川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」

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#17 フットボール伝来記 2 ―焼失した日記―

投稿日時:2008/09/15(月) 22:08

 1869年11月6日にラトガーズ大学とプリンストン大学の間でフットボール初の大学対抗戦が行われたことは以前に書かせていただいた※。前回の#16で予告したようにこのときの観客について考えて見たい。ゲームが行われた際、約100人の観客がいたといわれている。この年のはじめ、ラトガーズ大学では学内新聞が創刊された。したがって試合経過やこうした周辺情報を読むことができるが、日本人がその観客の中にいたかどうかについては既読の資料には残されていない。
※#1およびDVD“FIGHT ON KWANSEI”参照

 これまで数年このゲームを日本人が見た可能性について調べてきた。きっかけは次のことを偶然から知ったためである。

 なにげないと思われた経験がのちになってみると大きな歴史を体験していたということがある。1891年12月21日、マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールの体育館、そこに一人の日本人がいた。名前は石川源三郎。ジェームス・ネイスミスによって創案されたバスケットボールの最初のゲームが行われ、石川はこれにプレーヤーとして参加した。青少年が冬季に室内で行うことができるゴール型スポーツとして考え出された新しい競技にはこの時点でまだ名前がなかった。ゴールには桃の収穫用のカゴを用い、サッカーボールを使用したので、のちに「バスケットボール」と名づけられた。ジェームス・ネイスミスはカナダのマギル大学※の出身である。マギル大学は遠征しハーバード大学とラグビー・ルールによるフットボール・ゲームを行い、アメリカンフットボールの展開に大きな役割を果たした大学である。ネイスミスはまたバスケットボールを考案するにあたりアメリカンフットボールの考え方もモチーフのひとつとした。ただ石川はバスケットボールを日本に広めることはなかった。バスケットボールはフットボールに関係する方の血縁者により別の機会、別のルートでわが国に紹介されたが今回それはテーマではない。
※#14参照

 近代スポーツの各競技はそれぞれ時期を異にして日本にもたらされた。フットボールは1934年(昭和9年)12月、関東で明治大学、早稲田大学、立教大学の3大学のリーグ戦開始をもって日本ではスタートしたとされている。

 各競技が伝来したきっかけは大別して2つになる。明治政府が大学を頂点とする高等教育制度の短期整備のために雇い入れたいわゆる「お雇い外国人」など欧米人によってもたらされたもの。いわば舶載の貨物についた「こぼれ種」のようにして伝播した。もう一つは欧米留学や視察により海外に出た日本人が持ち帰ったものである。前者の例としてはベースボールがある。後者の例はハンドボールを挙げることができる。フットボールは強いて分ければ前者になる。ベースボールは1872年(明治5年)、当時の開成学校(のち旧制第一高等学校)で英語などの教鞭をとったホーレス・ウィルソンが生徒にベースボールを手ほどきしたのが最初と言われていたが、現在は諸説がある。ハンドボールは1922年(大正11年)、欧米へのスポーツ留学経験のある東京高等師範学校出身の大谷武一がドイツより帰国後紹介した。また大谷は昭和初期ラジオ体操を考案し、第二次大戦終了後まもなく、文部省の学習指導要領に基づきタッチフットボールのテキスト作成を行った。

 「やむをえざる西欧文化の受容」が明治以降、日本近代化の過程であった。冬の霧深い陰鬱なロンドンで夏目漱石も懊悩したように避けがたい現実だった。漢籍に明るかった漱石はむしろ北京留学を望んでいたという。1854年(安政元年)、吉田寅次郎、すなわち松陰が小船を漕ぎ出しアメリカへの密航を計ったことからも推測できるが、この欧米留学という切実たる思いを共有した江戸人は少なくなかった。それから10年後の1864年さらに勇敢なる人物が無謀とも思える単独行でボストンに至る。鮭は産卵のために母川(ぼせん)の急流を遡上するとき、最初に大いなる段差を超えるものが出ると連なってこれを克服していく。このパイオニアが同志社大学を創始した新島襄であった。函館からまず上海に渡り、アメリカに行く船を捜した。幕府が海外渡航禁止を解くのは1866年なので捕縛されれば死罪を覚悟の行動であった。新島の翌年、1865年には薩摩藩が英国に15人の留学生を送り出すなど、幕府にはこの近代化という大きな潮流を押さえる力はすでになかった。

 新島はアメリカ行きの船捜しの間も、上海で漢訳の聖書を入手するなど勉学を怠ることがなかった。この勇敢無比な新島の魂を理解する船長、ホーレス・テイラーが現れ、インド洋、大西洋を経て西回り航路で無事ボストンに着く。乗船した船の名前は“WILD ROVER”。のちに同志社大学アメリカンフットボール部のニックネームとなる。付け加えるならば、新島は1870年(明治3年)日本人ではじめて学士号を得た。またのちに来日し、札幌農学校の教頭となり明治の日本に大きな精神的な影響を与える、ウィリアム・クラークにアマースト大学で講義を受けた。先に述べたように滞米中の1866年に国禁が解かれたので、新島の留学は追認され、その高い人格と深い学識が新政府に重用されることになる。

 新島襄に遅れること数年、同様の時期にラトガーズ大学に留学した日本人が幕末から明治初期にかけて数百人におよんだ。現在では日本人にあまりなじみのないラトガーズという大学になぜ多くの日本人が留学したかについて考えてみたい。

(この項続く)
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