関西アメリカンフットボール史』を参照
1994年度 創部20周年
社会人選手権優勝
日本選手権(ライス・ボウル)優勝
1995年度 会社設立60周年
社会人選手権優勝
2004年度 創部30周年
4度目の社会人選手権優勝
2度目の日本選手権連覇
こう並ぶと運もさることながら強い意志の結果であると言えよう。しかし意図しても結果が出せないのはこの世の常である。もの作りをされている会社だけにフットボールにおいても生産計画がしっかりされているのであろう。
社会人フットボールの歴史をスケッチしてみる。主にこれまであまり触れられなかった1970年までのことについて触れてみたい。社会人のフットボールの歴史は戦前からある。ただし卒業生が取り組むという性格上、学生の歴史にくらべると短くなるのは自然の成り行きである。学生のリーグ戦は1934年に始まった。社会人は『日本アメリカンフットボール50年史』に書かれている、1940年(昭和15年)、1941年の6人制ゲームにおけるチームが現在確認できる最も古いものである。
1940年に普及のため主に中学生への底辺拡大をはかって、日本独自の6人制ルールが考案された。6月15、16日と「紀元二千六百年奉祝六人制米蹴大会」と名づけられた催しが神宮競技場で行なわれた。トーナメントが組まれその中にOBで構成された「ビクター」というチーム名が見られる。翌1941年は5月に開催され、ビクターが三洋商会というチームと対戦し、13-6という記録を残している。
「紀元二千六百年」は『日本書紀』の記述に基づき1872年(明治5年)太政官布告により制定された日本の歴史年数の数え方である。西暦紀元前660年を日本の元年として数えると1940年が2600年になり、この年それをことほぎさまざまな行事が行なわれた。「ゼロ戦」と略して呼ばれる「零式艦上戦闘機」いう戦闘機の名機もこの年に開発されたので下2桁の「00」を採って名づけられた。このことは年配の方には馴染み深い逸話である。
戦後は昭和20年代前半に「アンドリュース商会」という会社がスポンサーをした社会人チームがあった。アンドリュース商会は詳細不明だが熱処理材などを扱う代理店であったようである。立教大学アメリカンフットボール部のOBが数名勤務していた関係でスポンサーになったものと思われる。しかし、戦績などは未確認である。
昭和20年代。1950年(昭和25年)当時は「大阪市警視庁」と呼ばれた現在の大阪府警にフットボール部ができ、関西学院大学が最初に甲子園ボウルに優勝したチームのキャプテンであった渡邊年夫が警視庁に入庁しここでもキャプテンを務めた。
昭和30年代から40年代前半。関東では1957年(昭和32年)秋に明治大学、立教大学OBを中心として「東京ラムス」が結成され、それに続いて日本大学OBを中心とした「不死倶楽部」もスタートした。慶応OBで結成された「東京クラブ」というチームもあった。ラムスは3年間ほどの活動を行なった。不死倶楽部は活動を続け、その後チームはシルバースターに継承される。また1966年アパレル・メーカーのVANに実業団チームができた。関西では1961年、滋賀県の三菱樹脂の長浜工場に社会人チームが生まれた。
昭和40年代後半。1970年代に入り社会人のリーグが生まれる。関西では関西アメリカンフットボール連盟が創設された。この後1980年代前半にかけ東西でひとつの大学のOBを中心とし、勤務先の異なるメンバーで構成されたクラブ・チームがリーグを立ち上げた。一方、同一企業に勤務するメンバーからなるチームにより実業団リーグができた。松下電工、現在のパナソニック電工はこの動きのなかで1974年に創部された。
1984年までいくつかのリーグが並立していた。1984年、日本アメリカンフットボール協会の50周年を期してそれまで東西学生のオールスター戦であったライス・ボウルが学生代表と社会人代表による日本選手権に衣替えされた。これにともない社会人の代表を決めるため東西3つのリーグが1985年8月に統一され、日本社会人アメリカンフットボール協会(金沢好夫理事長:当時)が創設された。
その後何度かの改革を経て1996年に「Xリーグ」がスタートした。リーグ戦のあとに上位6チームによりトーナメントを行いチャンピオンを決定する方式が新リーグ開始の時から始まり現在に至っている。
※社会人の歴史について詳しくは『関西アメリカンフットボール史』を参照
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