川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」
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#29 1902年(明治35年) 日本フットボールことはじめ 1 ―とりかえばやの物語―
投稿日時:2008/12/25(木) 11:33
甲子園ボウルに出かけた。予報では午後雨だったが、ときおり思い出したように雨粒を落としただけで泣き出しそうな雲行きのままゲーム・オーバーになった。甲子園ボウルはもう30年来見つづけている。テレビで見たことも含めると40回近くなる。甲子園ボウルの最初のテレビ中継は1956年(昭和31年)だが、このときはまだ子供で、フットボールのことは知る由もない。継続して見るという意味もあったが、ある選手を彼が高校2年生の時から注目していてそのプレーを見るのも、もうひとつの目的だった。スタジアムを出たころ雨がやってきた。3時間近くほぼ同じ姿勢のまま見ていたので固まった身体を解凍するために銭湯に寄った。露天風呂につかり、顔に雨粒を感じながら雨をやり過ごした。それからせがれと軽くビールを飲み帰宅した。
今回から何回かにわたり時系列的に日本で行われたアメリカンフットボールの試みやゲームについて紹介したい。まず明治時代のわが国における近代スポーツやサッカーのはなしから。
『アッソシエーションフットボール』というサッカーの本がある。1903年(明治36年)10月4日に出版された日本で最初のサッカーの専門書である。「アソシエーション」の間違いではなく当時はこのように表記した。本邦への最初のサッカー紹介は1885年(明治18年)に出版された『西洋戸外遊戯法』、『戸外遊戯法』という2書において行われた。外来スポーツの一つとしてサッカーにもふれているが数ページにとどまっており『アッソシエーションフットボール』のような専門書ではない。この頃サッカーは「フートボール」と表記されることもあった。かなり長い間『戸外遊戯法』(坪井玄道、田中盛業編)が最初の本であると思われていたが、『西洋戸外遊戯法』(下村泰大編)という本が見出され『戸外遊戯法』は先駆けの座をゆずった。ただ、『西洋戸外遊戯法』、1885年3月発行、『戸外遊戯法』、4月発行ときわどく、陸上100m、ゴール写真判定ほどの差しかない。なお、日本で最初にチームを作ったのは1889年に創部した兵庫県尋常師範学校、のちの御影師範学校であるとされているが異説もある。
まだ『西洋戸外遊戯法』が見出されていなかったころ国会図書館で『戸外遊戯法』を読んだ。東京に勤務していた頃、休みにはよく通ってフットボール関係の本を探した。読んだといっても「マイクロフィッシュ」という本をモノクロ・ポジのスライドにしたものである。新聞雑誌の多くは映画フィルムのようなマイクロ・フィルムと呼ばれるものにコピーされる。古い書籍や新聞雑誌は長年たつと紙が酸化して触れるとくずれるような状態になる。これにくらべるとパピルス、羊皮紙、こうぞ、みつまたのほうが文明かもしれない。「マイクロフィッシュ」は一枚がハガキほどの大きさで、ここに見開き2ページ分を10数ミリの方形に縮小しそれを何十枚か焼き込んである。したがって数百ページほどの本でもマイクロフィッシュでは10枚前後になってかさばらない。デジタル化が行われる前には非常に便利なメディアだった。古い本で劣化したものや貴重な書籍がマイクロ化されている。このフィルムをバックライトのついたビューアーにかけてひとコマひとコマ読んでいく。もとがフィルムで鮮明度に限界があるため読みづらいことに加え光源が強い光のハロゲン球であるためかなり疲れる。
