川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」 2009/3

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#34 彼らの生き方―第43回スーパー・ボウル? ファースト・ハーフ

投稿日時:2009/03/29(日) 23:13

 今年のスーパー・ボウルからもうすでに2ヶ月近くが過ぎた。過去のスーパー・ボウルも含め今回の第43回のことについて書きたいと思う。

2月2日(月) 第43回スーパー・ボウル当日
馬を馴らすトロイア人と、青銅の帷子(かたびら)を着たアカイア勢※
ホメロス『イーリアス』 高津春繁・呉茂一訳
※アカイア勢はギリシア人のこと

 #32の最初の方に書いたように今年のスーパー・ボウルを見ていてホメロスの『イーリアス』を連想した。トレント・ディルファーも言ったようにスーパー・ボウルは叙事詩だと思う。

<Sleep Well>
 プレス・カンファレンスでピッツバーグのウィリー・パーカーが、ゲーム前日の夜はどうしますか、と聞かれて“Read the bible, go to my play book, sleep well”と応えていた。

<ウォルター・ペイトン・マン・オブ・ザ・イヤー>
 プレ・ゲーム・ショーの時間帯にウォルター・ペイトン・マン・オブ・ザ・イヤーの表彰があった。1970年より設けられた賞で1999年からウォルター・ペイトンの名が冠された。
 ウォルター・ペイトンのファンだった。その独特のステップ・ワークは誰も真似ができなかった。そしてまだ誰もできていない。まるでダンスように自在な足さばきはマイケル・ジャクソンをスケール・アップしたらウォルター・ペイトンになると言われた。エミット・スミスが破るまでキャリア通算のラッシング・ヤード記録を持っていた。その記録はベーブ・ルースのホームラン記録のように破られたのちも偉大なマイル・ストーンであることに変わりはない。ペイトンの属していたシカゴ・ベアーズは彼の時代、勝ち運に恵まれなかった。だが、選手としての最晩年にスーパー・ボウル出場を果たす。このときペイトンは長年脚を酷使してきたため膝を曲げられないほどの状態だった。しかし、それまでの努力は報われた。1985年シーズンのベアーズは最強で、ペイトンはスーパー・ボウル・リングを手にすることができた。
 ペイトンはオフの方が厳しいトレーニングをしていた。丘を背にした土地に自宅を建て、毎日丘陵を上り下りして身体を鍛えた。オリンピックのマラソンで2連覇したアベベ・ビキラのように走り尽くし40代でその生涯を終えた。
 賞の選考基準はボランティア、慈善活動で、社会貢献したNFLプレーヤーである。今年は出場したカージナルスのQBカート・ワーナーが受賞した。ワーナーと結婚したとき奥さんはすでに障害児をもっていた。ワーナーは障害者の支援を続けており、20000年、ラムズをスーパーに導いた時、ボーナスとして数千万円をもらった。それは障害児の団体に寄付された。

<America the Beautiful>
 サンデー・ナイト・フットボールのオープニングで飾っているカントリー・シンガーのフェイス・ヒルが”America the Beautiful”を歌う。アメリカがカントリー・ソングの国だと思わせられたのは、初めて渡米した80年代半ばのことだった。レコード・ショップという呼び方がまだ健在だった頃である。ショップに行くと圧倒的な売場スペースをカントリーが占めていた。おなじみのポップスやジャズは稀少動物のように隅っこに追いやられていて、捜さないと見あたらないという状態だった。
 1980年代の後半、レコード店にはカッレジ・フットボールのチケットの自販機があった。いとこが連れてくれたUSCのゲーム・チケットはそこで手に入れた。また、ロサンゼルスのオリンピック・コロシアムのかたわらの侘しい一角にマーレーという日本でいえば金券ショップがあり、東海岸で行われるアイビー・リーグのフットボールのチケットも販売していた。スーパー・ボウルのチケットも買うことができる、といとこに聞かされてなんとも羨ましく思ったことを覚えている。

<ハドソン川の奇跡>
 オープニング・セレモニーに先日のハドソン川の奇跡のクルーも参加していた。チェスリー・サレンバーガー、USエアウェイズ1549便の機長の手記から。

「ようやく病院を後にしてホテルにたどり着いたとき、私の望みはいたってささやかなものだった。持ち物をすべて失い、これまでの人生で最も過酷な3分間を経験したばかり。私がそのとき本当に望んでいたのは、家族の声を聞くこと、そして乾いた靴下にはき替えることだけだった」

