川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」 2008/11/19
#24 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 4
投稿日時:2008/11/19(水) 00:12
“BASIC”と竹本さんは何度もおっしゃった。外部には日大では何も教えないという話がある。しかし笹田さん※は「竹本さんからベイシックを教えられた。それは身につくと忘れてしまうものだからね」と言われた。
※竹本さん、笹田さんについては前回#23を参照。
小脳運動。自転車に乗る、泳ぐ、歯を磨く、こうした行動の情報は小脳に保存されている。身体の自動的な運動を意識して行うことには困難をともなう。竹本さんは“BASIC”が小脳に蓄積されるまで練習を徹底された。練習中足を止めない、低さを維持する、スピードをつける・・・。パス練習はクォーターバックが目隠しして行なわれた。1955年は竹本さんの4年計画の仕上げの年だった。その猛練習振りは伝説化しており、以後の日大フットボールの原点となった。笹田さんをはじめとする1952年に入学した学年は鍛え上げられ4年生になっていた。
丹生さんの「関学の話」#58「完敗」、1991年8月号掲載からの引用。
「頭の中が真っ白になる―――という表現がある。・・・・・(中略)・・・・・。昭和30年(1955年)5月24日の火曜日、西宮球技場で日大に6-18と敗れたときの関学がそれだった。・・・・・(中略)・・・・・敗因は明白だった。ラインが押し負け、当たり負けたのがすべてだった。日大のブロックは低く粘り強かった。一人一人が自らの役割に忠実だった。前年と変わらぬ戦いぶりだった、と言ってしまえばそれまでだが、この年はもっと力が付き、もっと徹底していた」
竹本君三さんは1920年(大正9年)、3月24日ハワイ、マウイ島生まれの二世である。2つのパスポートを持ち、時差がある日本では25日生まれになる。この年岡部平太により日本で最初にフットボールが紹介された。竹本さんにお会いしたのは2004年の3月、小田急線生田駅近くのDenny'sだった。ご両親は移民が多い広島の出身で日本語学校の先生をされていた。結婚後1880年(明治23年)頃に布哇(ハワイ)に渡られた。竹本さんは5男2女、7人兄弟の末弟である。マウイでは日本人は肩を寄せるように村落のなかで集まって生活していた。犯罪の少ない土地柄だった。西海岸の日系人移民の人たちも法に従い重犯罪を犯すものはほとんどいなかった。地元の8年制の小学校に通い、4年制のマウイ・ハイスクールを卒業した。島に高校は2つだけだった。小学校、ハイスクールでバレーボールをし、バスケットボールにも触れた。タッチフットボールはハイスクールのチームでプレーした。時にはタックル・フットボールも行った。ハイスクールを終了するとお父さんが「日本に行きなさい」と言った。当時は円安で日系移民の人たちは師弟を日本に留学させることが多かった。
「Buddhismのhouseがあって、そこに入りました」と竹本さんは話された。1939年(昭和14年)、ホノルルから立田丸という船に乗り10日後に横浜に着いた。竹本さんの「Buddhismのhouse」はソーシャル・ハウスと呼ばれ本願寺教団が運営していた。アメリカからの留学生を受け入れるとともに日本からの移民の手助けを行った。移民が多かった県は浄土宗がさかんであったところが多いと言われている。ソーシャル・ハウスは寄宿舎のような施設で、異なる大学の留学生が一緒に生活していた。共同生活での学生間の交流により東京の大学にフットボール・チームができて行った。最初に明治大学、次に早稲田大学にチームができた。これに立教大学を加え1943年(昭和9年)ポール・ラッシュ博士が東京学生アメリカンフットボール連盟を結成したあと、翌1935年、関東で慶応大学、法政大学が、関西で関西大学が創部した。1938年に関大アメリカンフットボール部の創部者、松葉徳三郎の協力の下、東西合同の日本米式蹴球協会が結成された。松葉は関西支部長となり関大に続く関西のチームの創部を応援団ルートを通じて働きかけた。そうした活動の中で1940年、同志社大学アメリカンフットボール部が誕生した。翌1941年、戦前最後の創部が関西学院大学で行われた。日本大学は同志社と同じ年、1940年に部をスタートさせた。