先日、ウェブで国会図書館の蔵書検索を行い『アッソシエーションフットボール』を立ち上げたら、結果に見慣れない表示とマークがつけられていた。それぞれ「本文をみる」、「近代デジタルライブラリー」となっている。クリックすると本文ページが現れた。マイクロフィッシュとはくらべものにならないほど鮮明な画面だった。かねてから世界中の図書館の蔵書がネットを通じて閲覧できるようになるということが言われていたが実際に体験したのは今回がはじめてで、すこぶる便利である。最近のネット書店では本の中身を「立ち読み」できるから、こうしたことは今後ますます促進されるだろう。1980年代初頭、アメリカ留学した人の話によると大学図書館のレファレンス検索ではすでに現在のネット検索の初期のものが使用されていたそうである。インターネットそのものの起源はそれよりもさらに10数年さかのぼるので当然かもしれない。
『アッソシエーションフットボール』に載っているイラスト
『西洋戸外遊戯法』や『戸外遊戯法』そして『アッソシエーションフットボール』が出版された明治時代も、そのあとの大正年間も一般にはサッカー、ラグビー、フットボールの区別がはっきりと理解されていたわけではない。それに加え、外来語にいろいろな訳語が考案され始めた時代だった。人口に膾炙(かいしゃ)したところでは、例えば“baseball”に「野球」という訳語が与えられたのも明治中期である。考案者は正岡子規説もあったが現在は子規と同じ旧制第一高等学校野球部の中馬庚(かなえ)であることが分かっている。子規は一時期、名が「升」(のぼる)であったので、これをもじって雅号に「野」(の)+「球」(ぼーる)、「野球」を用いていた。ここより推測しての子規命名説はどこかほほえましい。「まり投げて見たき広場や春の草」など野球を扱った句や歌を残している。子規の名声の大きさは野球殿堂に子規を叙した。中馬庚も子規よりも早く殿堂入りしている。スポーツに関連する訳語はさまざまに変遷し、それが理解と普及の速度を遅くした一因となった。ついでながら現在ではすでに日本語に同化している「スポーツ」という言葉にはまだ訳語がない。この言葉の持つ多義性に対応する日本語を発明できなかったためと思われる。日本ではビリヤードやチェスをスポーツの範疇に入れるには違和感があるようだが西欧ではこれらもスポーツに属している。また、#27で紹介したように富国強兵の国家政策のもとでは軍事教練が重視され体育は副次的な立場に置かれていた。これは戦後も後遺症として残り、スポーツが鍛錬と混同されそれに特化されている場面に出会うのは珍しいことではない。かてて加えて戦前において体育に触れることができたのは、ほぼ旧制中学の生徒に留まっていた。旧制中学への進学率は最盛期でも10%前後であったからスポーツの普及には自ずと限界が生じた。
民俗フットボールはイングランドで規則化され1863年にフットボール・アソシエーションができ、アソシエーションという言葉からサッカーという呼称が生まれた。このアソシエーション・フットボールを略し、サッカーは長い間「ア式蹴球」と呼ばれていた。これにならいラグビーを「ラ式蹴球」、時代がかなりくだってアメリカンフットボールを「米式蹴球」と呼んだ。戦前に創部したフットボールのチームの中にはたとえば早稲田大学のように現在も「米式蹴球部」という名称を使用していることがある。
「ア式蹴球」という言葉が現在でも流通しているところに出会う。数年前にある都市の図書館でアメリカンフットボールに関する資料をお願いしたところ、たくさんありますよ、と言って出してこられたのが「ア式蹴球」という言葉がタイトルに入った本だった。「ア」とつくのでアメリカンフットボールの「ア」と取り違えられたようである。対応いただいた方は20代と見受けられる司書の方だったのでまだまだ根強く残っているようである。
ことのついでに言えば「アメラグ」という言葉もある。アメリカ式のラグビーがつづまったもののようである。新聞、雑誌と言った印刷物に大正末期、あるいは昭和の初期から見られる呼称である。これも現在でも使われることがあり、メディアの方やフットボールの競技経験者の方も使われる。この言い方を好まれない方が大勢おられ、ゴキブリ退治のように矯正しようとされるが、なかなかにタフな言葉で根絶はむつかしいようである。