「5人の乗員全員でなく機長である私一人をたたえる傾向に私は異を唱えてきたが、社会の見方を変えることには必ずしも成功していないようだ」

 奥さんのローリーさんがCBSの番組『60ミニッツ』で言ったことを引用して。

「英雄とは人命救助のために炎が燃え盛るビルの中に飛び込む決意をするような人のこと。私の場合は違う。事態が私たちの上に降りかかってきたのだ」

「こどものころ父を通して学んだのは、司令官たるもの、指揮下のすべての人間の命に責任をもたなくてはならないということだった。予測を誤ったり判断をまちがったりして誰かにけがをさせるのは、司令官として許しがたい大罪だ」

「乗客の惜しみない励ましを別にすれば、いちばん感動したのは同業者の言葉だった。航空産業の不景気が続き、パイロットという職業に昔ほど敬意を払われなくなって、仕事に誇りを感じられずにいたと彼らは言った。だが私たちのおかげで今は仕事に誇りを感じていると、感謝の言葉を述べてくれた。失われた尊厳の一部を取り戻せたと感じたという」

「私たち家族は今回脚光を浴びたことで人間として変わらないようにしようと自分たちに強く言い聞かせている。そのためには学ぶべきことがたくさんある」
(Newsweek日本版 2/25/2009号より)

<ナショナル・アンサム>
 ナショナル・アンサムはジェニファ・ハドソンだった。いつもスーパー・ボウルの大きな見せ場だ。1991年は湾岸戦争のさなかでテロの予告があった。タンパのスタジアムにはコンクリートのバリケードが築かれているという報道映像があった。バリケードは高く刑務所の壁のように見えた。しかし現地に行ってみると、見たのは仰角で撮り大きく見せた映像だったことが分かった。
 戦争は1月に始まり、緊迫した雰囲気の中、ホイットニー・ヒューストンの熱唱は胸を打ち、スタジアムの中のアメリカの人たちの多くが涙を流していた。一体感に包まれ、これまでで一番インパクトのあった国歌斉唱だった。このホイットニーの絶唱はその後CDになって発売された。

<カンファレンスの勝敗と経済>
 かつてNFCが勝つと景気がよくなり、AFCが勝つと景気が悪くなるというジンクスがあった。ジンクスを思い出してこれまでの戦績を見直してみた。これが当てはまったのは1970年代から1980年代初頭までであったように思う。NFCが連覇を続けていた1981年シーズンから1996年シーズンはNFCストリークと呼ばれ、AFCは永遠に勝てないように思えた。この間、AFCチームが勝ったのは1983年シーズンのオークランド・レイダーズのみである。1980年代、アメリカは双子の赤字に悩まされており、NFCが勝利しても基本的に景気が良くなったとは言えなかったと思う。レーガノミックスの効果が現れ財政収支が黒字転換するのは1998年である。AFCが長いトンネルを抜け出し、勝利するには1997年シーズン、ジョン・エルウェーが活躍したデンバー・ブロンコスを待たねばならない。
 これまでの4半世紀、例えばデプレッションのあった年はどうであったか。上段は景気暴落の年、下段はその年のスーパー・ボウルの戦績である。チーム名の左がNFC、右がAFCである。

1987年 10月19日 ブラック・マンデー 
1月25日 NYG 39-20 DEN

1991年 湾岸戦争、年初にニューヨーク・ダウが大幅下落、2月 日本でバブル崩壊
1月27日 NYG 20-19 BUF

2000年 春 ITバブル崩壊
1月30日 SLR 23-16 TEN

2001年 9.11事件後の株価暴落、12月2日 エンロン破綻
1月28日 NYG 7-34 BOL

2008年 9月15日 サブプライム問題 リーマンショック
2月3日 NYG 17-14 NE

NYG:ニューヨーク・ジャイアンツ 
DEN:デンバー・ブロンコス    
BUF:バッファロー・ビルズ    
SLR:セントルイス・ラムズ    
TEN:テネシー・タイタンズ    
BOL:ボルチモア・コルツ     
NE :ニューイングランド・ペイトリオッツ       

 またタンパで開催されるスーパー・ボウルは1991年は湾岸戦争、今年はサブプライム問題と波乱が重なっている。
 ニューヨーク・ジャイアンツ・ファンには気の毒だがジャイアンツがスーパー・ボウルに出場する年とデプレッションが奇妙に一致する。

