石井晃のKGファイターズコラム「スタンドから」 2013/10
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(26)「成長の実感」
投稿日時:2013/10/16(水) 22:20
たいていの草花は、種をまいてから1年以内に花を咲かせる。学校で子どもたちが観察日記を書かされるアサガオやゴーヤなんて、種をまいて3カ月もたてば、花が咲き、実が収穫できる。
けれども樹木はそうはいかない。「桃栗3年、柿8年」というのは、極めて短い方で、スギやヒノキが用材として利用できるようになるまでには少なくとも60年から70年の歳月が必要だ。
人間となると、さらにやっかいである。歳月を重ね、身体は一人前になっても、それが直接、人としての成長にはつながるわけではない。孔子は数えの40歳を不惑といい、60歳を耳順といって、人の成長の一つの理想を説いた。けれども、そういうことをいうこと自体、40歳になっても惑う人が多く、60歳になっても耳に従う、すなわち人の言うことに耳を傾けることの出来ない人が多かったからだろう。僕も例外ではない。間もなく69歳になるというのに、未だに惑いっぱなし。人の言うことも素直に聞けない。馬齢を重ねてきたというしかない。
けれども、馬齢を重ねることにも、時にはいいことがある。こんなことを言うと、腹を抱えて笑われるだろうが、この年齢になっても、何かの折に「俺って、文章書くのがうまくなったんちゃうか」とか、「この年齢になって新聞記者の仕事のおもしろさが分かってきた」とかいうようなことを実感することがあるからだ。
それは、人からみれば自己満足のたわごとだが、別の言葉でいえば、発展途上の人間にのみ許される「成長の実感」である。その手応えはそのまま、明日も頑張ろうというエネルギーになって自分に返ってくる。そのエネルギーがまた、明後日の成長、発展の足がかりになってくれる。
大事なことは、そういう「成長の実感」を人はどのようにして手に入れることが出来るか、という点にある。
だらだらとこんなことを書き連ねているのは、ファイターズの諸君のうち何人かがいま、確かにそうした実感を手にしつつある、その実感を土台にさらなる成長を遂げようとしていると感じるからである。
先日の神戸大学との試合を振り返って見よう。ファイターズの諸君は、スタンドで観戦している多くのファンの前で、これまでとは見違えるようなリズミカルな動きを見せてくれた。
攻撃では、QB斎藤がWR大園、梅本、木下、横山、TE松島らに長短のパスが次々と成功させる。時にはRB鷺野や飯田へのパスを交えて目先を変え、なんとパスだけで298ヤード、4本のTDを獲得した。勢いに乗って、短い出番だったが、QB前田もWR片岡へのTDパスをヒットさせ、華麗なパスアタックを締めくくった。
守備では池田雄、小野、作道、そして1年生の山岸で構成する盤石のLB陣を中心に、池永を柱にしたライン、鳥内、大森が率いるDBの動きが補完しあって、相手に得点を許さない。これまでの試合では、前半は完璧でも、後半、交代メンバーが出てきた途端にまったく別のチームのようになっていた守備陣が、この日は最後までしっかり守りきった。
特筆すべきは、ベンチのプレーコールである。どこまでもランにこだわったこれまでの3戦とは打って変わって、パスを中心にした思い切りのよい作戦を貫き通した。
圧巻は第2Q後半、ファイターズ5回目の攻撃シリーズ。自陣32ヤードから大園へのリバースプレーで6ヤードを獲得したのを皮切りに6回連続のパスプレーをコールし、5回を成功させた。パスをキャッチしたのは順に大園(20ヤード)、木下(19ヤード)、横山(6ヤード)、HB梶原(7ヤード)、仕上げが梅本へ浮かせた10ヤードTDパス。
長い間、ファイターズの試合を見てきたが、試合終盤の時間に追われる場面以外で、ここまで徹底してパスで攻め続けた攻撃は記憶にない。ベンチのコールもひと味違ったし、それ以上に、ターゲットをすべて変え、長短、左右を投げ分けて、次々とピンポイントのパスを成功させた斎藤の成長に目を見張った。これだけのプレーを立て続けに成功させれば、自分の感覚の中で、例えば「ぱっと電球がともる」というような瞬間があったに違いない。それが僕のいう「成長の実感」である。