『アッソシエーションフットボール』を訳したのは中村覚之助という和歌山県那智勝浦出身の東京高等師範学校生であった。前書きによれば、各地の中学校師範学校よりサッカーのゲームの仕方をもとめられたので書いた、とあるので1885年の最初の紹介以降ある程度広まっていたと思われる。中村は翻訳を行い、ア式蹴球部を作り校内で仲間を募った。先に触れたように出版は1903年(明治36年)10月。翻訳は1902年4月に行なったとされているのでこの間出版社をさがしていた可能性がある。まだサッカーというものを知る人が少数だった時代なので版元も出すことをためらったであろうことは容易に想像がつく。結果として大阪に本店を置く鍾美堂という出版社から発行された。中村の出身が関西であることと関連があるのかも知れない。また同時に作成したテキスト通りに実行できるか実際のゲームを通して確認するという作業を行なっていたからとも考えられる。これは後年、東京高等師範学校のラグビー部がアメリカンフットボールの研究を行なった際にも同じように翻訳後、テスト的なゲームを行なうという手順を踏んでいる※。
※#27参照
サッカー日本代表のシンボルマークとなっている「八咫烏(やたがらす)」という三本足の烏は中村覚之助の生家から200mほどのところにある熊野那智大社のシンボルである。早世した中村覚之助に敬意を表し、東京高等師範学校の人たちによってデザインされたと言われている。神話では八咫烏は神武天皇が東征したときその道案内をしたという伝説がある。神話時代のことなのでなんの証拠もないがこの遠征で征服されたネイティブ紀州人、ナガスネヒコ一族は自分たちの祖先だと父が冗談めかして言っていたことがある。
中村覚之助たち東京高等師範学校ア式蹴球部のメンバーは偶然からアメリカンフットボールに出会う。コロンブスがインドに至ろうとして西インド諸島にたどりついたように、サッカーをもとめてアメリカンフットボールに遭遇した。このことについては次回扱いたいと思う。
次回は明日掲載。
今回から何回かにわたり時系列的に日本で行われたアメリカンフットボールの試みやゲームについて紹介したい。まず明治時代のわが国における近代スポーツやサッカーのはなしから。
『アッソシエーションフットボール』というサッカーの本がある。1903年(明治36年)10月4日に出版された日本で最初のサッカーの専門書である。「アソシエーション」の間違いではなく当時はこのように表記した。本邦への最初のサッカー紹介は1885年(明治18年)に出版された『西洋戸外遊戯法』、『戸外遊戯法』という2書において行われた。外来スポーツの一つとしてサッカーにもふれているが数ページにとどまっており『アッソシエーションフットボール』のような専門書ではない。この頃サッカーは「フートボール」と表記されることもあった。かなり長い間『戸外遊戯法』(坪井玄道、田中盛業編)が最初の本であると思われていたが、『西洋戸外遊戯法』(下村泰大編)という本が見出され『戸外遊戯法』は先駆けの座をゆずった。ただ、『西洋戸外遊戯法』、1885年3月発行、『戸外遊戯法』、4月発行ときわどく、陸上100m、ゴール写真判定ほどの差しかない。なお、日本で最初にチームを作ったのは1889年に創部した兵庫県尋常師範学校、のちの御影師範学校であるとされているが異説もある。
まだ『西洋戸外遊戯法』が見出されていなかったころ国会図書館で『戸外遊戯法』を読んだ。東京に勤務していた頃、休みにはよく通ってフットボール関係の本を探した。読んだといっても「マイクロフィッシュ」という本をモノクロ・ポジのスライドにしたものである。新聞雑誌の多くは映画フィルムのようなマイクロ・フィルムと呼ばれるものにコピーされる。古い書籍や新聞雑誌は長年たつと紙が酸化して触れるとくずれるような状態になる。これにくらべるとパピルス、羊皮紙、こうぞ、みつまたのほうが文明かもしれない。「マイクロフィッシュ」は一枚がハガキほどの大きさで、ここに見開き2ページ分を10数ミリの方形に縮小しそれを何十枚か焼き込んである。したがって数百ページほどの本でもマイクロフィッシュでは10枚前後になってかさばらない。デジタル化が行われる前には非常に便利なメディアだった。古い本で劣化したものや貴重な書籍がマイクロ化されている。このフィルムをバックライトのついたビューアーにかけてひとコマひとコマ読んでいく。もとがフィルムで鮮明度に限界があるため読みづらいことに加え光源が強い光のハロゲン球であるためかなり疲れる。