<Wedge>
 エア・フォースの戦闘機がナショナル・アンサムの終わりと同時にスタジアム上空に来る。今年は数秒遅れた。戦闘機のフォーメーションを見ていて非常に古い体型であるWedgeではないかと思った。比較のために戦闘機の写真と、Wedgeのダイヤグラム、Wedgeの実写を掲げるのでご判断いただきたい。もしかしたらドームをのぞくオープン・エアの会場では毎年こうした趣向があったのかも知れない。

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では、ハーフ・タイムへ。

#33 鳥内のおっちゃんインタビュー

投稿日時:2009/03/11(水) 12:49

 先週6日、朝日新聞夕刊の惜別欄に鳥内のおっちゃんのことが載った。ファイターズの後輩の榊原一生記者が書かれた追悼文である。今回は第43回スーパー・ボウルの原稿を用意していたが、予定変更して昨夏おっちゃんをインタビューした時のことを書きたい。
 お会いしたときはすでに体調を崩しておられたが、普通の人の倍くらいのエネルギーを感じさせられた。プレーヤーとして現役の頃は常人の10倍ほどのパワーがあったのではと思った。質問をするとおっちゃんの記憶は鮮明で次々に話が展開していった。ファイターズが和歌山で関大とゲームを行ったことがあった。1948年(昭和23年)5月9日のことである。これまで和歌山のどこかの学校ということで場所が特定できていなかった。おっちゃんはそれは田辺高校のグランドやった、と明快に答えた。あの日は暑かったな、ということも記憶に残っていた。さらにグランドでは先に野球の練習をしていたのでキック・オフが遅れたともつけ加えた。硬派で武骨のイメージの強い人だったが、家の本棚にはマルクス全集が並んでいると聞いたことがある。受け答えはぶっきらぼうに見えて心遣いがあった。

 大阪の旧制生野中学出身で関学は専門部から高商に進学。生野中学では柔道をしていた。しかし当時は連合軍の占領下にあったため武道が禁止されていたのでレスリングに取り組んだ。練習はコンクリートの上、という時代であったらしい。ファイターズには1946年(昭和21年)入部。同級生に何人かのフットボール部員がおり、浜寺のほうに住んでいた百々(どど)さんというマネージャーから勧誘を受けた。入部した翌日はいきなり関大との試合だった。フィールドへ下駄をはいて行った。ボールを持っている奴を捕まえろと教えられ、元帥というあだ名のついた杉山という選手をタックルした。この年、リーグ戦で同志社と引き分け、両校優勝となり順位決定のため再試合が行われたがこの試合も引き分けという大接戦になった。12月7日、2度目の再試合で、2-7と惜敗。結果論だがこの試合に勝った同志社は翌年4月の第1回甲子園ボウルに出場しているのでファイターズにとって大きな敗戦だった。その後、一週間もたたない12日に対関大定期戦が組まれていたが、趣旨がうまく伝わっていなかったようで、一同士気が低く大敗。このようにしておっちゃんの最初のシーズンは終わった。

 4年生になった1949年は前年に旧制中学でタッチフットボールを経験した多くの有望新人を加え、秋のリーグ戦前の新聞評では優勝候補に挙げられていた。優勝を賭けた戦いとなった京大戦はのちの関京戦の原型となる緊迫した展開となった。前半リードされハーフタイムにおっちゃんから、「お前ら負けるおもたらあかんぞ」という檄が飛び、チームがよみがえったことは榊原さんも書かれた通りである。
 京大には陸軍士官学校、海軍士官学校出身の高度な肉体、精神のトレーニングを積んだ筋金入りのメンバーがいた。このとき京大チームの中心にいた神田綽夫氏の烈々たる闘志はその後も継承される京大の関学に対するライバルリーの萌芽となった。おっちゃんのトイメンには稲波昭三という巨漢のタックルがいて対等の戦いになった。稲波氏の子息は1970年代半ば、関京2強時代の幕開けの時期に京大のセンターとして活躍した。親子2代のフットボーラーのさきがけかも知れない。

 この年1949年、第4回甲子園ボウルは慶応大学との対戦となった。おっちゃんは常に相手のラインを圧倒し、その前には人がいないも同然の働きをみせた。たまらず慶応大学のメンバーが口パンを飛ばした。言い返したことばに「あほんだら」という単語が含まれていたが当時はまだこの上品な関西弁は東京までおよんでいなかったらしく意味が通じなかった。慶応ボーイたちは東京弁で「やっちゃえ、やっちゃえ」と言っていたそうである。
 ゲームはおっちゃんの活躍などがありファイターズは初出場で甲子園を制した。こうしてその後甲子園ボウルに連続出場するスタートが切られた。
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