竹本さんは来日した1940年日本大学の拓殖農業科に入学した。ハワイで日本語学校に通ったが日本語の負担の少ない学科を選んだ。同時に帰米後の仕事を考えてのことであった。明治時代の日本からアメリカへの留学生も同じ理由から大学の農学、酪農に進むものが多くいた。また創部まもない日本大学アメリカンフットボール部に入部した。ポジションはフル・バックとハーフ・バック、パスも投じた。
1940年、日本協会は秋のリーグ戦に先立って競技名を「米式蹴球」から「鎧球」とした。悪化する日米関係を配慮しての措置であった。初代監督は明治大学ラグビー部出身の笠原恒彦だった。ラグビーの名選手であり映画俳優だった。リーグに参加したばかりの日大だったが、初年度は33名と部員も多く健闘して法政、立教と引き分け、5位になった。翌年は同率ながら2位タイと躍進した。
しかし開戦後まもなく戦況が悪化し、卒業が繰り上げになった。1942年、徴兵され広島で検査を受け入隊した。陸軍の憲兵隊であった。配属地はニューギニアだった。語学力をかわれて通訳をした。ケイ・キチールというインドネシア語で「ちいさい島」という意味をもつ土地が駐屯地だった。そのうちマレー語、オランダ語もできるようになった。敗戦にともない捕囚の身となった。収容所で必要にかられインドネシア語もマスターし、通訳をした。収容生活は戦後も続き、釈放されて帰国したときは1948年になっていた。兄が日系人で編成されアメリカの部隊のなかでもっとも勇敢で一番死傷率の高かった442連隊※に志願し奇跡的に生還していたことを帰国後知った。
※442連隊:第2次大戦中、日系人のみで編成されたアメリカの部隊。日本とアメリカが交戦国となったためアメリカ在住の日系人は強制収容された。二世たちはジレンマの状況下で志願し、442連隊に入隊した。ヨーロッパ戦線に配属され、221人を救出するため800人の死傷者を数えるというような多大の犠牲をはらい、同朋のため、そして名誉と誇りをかけ勇敢に戦った。最強の部隊とよばれその累積死傷率は314%といわれている。
1941年の日大チーム。前列中央#28は竹本さん
※竹本さん、笹田さんについては前回#23を参照。
小脳運動。自転車に乗る、泳ぐ、歯を磨く、こうした行動の情報は小脳に保存されている。身体の自動的な運動を意識して行うことには困難をともなう。竹本さんは“BASIC”が小脳に蓄積されるまで練習を徹底された。練習中足を止めない、低さを維持する、スピードをつける・・・。パス練習はクォーターバックが目隠しして行なわれた。1955年は竹本さんの4年計画の仕上げの年だった。その猛練習振りは伝説化しており、以後の日大フットボールの原点となった。笹田さんをはじめとする1952年に入学した学年は鍛え上げられ4年生になっていた。
丹生さんの「関学の話」#58「完敗」、1991年8月号掲載からの引用。
「頭の中が真っ白になる―――という表現がある。・・・・・(中略)・・・・・。昭和30年(1955年)5月24日の火曜日、西宮球技場で日大に6-18と敗れたときの関学がそれだった。・・・・・(中略)・・・・・敗因は明白だった。ラインが押し負け、当たり負けたのがすべてだった。日大のブロックは低く粘り強かった。一人一人が自らの役割に忠実だった。前年と変わらぬ戦いぶりだった、と言ってしまえばそれまでだが、この年はもっと力が付き、もっと徹底していた」
竹本君三さんは1920年(大正9年)、3月24日ハワイ、マウイ島生まれの二世である。2つのパスポートを持ち、時差がある日本では25日生まれになる。この年岡部平太により日本で最初にフットボールが紹介された。竹本さんにお会いしたのは2004年の3月、小田急線生田駅近くのDenny'sだった。ご両親は移民が多い広島の出身で日本語学校の先生をされていた。結婚後1880年(明治23年)頃に布哇(ハワイ)に渡られた。竹本さんは5男2女、7人兄弟の末弟である。マウイでは日本人は肩を寄せるように村落のなかで集まって生活していた。犯罪の少ない土地柄だった。西海岸の日系人移民の人たちも法に従い重犯罪を犯すものはほとんどいなかった。地元の8年制の小学校に通い、4年制のマウイ・ハイスクールを卒業した。島に高校は2つだけだった。小学校、ハイスクールでバレーボールをし、バスケットボールにも触れた。タッチフットボールはハイスクールのチームでプレーした。時にはタックル・フットボールも行った。ハイスクールを終了するとお父さんが「日本に行きなさい」と言った。当時は円安で日系移民の人たちは師弟を日本に留学させることが多かった。