先日、ウェブで国会図書館の蔵書検索を行い『アッソシエーションフットボール』を立ち上げたら、結果に見慣れない表示とマークがつけられていた。それぞれ「本文をみる」、「近代デジタルライブラリー」となっている。クリックすると本文ページが現れた。マイクロフィッシュとはくらべものにならないほど鮮明な画面だった。かねてから世界中の図書館の蔵書がネットを通じて閲覧できるようになるということが言われていたが実際に体験したのは今回がはじめてで、すこぶる便利である。最近のネット書店では本の中身を「立ち読み」できるから、こうしたことは今後ますます促進されるだろう。1980年代初頭、アメリカ留学した人の話によると大学図書館のレファレンス検索ではすでに現在のネット検索の初期のものが使用されていたそうである。インターネットそのものの起源はそれよりもさらに10数年さかのぼるので当然かもしれない。
『アッソシエーションフットボール』に載っているイラスト
『西洋戸外遊戯法』や『戸外遊戯法』そして『アッソシエーションフットボール』が出版された明治時代も、そのあとの大正年間も一般にはサッカー、ラグビー、フットボールの区別がはっきりと理解されていたわけではない。それに加え、外来語にいろいろな訳語が考案され始めた時代だった。人口に膾炙(かいしゃ)したところでは、例えば“baseball”に「野球」という訳語が与えられたのも明治中期である。考案者は正岡子規説もあったが現在は子規と同じ旧制第一高等学校野球部の中馬庚(かなえ)であることが分かっている。子規は一時期、名が「升」(のぼる)であったので、これをもじって雅号に「野」(の)+「球」(ぼーる)、「野球」を用いていた。ここより推測しての子規命名説はどこかほほえましい。「まり投げて見たき広場や春の草」など野球を扱った句や歌を残している。子規の名声の大きさは野球殿堂に子規を叙した。中馬庚も子規よりも早く殿堂入りしている。スポーツに関連する訳語はさまざまに変遷し、それが理解と普及の速度を遅くした一因となった。ついでながら現在ではすでに日本語に同化している「スポーツ」という言葉にはまだ訳語がない。この言葉の持つ多義性に対応する日本語を発明できなかったためと思われる。日本ではビリヤードやチェスをスポーツの範疇に入れるには違和感があるようだが西欧ではこれらもスポーツに属している。また、#27で紹介したように富国強兵の国家政策のもとでは軍事教練が重視され体育は副次的な立場に置かれていた。これは戦後も後遺症として残り、スポーツが鍛錬と混同されそれに特化されている場面に出会うのは珍しいことではない。かてて加えて戦前において体育に触れることができたのは、ほぼ旧制中学の生徒に留まっていた。旧制中学への進学率は最盛期でも10%前後であったからスポーツの普及には自ずと限界が生じた。
民俗フットボールはイングランドで規則化され1863年にフットボール・アソシエーションができ、アソシエーションという言葉からサッカーという呼称が生まれた。このアソシエーション・フットボールを略し、サッカーは長い間「ア式蹴球」と呼ばれていた。これにならいラグビーを「ラ式蹴球」、時代がかなりくだってアメリカンフットボールを「米式蹴球」と呼んだ。戦前に創部したフットボールのチームの中にはたとえば早稲田大学のように現在も「米式蹴球部」という名称を使用していることがある。
「ア式蹴球」という言葉が現在でも流通しているところに出会う。数年前にある都市の図書館でアメリカンフットボールに関する資料をお願いしたところ、たくさんありますよ、と言って出してこられたのが「ア式蹴球」という言葉がタイトルに入った本だった。「ア」とつくのでアメリカンフットボールの「ア」と取り違えられたようである。対応いただいた方は20代と見受けられる司書の方だったのでまだまだ根強く残っているようである。
