川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」

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#37 日本アメリカンフットボール創始75周年の記念ゲーム

投稿日時:2009/07/03(金) 02:06

 下記の写真の人は関東学生アメリカンフットボール連盟の前川誠さんである。もう知り合って20年ほどになる。かなり以前、関西のある会社が関東大学リーグのスポンサーになっていた。日本のバブルまっただ中のころである。3年契約で、そのときの学生連盟の窓口の一人が前川さんだった。勤め人だったが、フットボール発展のためにサラリーマンをやめて、学連の事務局長の道を選んだ。

前川さんとレジェンド・ゲームのパンフレット
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 前川さんの表現を借りると、理事の人々から「また、前川は分からんことをやっている」といわれながら着実にインフラ整備や広報活動を続けてきた。関東学生のホームー・フィールドになっているアミノバイタル建設やさまざまな集客企画が考え出された。何か新しいことをするたびにそのひとなつっこい笑顔でこんなことをしたんですよ、という。今回、日本初のリーグ戦のセイル・アウト・チームによる75周年のレジェンド・ゲームも前川さんが企画した。

 全明治対全早稲田。

 6月13日、土曜日。ゲーム前、明治大学の野崎監督もにこにこされていた。昨年の12月、明治のコーチをされている秋山篤弘さんのご紹介でインタビューをさせていただいた。年齢は76歳になられているが現役監督として再び強力なチームをつくられた。今春、ファイターズも7-12と定期戦で敗れた。有名なペン・ステイツ大学のジョー・パターノのように学生に精神的感化を与えるタイプの監督になっておられる。パターノは弁護士になるかフットボールのコーチになるかの選択でコーチを選んだ。通称ジョーパーの影響力はペンシルバニア州に行けば大統領よりも大きいかも知れない。学生が相手チームを口汚くののしったり、スポーツマンらしくない振る舞いをするとパターノは容赦なく激しく叱る。そのシーンはテレビ放映されるのでよく知られている。確か今年83歳だ。野崎監督は長く勝ち負けの世界におられ星霜を経た厳格な表情だが、パターノとは反対にほとんど感情を露わにされない。試合後のハドルは気迫がこもっているが緊張感のある静謐が支配している。

 ついでながらシカゴ大学でヘッド・コーチ生活の大半を送ったエイモス・アロンゾ・スタッグは71年間現役のコーチ生活を続け、98歳で引退した。コーチのコーチとして尊敬を受け103歳で天寿を全うした。次に述べる日本で最初にフットボールを紹介した岡部平太の先生でもあった。

 実施された当時日本で最初と言われたゲームがいくつかある。
 
 1920年 おそらく秋。東京高等師範学校附属中学が学年対抗で行ったゲーム。岡部平太が米国から帰国後、付属中学で手ほどきした。その参加者であった牧野正巳氏の手記が東京高等師範学校付属中学校創立70周年の記念誌(1958年刊)に載っている。牧野氏は日本で初のTDパス・レシーブをした。
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 文中、岡部の米国からの帰国が「大正八年」と記述されているが、牧野氏の感違いで1920年(大正9年)である。

 1927年4月30日。於:成蹊学園グランド。
 東京高等師範学校ラグビー部の紅白戦
 東京高等師範学校ラグビー部は大正天皇の崩御に伴い予定されていた試合が中止になったため、喪が明けるまでの期間、ラグビー研究のため半年間と期限を区切ってアメリカンフットボールも研究することとした。それからも察せられるように、まだこの時代、両競技間に現在ほどの大きな差異が生じていなかった。

 「アメリカンフットボール」というタイトルの日本で最初のアメリカンフットボールについての本である。1927年6月に出版され、練習の仕方、ルールなどが記されている。この写真は復刻版。オリジナルのものは経年のため装丁がひどく痛んでいる。本の元の所有者は関西大学アメリカンフットボールの創部者、松葉徳三郎である。
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 その前書き。傍線部分に日本最初の試合と記されている。筆者の安川伊三はこのゲーム実施の実質的リーダーを務め、同時に先述の本「アメリカンフットボール」翻訳編集の中心的役割を果たした。高等師範学校の助教授として現在のタッチフットボールに似た旧制中学生向けの簡易ゲームを考案しフットボールの普及に努めたが30代前半を迎えたところで夭逝した。
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 基本練習の写真。左の選手に抱えられたボールは現在のものと異なりほぼ球体に近い
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 1933年12月25日。於立教大学グランド。
 明治大学のΣNK(シグマ・ヌ・カッパ)というチームと東京在住の日系二世で編成されたチームとのゲーム。これは新聞各紙に前触れ記事が掲載され、翌日はスコアだけでなく文章を伴った記事が載った。?NKはギリシヤ語で「団結と勝利」という意味が込められていると思われるが、現存される方がすでにおられないため未確認である。

