石井晃のKGファイターズコラム「スタンドから」 2017/4/27
(4)楽しくなければスポーツじゃない
投稿日時:2017/04/27(木) 14:58
ファイターズの試合があった後は必ず、記者が鳥内監督や活躍した選手を取り囲んで話を聞く。いわゆる「囲み取材」というやつだ。公式の記者会見ではないけれども、試合直後ならではの生々しい感想が聞けるので、どの記者も重宝している。
僕は関西スポーツ記者クラブには所属していないが、それでも新聞記者の端くれ。ファイターズの試合に限ってはグラウンドに降り、記者の質問に答える監督や選手の発言に耳を傾ける。
選手の初々しい話はもちろん興味深いが、なんといっても興味深いのは監督の囲み取材。短いけれども、必ず、核心をついた言葉が出てくる。ただし、それがバリバリの大阪弁で、なおかつ思い切り言葉が省略されているから、大阪の言葉や表現方法になじみのない記者、あるいは監督と付き合いの浅い記者には、その真意を理解するのが難しい。時には「大阪ネイティブ」の記者にしかその真意が理解できないのではないかと心配になることもある。
例えば、先日の慶応大との試合後、ポイントになる発言がふたつあった。一つは前回のコラムで紹介した「まあ、こんなもんちゃうか。ええとこもあったし、悪いとこもあった」という言葉。もう一つが「スポーツはなんでもそやけど、おもんなかったらあかん。いわれたことだけやってて、おもろいか」という発言。
最初の発言は、その日の試合の総括として、ものすごく引用しやすい。この言葉をキーにしてよかった点とこれから改善しなければいけない点を書いていけば、すらすらとその日の記事ができあがる。昔ならわざわざ原稿用紙に書いて文章をまとめなくても、そのまま本社に電話送稿できた。
これは余談だが、その昔、僕が駆け出しの頃は、〆切間際、原稿用紙に記事を書く時間的な余裕がないときに、現場の状況を白紙の状態で電話送稿する手法があり、業界では「勧進帳」と呼ばれていた。弁慶が義経と東北に落ちる際、安宅の関を抜けるために、何も書かれていない「勧進帳」を堂々と読み上げたという歌舞伎の名場面からとった言葉である。僕が現場を走り回っていた時代には「勧進帳で50行の記事が送れたら一人前」と言われていた。
本題に戻る。
二つ目の「スポーツはなんでもそうやけど、おもんなかったらあかん。言われたことだけやってておもろいか」という言葉である。別の言葉で言えば「楽しくなければスポーツではない。スポーツを本気で楽しむためには、言われたことをこなすだけでなく、常に創意と工夫が必要。その創意と工夫が具体的な成果につながり、勝利に結びついてこそ、スポーツは楽しくなる」という意味だろう。
人はなぜ体を動かすのか。体を動かすことがなぜ楽しみにつながるのか。なぜ勝利を目指して修練を積むのか。なぜ、チームスポーツが生まれ、それが広く大衆に支持されているのか。スポーツ、特にチームスポーツが人間の成長、発達にとってどのような役割を果たすのか。そういういくつもの問いに対する答えがこの言葉に集約されているように僕は受け止めた。
例えば、赤ん坊が初めて寝返りをうった場面を想像してみればよい。生まれて数ヶ月たったころ、いつも上を向いて寝ていた赤ん坊が、しきりに体をひねり始める。寝返りをうとうとしているのだが、なかなか上手くいかない。右に転がり、左に体をねじり、何度も何度もチャレンジした末に、ある瞬間、ごろんと寝返りがうてる。目的達成だ。
そのときは一瞬、うれしそうな表情になる。けれども、今度はうつぶせになったままで、上を向けない。たまらずに泣き始めるかも知れない。けれども何度も工夫しているうちに上を向くのもうつぶせになるのも自由自在になる。それができたとき、どんな赤ん坊も驚くほどうれしそうな顔をしている。自分の努力と工夫が実った喜びである。
そういう喜びを一つ一つ体感し、身に付けていくことで人は成長する。それはフットボールに取り組む選手にとってもそのまま当てはまることである。
昨日まで出来なかったことが一つの工夫でできるようになる。相手を見極める目を養い、一つのフェイントを覚えただけで、面白いほど簡単に守りを突破することができる。どうしても捕まえられなかった相手を足の運び一つを工夫することで捕まえられるようになる。そういう積み重ねが選手を成長させる。その成長の実感がスポーツの楽しみにつながり、新たな創意と工夫を生み出す。もう一つ上のステージを目指して努力を続けるエネルギーになる。
そういう、いわばスポーツの本質を突いたのが「言いわれたことだけやってておもろいか」という鳥内監督の問い掛けである。深いではないか。
幸いファイターズは、監督やコーチの指示を待って行動することが義務づけられた集団ではない。選手たちが自ら工夫し、互いに助け合って上達しようとすることを大切にする文化がある。それは戦後、チームが再出発して以来の先輩たちが営々と築いた文化であり、いまもチームにとうとうと流れている水脈である。