ことのついでに言えば「アメラグ」という言葉もある。アメリカ式のラグビーがつづまったもののようである。新聞、雑誌と言った印刷物に大正末期、あるいは昭和の初期から見られる呼称である。これも現在でも使われることがあり、メディアの方やフットボールの競技経験者の方も使われる。この言い方を好まれない方が大勢おられ、ゴキブリ退治のように矯正しようとされるが、なかなかにタフな言葉で根絶はむつかしいようである。
『アッソシエーションフットボール』を訳したのは中村覚之助という和歌山県那智勝浦出身の東京高等師範学校生であった。前書きによれば、各地の中学校師範学校よりサッカーのゲームの仕方をもとめられたので書いた、とあるので1885年の最初の紹介以降ある程度広まっていたと思われる。中村は翻訳を行い、ア式蹴球部を作り校内で仲間を募った。先に触れたように出版は1903年(明治36年)10月。翻訳は1902年4月に行なったとされているのでこの間出版社をさがしていた可能性がある。まだサッカーというものを知る人が少数だった時代なので版元も出すことをためらったであろうことは容易に想像がつく。結果として大阪に本店を置く鍾美堂という出版社から発行された。中村の出身が関西であることと関連があるのかも知れない。また同時に作成したテキスト通りに実行できるか実際のゲームを通して確認するという作業を行なっていたからとも考えられる。これは後年、東京高等師範学校のラグビー部がアメリカンフットボールの研究を行なった際にも同じように翻訳後、テスト的なゲームを行なうという手順を踏んでいる※。
※#27参照
サッカー日本代表のシンボルマークとなっている「八咫烏(やたがらす)」という三本足の烏は中村覚之助の生家から200mほどのところにある熊野那智大社のシンボルである。早世した中村覚之助に敬意を表し、東京高等師範学校の人たちによってデザインされたと言われている。神話では八咫烏は神武天皇が東征したときその道案内をしたという伝説がある。神話時代のことなのでなんの証拠もないがこの遠征で征服されたネイティブ紀州人、ナガスネヒコ一族は自分たちの祖先だと父が冗談めかして言っていたことがある。
中村覚之助たち東京高等師範学校ア式蹴球部のメンバーは偶然からアメリカンフットボールに出会う。コロンブスがインドに至ろうとして西インド諸島にたどりついたように、サッカーをもとめてアメリカンフットボールに遭遇した。このことについては次回扱いたいと思う。
次回は明日掲載。
#28 社会人選手権:JXBにいたるまで
投稿日時:2008/12/17(水) 10:19
13日(土)、社会人選手権、Japan X Bowlが行われた。結果はすでにご承知のことと思うがパナソニック電工インパルスの勝利に終った。今年10月に社名を変更されたパナソニック電工にとってこれ以上はないタイミングでのパブリシティ力満点の勝利だった。いろいろなメディアで大きく報道された。スポーツ面の紙数が限られている日経新聞でも3段3分の1あまりのスペースが割かれていた。インパルスは堅実なチームである。
1994年度 創部20周年
社会人選手権優勝
日本選手権(ライス・ボウル)優勝
1995年度 会社設立60周年
社会人選手権優勝
2004年度 創部30周年
4度目の社会人選手権優勝
2度目の日本選手権連覇
こう並ぶと運もさることながら強い意志の結果であると言えよう。しかし意図しても結果が出せないのはこの世の常である。もの作りをされている会社だけにフットボールにおいても生産計画がしっかりされているのであろう。
社会人フットボールの歴史をスケッチしてみる。主にこれまであまり触れられなかった1970年までのことについて触れてみたい。社会人のフットボールの歴史は戦前からある。ただし卒業生が取り組むという性格上、学生の歴史にくらべると短くなるのは自然の成り行きである。学生のリーグ戦は1934年に始まった。社会人は『日本アメリカンフットボール50年史』に書かれている、1940年(昭和15年)、1941年の6人制ゲームにおけるチームが現在確認できる最も古いものである。