「Buddhismのhouseがあって、そこに入りました」と竹本さんは話された。1939年(昭和14年)、ホノルルから立田丸という船に乗り10日後に横浜に着いた。竹本さんの「Buddhismのhouse」はソーシャル・ハウスと呼ばれ本願寺教団が運営していた。アメリカからの留学生を受け入れるとともに日本からの移民の手助けを行った。移民が多かった県は浄土宗がさかんであったところが多いと言われている。ソーシャル・ハウスは寄宿舎のような施設で、異なる大学の留学生が一緒に生活していた。共同生活での学生間の交流により東京の大学にフットボール・チームができて行った。最初に明治大学、次に早稲田大学にチームができた。これに立教大学を加え1943年(昭和9年)ポール・ラッシュ博士が東京学生アメリカンフットボール連盟を結成したあと、翌1935年、関東で慶応大学、法政大学が、関西で関西大学が創部した。1938年に関大アメリカンフットボール部の創部者、松葉徳三郎の協力の下、東西合同の日本米式蹴球協会が結成された。松葉は関西支部長となり関大に続く関西のチームの創部を応援団ルートを通じて働きかけた。そうした活動の中で1940年、同志社大学アメリカンフットボール部が誕生した。翌1941年、戦前最後の創部が関西学院大学で行われた。日本大学は同志社と同じ年、1940年に部をスタートさせた。
竹本さんは来日した1940年日本大学の拓殖農業科に入学した。ハワイで日本語学校に通ったが日本語の負担の少ない学科を選んだ。同時に帰米後の仕事を考えてのことであった。明治時代の日本からアメリカへの留学生も同じ理由から大学の農学、酪農に進むものが多くいた。また創部まもない日本大学アメリカンフットボール部に入部した。ポジションはフル・バックとハーフ・バック、パスも投じた。
1940年、日本協会は秋のリーグ戦に先立って競技名を「米式蹴球」から「鎧球」とした。悪化する日米関係を配慮しての措置であった。初代監督は明治大学ラグビー部出身の笠原恒彦だった。ラグビーの名選手であり映画俳優だった。リーグに参加したばかりの日大だったが、初年度は33名と部員も多く健闘して法政、立教と引き分け、5位になった。翌年は同率ながら2位タイと躍進した。
しかし開戦後まもなく戦況が悪化し、卒業が繰り上げになった。1942年、徴兵され広島で検査を受け入隊した。陸軍の憲兵隊であった。配属地はニューギニアだった。語学力をかわれて通訳をした。ケイ・キチールというインドネシア語で「ちいさい島」という意味をもつ土地が駐屯地だった。そのうちマレー語、オランダ語もできるようになった。敗戦にともない捕囚の身となった。収容所で必要にかられインドネシア語もマスターし、通訳をした。収容生活は戦後も続き、釈放されて帰国したときは1948年になっていた。兄が日系人で編成されアメリカの部隊のなかでもっとも勇敢で一番死傷率の高かった442連隊※に志願し奇跡的に生還していたことを帰国後知った。
※442連隊:第2次大戦中、日系人のみで編成されたアメリカの部隊。日本とアメリカが交戦国となったためアメリカ在住の日系人は強制収容された。二世たちはジレンマの状況下で志願し、442連隊に入隊した。ヨーロッパ戦線に配属され、221人を救出するため800人の死傷者を数えるというような多大の犠牲をはらい、同朋のため、そして名誉と誇りをかけ勇敢に戦った。最強の部隊とよばれその累積死傷率は314%といわれている。
1941年の日大チーム。前列中央#28は竹本さん
2008年11月
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