 クラブ旗に「?NK」という文字が見える。前列左端がこの写真の保有者であった加藤二郎氏。2列目左から2番目が松本瀧蔵教授。
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 ゲーム前日12/25付け 読売新聞 東京版
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 ゲーム翌日、12/26付け 読売新聞 東京版
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 大学対抗の最初のゲームは、1934年(昭和9年)4月に行われた。場所は当時、明治大学グランドがあった代田橋である。そののち現在の八幡山に移る。結果は0ー0の引き分けだった。

 明治大学、代田橋グランドでの記念写真。Daidabashiと1934という手書き文字が読める。
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 75年目に邂逅したレジェンド・ゲームは31-7で、全明治の勝利に終わった。

 ソーシアル・ハウスというアメリカから日本に留学していた日系二世が起居をともにする寄宿舎のような施設が戦前、東京にあった。ひとつの大学に偏らずいろいろな大学の学生たちが同じ屋根の下に暮らしていた。本願寺派のブッディストが営む互助組織だった。この組織のネットワークはハワイ、アメリカのメイン・ランドの東西海岸にもあり移民の手助けを行っていた。※ここに在住していた明治の学生たちがチームを始めた。そのまとめ役に当たったのが明治大学教授の松本瀧蔵だった。
 ※#24 科学的武士道―日本大学のフットボール4 参照

 言葉の不自由さから鬱屈していた日系人学生たちを活気づけるためアメリカ留学の中で同じ体験をした松本瀧蔵が彼らをフットボールで元気にしようとした。松本はアメリカの高校でスポーツにも秀でた文武両道の超優秀な成績を収めた。大学はハーバードを卒業した。この学生生活の中でフットボールも経験している。戦後は出身地の広島選出の衆議院議員となる。松本の寄付で日本アメリカンフットボールの殿堂のある清里にキャンピング施設が作られその名前が冠されている。1933年12月25日、クリスマスの日のゲームのレフリーは松本だった。

 松本は日本フットボールの父とされている立教大学のポール・ラッシュ博士に働きかけ、立教大学にもチームができた。ポール・ラッシュは明治大学の二世たちを愛し、Meiji Boyと親しみを込めて呼んだ。1934年、リーグ戦が行なわれた時、明治の16人のメンバーは全員が日系アメリカ人だったのでクラブでの共通言語はスラングに満ちあふれた英語だった。創部3年目、明治に入学しフットボール部に入部した数少ない日本人、竹下正晃の言によれば上品でない英語はとても上手になったとのことである。そのとき日本人は竹下を含め2名のみだった。竹下は後に明治大学のコーチになり、1964年、日本協会30周年事業として行われた全日本チームのハワイ遠征を、先輩であった日系の人たちの手助けを借りて実現し、総監督としてチームを率いた。全日本は東西リーグで優勝していた日本大学、関西学院大学、のコンバインド・チームでその他の大学からも2名が参加した。遠征は12月9日より21日まで行われた。それにともない例年は12月に行われる甲子園ボウルがこの年度のみ翌1965年の1月15日に実施という変則的な日程になった。

 全日本を迎え入れた明治ボーイたち自身も1936年、全日本選抜の主力としてアメリカ遠征に加わった。この年、同率でリーグ優勝した明治、早稲田を中心としてチームが編成された。ほぼ全員に近くが日系二世で、日本人で唯一このメンバーに加わったのが立教のガード、安藤眉男だった。安藤は大学卒業後早世し、人々は惜しんでその名を安藤杯というトロフィーに残した。安藤杯は関東大学リーグのシーズン最優秀選手に贈られる賞である。

 ポール・ラッシュは組織力と企画性にたけていたので立教大学チームを加え、明治、早稲田、立教の3大学で初のリーグが創設された。リーグ戦は先にも述べたように1934年12月に行なわれた。そのオープニング・セレモニーとして11月29日、木曜、アメリカでは感謝祭に当たる日に行われたエキジビション・ゲームが日本最初のゲームとして現在では定着し、ここを起点として周年は数えられている。全日本と対戦したのは横浜の外国人倶楽部のメンバーだった。平均年齢は30歳を越えており、アメリカン・フットボール経験の少ないヨーロッパ系のメンバーで構成されていたため、若さと経験に勝る学生選抜の日本チームは26-0と快勝した。こうしたマッチングにもポール・ラッシュがきめ細かな配慮を行った結果だった。全日本チーム25名の内、12名は明治大学から選出された。その顔ぶれの大半を?NKのメンバーが占めたのは自然のなりゆきと言えた。なお、日本アメリカンフットボール協会が1984年に50周年の記念誌として発行した『限りなき前進 日本アメリカンフットボール50年史』中に26名という回顧譚があるが、語られた方の記憶違いで当時のメンバー表は25名が記載されている。