1940年に普及のため主に中学生への底辺拡大をはかって、日本独自の6人制ルールが考案された。6月15、16日と「紀元二千六百年奉祝六人制米蹴大会」と名づけられた催しが神宮競技場で行なわれた。トーナメントが組まれその中にOBで構成された「ビクター」というチーム名が見られる。翌1941年は5月に開催され、ビクターが三洋商会というチームと対戦し、13-6という記録を残している。
「紀元二千六百年」は『日本書紀』の記述に基づき1872年(明治5年)太政官布告により制定された日本の歴史年数の数え方である。西暦紀元前660年を日本の元年として数えると1940年が2600年になり、この年それをことほぎさまざまな行事が行なわれた。「ゼロ戦」と略して呼ばれる「零式艦上戦闘機」いう戦闘機の名機もこの年に開発されたので下2桁の「00」を採って名づけられた。このことは年配の方には馴染み深い逸話である。
戦後は昭和20年代前半に「アンドリュース商会」という会社がスポンサーをした社会人チームがあった。アンドリュース商会は詳細不明だが熱処理材などを扱う代理店であったようである。立教大学アメリカンフットボール部のOBが数名勤務していた関係でスポンサーになったものと思われる。しかし、戦績などは未確認である。
昭和20年代。1950年(昭和25年)当時は「大阪市警視庁」と呼ばれた現在の大阪府警にフットボール部ができ、関西学院大学が最初に甲子園ボウルに優勝したチームのキャプテンであった渡邊年夫が警視庁に入庁しここでもキャプテンを務めた。
昭和30年代から40年代前半。関東では1957年(昭和32年)秋に明治大学、立教大学OBを中心として「東京ラムス」が結成され、それに続いて日本大学OBを中心とした「不死倶楽部」もスタートした。慶応OBで結成された「東京クラブ」というチームもあった。ラムスは3年間ほどの活動を行なった。不死倶楽部は活動を続け、その後チームはシルバースターに継承される。また1966年アパレル・メーカーのVANに実業団チームができた。関西では1961年、滋賀県の三菱樹脂の長浜工場に社会人チームが生まれた。
昭和40年代後半。1970年代に入り社会人のリーグが生まれる。関西では関西アメリカンフットボール連盟が創設された。この後1980年代前半にかけ東西でひとつの大学のOBを中心とし、勤務先の異なるメンバーで構成されたクラブ・チームがリーグを立ち上げた。一方、同一企業に勤務するメンバーからなるチームにより実業団リーグができた。松下電工、現在のパナソニック電工はこの動きのなかで1974年に創部された。
1984年までいくつかのリーグが並立していた。1984年、日本アメリカンフットボール協会の50周年を期してそれまで東西学生のオールスター戦であったライス・ボウルが学生代表と社会人代表による日本選手権に衣替えされた。これにともない社会人の代表を決めるため東西3つのリーグが1985年8月に統一され、日本社会人アメリカンフットボール協会(金沢好夫理事長:当時)が創設された。
その後何度かの改革を経て1996年に「Xリーグ」がスタートした。リーグ戦のあとに上位6チームによりトーナメントを行いチャンピオンを決定する方式が新リーグ開始の時から始まり現在に至っている。
※社会人の歴史について詳しくは『関西アメリカンフットボール史』を参照
1994年度 創部20周年
社会人選手権優勝
日本選手権(ライス・ボウル)優勝
1995年度 会社設立60周年
社会人選手権優勝
2004年度 創部30周年
4度目の社会人選手権優勝
2度目の日本選手権連覇
こう並ぶと運もさることながら強い意志の結果であると言えよう。しかし意図しても結果が出せないのはこの世の常である。もの作りをされている会社だけにフットボールにおいても生産計画がしっかりされているのであろう。