内部にいては気付きにくいその価値に目を向け、創意と工夫、そしてたゆまぬ努力を続けよう。「おもろいフットボール」を追求しよう。スポーツの楽しさに目覚めた者が増えれば増えるほど、栄光への道は近くなる。
僕は関西スポーツ記者クラブには所属していないが、それでも新聞記者の端くれ。ファイターズの試合に限ってはグラウンドに降り、記者の質問に答える監督や選手の発言に耳を傾ける。
選手の初々しい話はもちろん興味深いが、なんといっても興味深いのは監督の囲み取材。短いけれども、必ず、核心をついた言葉が出てくる。ただし、それがバリバリの大阪弁で、なおかつ思い切り言葉が省略されているから、大阪の言葉や表現方法になじみのない記者、あるいは監督と付き合いの浅い記者には、その真意を理解するのが難しい。時には「大阪ネイティブ」の記者にしかその真意が理解できないのではないかと心配になることもある。
例えば、先日の慶応大との試合後、ポイントになる発言がふたつあった。一つは前回のコラムで紹介した「まあ、こんなもんちゃうか。ええとこもあったし、悪いとこもあった」という言葉。もう一つが「スポーツはなんでもそやけど、おもんなかったらあかん。いわれたことだけやってて、おもろいか」という発言。
最初の発言は、その日の試合の総括として、ものすごく引用しやすい。この言葉をキーにしてよかった点とこれから改善しなければいけない点を書いていけば、すらすらとその日の記事ができあがる。昔ならわざわざ原稿用紙に書いて文章をまとめなくても、そのまま本社に電話送稿できた。
これは余談だが、その昔、僕が駆け出しの頃は、〆切間際、原稿用紙に記事を書く時間的な余裕がないときに、現場の状況を白紙の状態で電話送稿する手法があり、業界では「勧進帳」と呼ばれていた。弁慶が義経と東北に落ちる際、安宅の関を抜けるために、何も書かれていない「勧進帳」を堂々と読み上げたという歌舞伎の名場面からとった言葉である。僕が現場を走り回っていた時代には「勧進帳で50行の記事が送れたら一人前」と言われていた。
本題に戻る。
二つ目の「スポーツはなんでもそうやけど、おもんなかったらあかん。言われたことだけやってておもろいか」という言葉である。別の言葉で言えば「楽しくなければスポーツではない。スポーツを本気で楽しむためには、言われたことをこなすだけでなく、常に創意と工夫が必要。その創意と工夫が具体的な成果につながり、勝利に結びついてこそ、スポーツは楽しくなる」という意味だろう。
人はなぜ体を動かすのか。体を動かすことがなぜ楽しみにつながるのか。なぜ勝利を目指して修練を積むのか。なぜ、チームスポーツが生まれ、それが広く大衆に支持されているのか。スポーツ、特にチームスポーツが人間の成長、発達にとってどのような役割を果たすのか。そういういくつもの問いに対する答えがこの言葉に集約されているように僕は受け止めた。
例えば、赤ん坊が初めて寝返りをうった場面を想像してみればよい。生まれて数ヶ月たったころ、いつも上を向いて寝ていた赤ん坊が、しきりに体をひねり始める。寝返りをうとうとしているのだが、なかなか上手くいかない。右に転がり、左に体をねじり、何度も何度もチャレンジした末に、ある瞬間、ごろんと寝返りがうてる。目的達成だ。
そのときは一瞬、うれしそうな表情になる。けれども、今度はうつぶせになったままで、上を向けない。たまらずに泣き始めるかも知れない。けれども何度も工夫しているうちに上を向くのもうつぶせになるのも自由自在になる。それができたとき、どんな赤ん坊も驚くほどうれしそうな顔をしている。自分の努力と工夫が実った喜びである。
そういう喜びを一つ一つ体感し、身に付けていくことで人は成長する。それはフットボールに取り組む選手にとってもそのまま当てはまることである。
昨日まで出来なかったことが一つの工夫でできるようになる。相手を見極める目を養い、一つのフェイントを覚えただけで、面白いほど簡単に守りを突破することができる。どうしても捕まえられなかった相手を足の運び一つを工夫することで捕まえられるようになる。そういう積み重ねが選手を成長させる。その成長の実感がスポーツの楽しみにつながり、新たな創意と工夫を生み出す。もう一つ上のステージを目指して努力を続けるエネルギーになる。
そういう、いわばスポーツの本質を突いたのが「言いわれたことだけやってておもろいか」という鳥内監督の問い掛けである。深いではないか。
幸いファイターズは、監督やコーチの指示を待って行動することが義務づけられた集団ではない。選手たちが自ら工夫し、互いに助け合って上達しようとすることを大切にする文化がある。それは戦後、チームが再出発して以来の先輩たちが営々と築いた文化であり、いまもチームにとうとうと流れている水脈である。
内部にいては気付きにくいその価値に目を向け、創意と工夫、そしてたゆまぬ努力を続けよう。「おもろいフットボール」を追求しよう。スポーツの楽しさに目覚めた者が増えれば増えるほど、栄光への道は近くなる。