#36 U19

投稿日時:2009/06/23(火) 06:46

 sky・AのKさんと相談ごとがあって上ケ原に出かけた。KさんがU19の合宿取材に行くと言う。その場所が上ケ原、つまり関西学院のフットボール・フィールドである。ちょうどU19の合宿初日の練習日に当たっていたのでそれも見せてもらうことにした。関西学院のフィールドは第3フィールドと呼ばれていて、今年は19日に関々戦が行われる。スタンドが以前よりさらに整備されていて有料ゲームが十分に開催できる。ここ最近は高校のフィールドも人工芝が貼られ、その普及は年々早まっている。日本の人工芝メーカーも確か5,6社あるはずだ。サッカーのワールド・カップ、ヨーロッパ予選も人工芝を認めるようになった。また、NFL、マイアミ・ドルフィンズの天才QBダン・マリーノが自然芝上のなんの障害も考えられない条件下でアキレス腱を切ったりしたから自然芝信仰もトーン・ダウンしてきている。特に日本ではフットボールは1日に数試合するのでメンテナンスの面から言って人工芝が合理的である。

 ワールド・カップがきっかけになって神戸にウイング・スタジアムが建設された。しかしワールド・カップ終了後自然芝が根付かず、関学・京大戦、社会人のジャパンXボウルが招聘されたが、苔の上でプレーするがごとくずるずると滑って、とても危険だった。長いクリーツ、いわばフットボール用の太いスパイクのようなものでも対応できなかった。

 爽やかな風が渡ってゆくスタンド中段でU19の練習の始まるのを待っていると、「こんにちわ、」と上の方から声をかけられた。見れば関西大学の板井ヘッドコーチだった。先日、甲子園ボウルを盛り上げる会の二次会で名刺を交換した。一緒にマスコミ志望の女子マネージャーを同行してきていた。彼女の質問に応えていたら2次会は終わってしまった。参加者のある人の奥さんが別のところで飲んでいるのでそれと合流することになった。板井HCとはそこで隣り合わせになり、いろいろなことを話して意気投合した。企業にあって日々、煩悩で磨耗している人間からは失せてしまう武道家の趣があり、「サムライ」と言う印象を受けた。板井HCとは1993年の関学・京大戦が終わったあと、ある場所で隣り合わせになった。敗軍のキャプテンであったので声をかけなかった。ぼくはその前の年から、関西テレビで始まったフットボールのプログラム「KTVタッチダウン」のプロデューサー兼制作アドバイザーをしていた。したがって関西学生リーグの全ゲームに立ち会っていたからそうした場面に行きあうことになった。

 選手たちが現れ始めたころU19の監督になった大阪産業大学付属高校の山嵜先生もやってきて挨拶を交わした。もう、20数年来の旧知である。産大高校は周りからは恵まれた環境のように思われているがそれはあらかじめ用意されていたものではなく、山嵜先生が一から手作りで営々と築き上げてきた長期間に渡る地道で孤独な事業である。生徒の指導に優れており、選手の良い部分、またそのときどきの選手の調子を見極める力は天才的である。特に昨年のクリスマス・ボウル、リードされた産大高校の最終クォーター残り1分からの連続スィープ・プレーによる逆転劇は圧巻だった。一緒に見ていた関西の高校フットボールの指導者の方々からその力強い気迫にあふれたプレー選択に感嘆の声が続いて上がった。NFL、カレッジ、国内のゲーム、すべてのフットボール観戦の中でもあのシリーズは印象度ナンバー・ワンだった。

 アメリカ遠征でも山嵜先生が素晴らしい結果をもたらされることを祈っている。開催場所がNFLのホール・オブ・フェイムがあるキャントンなので遠征に同行したかったのだが、仕事のため、いかんともしがたい。一度訪ずれたことがあるが何度でも行きたい場所のひとつだ。従軍記者になるsky・AのKさんによればJAPANが順位決定戦まで進めばESPNの素材を買い、ノーカットで放送されるというから、初戦のドイツ戦の必勝を願っている。

 第3フィールドと練習開始
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