社会人フットボールの歴史をスケッチしてみる。主にこれまであまり触れられなかった1970年までのことについて触れてみたい。社会人のフットボールの歴史は戦前からある。ただし卒業生が取り組むという性格上、学生の歴史にくらべると短くなるのは自然の成り行きである。学生のリーグ戦は1934年に始まった。社会人は『日本アメリカンフットボール50年史』に書かれている、1940年(昭和15年)、1941年の6人制ゲームにおけるチームが現在確認できる最も古いものである。
1940年に普及のため主に中学生への底辺拡大をはかって、日本独自の6人制ルールが考案された。6月15、16日と「紀元二千六百年奉祝六人制米蹴大会」と名づけられた催しが神宮競技場で行なわれた。トーナメントが組まれその中にOBで構成された「ビクター」というチーム名が見られる。翌1941年は5月に開催され、ビクターが三洋商会というチームと対戦し、13-6という記録を残している。
「紀元二千六百年」は『日本書紀』の記述に基づき1872年(明治5年)太政官布告により制定された日本の歴史年数の数え方である。西暦紀元前660年を日本の元年として数えると1940年が2600年になり、この年それをことほぎさまざまな行事が行なわれた。「ゼロ戦」と略して呼ばれる「零式艦上戦闘機」いう戦闘機の名機もこの年に開発されたので下2桁の「00」を採って名づけられた。このことは年配の方には馴染み深い逸話である。
戦後は昭和20年代前半に「アンドリュース商会」という会社がスポンサーをした社会人チームがあった。アンドリュース商会は詳細不明だが熱処理材などを扱う代理店であったようである。立教大学アメリカンフットボール部のOBが数名勤務していた関係でスポンサーになったものと思われる。しかし、戦績などは未確認である。
昭和20年代。1950年(昭和25年)当時は「大阪市警視庁」と呼ばれた現在の大阪府警にフットボール部ができ、関西学院大学が最初に甲子園ボウルに優勝したチームのキャプテンであった渡邊年夫が警視庁に入庁しここでもキャプテンを務めた。
昭和30年代から40年代前半。関東では1957年(昭和32年)秋に明治大学、立教大学OBを中心として「東京ラムス」が結成され、それに続いて日本大学OBを中心とした「不死倶楽部」もスタートした。慶応OBで結成された「東京クラブ」というチームもあった。ラムスは3年間ほどの活動を行なった。不死倶楽部は活動を続け、その後チームはシルバースターに継承される。また1966年アパレル・メーカーのVANに実業団チームができた。関西では1961年、滋賀県の三菱樹脂の長浜工場に社会人チームが生まれた。
昭和40年代後半。1970年代に入り社会人のリーグが生まれる。関西では関西アメリカンフットボール連盟が創設された。この後1980年代前半にかけ東西でひとつの大学のOBを中心とし、勤務先の異なるメンバーで構成されたクラブ・チームがリーグを立ち上げた。一方、同一企業に勤務するメンバーからなるチームにより実業団リーグができた。松下電工、現在のパナソニック電工はこの動きのなかで1974年に創部された。
1984年までいくつかのリーグが並立していた。1984年、日本アメリカンフットボール協会の50周年を期してそれまで東西学生のオールスター戦であったライス・ボウルが学生代表と社会人代表による日本選手権に衣替えされた。これにともない社会人の代表を決めるため東西3つのリーグが1985年8月に統一され、日本社会人アメリカンフットボール協会(金沢好夫理事長:当時)が創設された。
その後何度かの改革を経て1996年に「Xリーグ」がスタートした。リーグ戦のあとに上位6チームによりトーナメントを行いチャンピオンを決定する方式が新リーグ開始の時から始まり現在に至っている。
※社会人の歴史について詳しくは『関西アメリカンフットボール史』を参照
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