人は、決して右肩上がりの曲線を描いて成長するのではない。時には停滞し、後退することもある。重い荷物を背負って、その重さにつぶされてしまいそうになるときもある。予期せぬ事態に、思わずひるむこともあるだろう。
それでも、音を上げず、ひたすら練習に取り組み、自分を鍛える。奥歯をかみしめてならぬ我慢もする。その我慢が出来ずに、思わず手近にある湯飲みを床にたたきつけるようなことがあるかもしれない。
けれども、ある日突然、そういう停滞期が嘘のように消え、突き抜けた青空が広がることがある。そのときは気がつかないかもしれないが、後から振り返れば、あのとき確かに階段を一つ上がった、昨日とは違う舞台で戦っている自分がいた、というようなことを思い知るのである。それが僕のいう「成長の実感」である。実際に何かをつかんだ瞬間にそれが訪れることもあるし、振り返ってその手応えをつかんだことを実感することもある。
つまりそれは、停滞期、後退期に悩み、もがき抜いて、それでも自分を信じて目標に挑み、自らを鍛え続けた者だけが手にすることのできる「実感」である。
先日の神戸大戦だけではない。その前の龍谷や近大との戦い、そして普段の練習の中でも、あえて名前は挙げないが、そういう「実感」を手にしつつある人材が少しずつ現れてきているような気がする。それは僕のひいき目だろうか。
けれども樹木はそうはいかない。「桃栗3年、柿8年」というのは、極めて短い方で、スギやヒノキが用材として利用できるようになるまでには少なくとも60年から70年の歳月が必要だ。
人間となると、さらにやっかいである。歳月を重ね、身体は一人前になっても、それが直接、人としての成長にはつながるわけではない。孔子は数えの40歳を不惑といい、60歳を耳順といって、人の成長の一つの理想を説いた。けれども、そういうことをいうこと自体、40歳になっても惑う人が多く、60歳になっても耳に従う、すなわち人の言うことに耳を傾けることの出来ない人が多かったからだろう。僕も例外ではない。間もなく69歳になるというのに、未だに惑いっぱなし。人の言うことも素直に聞けない。馬齢を重ねてきたというしかない。
けれども、馬齢を重ねることにも、時にはいいことがある。こんなことを言うと、腹を抱えて笑われるだろうが、この年齢になっても、何かの折に「俺って、文章書くのがうまくなったんちゃうか」とか、「この年齢になって新聞記者の仕事のおもしろさが分かってきた」とかいうようなことを実感することがあるからだ。
それは、人からみれば自己満足のたわごとだが、別の言葉でいえば、発展途上の人間にのみ許される「成長の実感」である。その手応えはそのまま、明日も頑張ろうというエネルギーになって自分に返ってくる。そのエネルギーがまた、明後日の成長、発展の足がかりになってくれる。
大事なことは、そういう「成長の実感」を人はどのようにして手に入れることが出来るか、という点にある。
だらだらとこんなことを書き連ねているのは、ファイターズの諸君のうち何人かがいま、確かにそうした実感を手にしつつある、その実感を土台にさらなる成長を遂げようとしていると感じるからである。
先日の神戸大学との試合を振り返って見よう。ファイターズの諸君は、スタンドで観戦している多くのファンの前で、これまでとは見違えるようなリズミカルな動きを見せてくれた。
攻撃では、QB斎藤がWR大園、梅本、木下、横山、TE松島らに長短のパスが次々と成功させる。時にはRB鷺野や飯田へのパスを交えて目先を変え、なんとパスだけで298ヤード、4本のTDを獲得した。勢いに乗って、短い出番だったが、QB前田もWR片岡へのTDパスをヒットさせ、華麗なパスアタックを締めくくった。
守備では池田雄、小野、作道、そして1年生の山岸で構成する盤石のLB陣を中心に、池永を柱にしたライン、鳥内、大森が率いるDBの動きが補完しあって、相手に得点を許さない。これまでの試合では、前半は完璧でも、後半、交代メンバーが出てきた途端にまったく別のチームのようになっていた守備陣が、この日は最後までしっかり守りきった。
特筆すべきは、ベンチのプレーコールである。どこまでもランにこだわったこれまでの3戦とは打って変わって、パスを中心にした思い切りのよい作戦を貫き通した。
圧巻は第2Q後半、ファイターズ5回目の攻撃シリーズ。自陣32ヤードから大園へのリバースプレーで6ヤードを獲得したのを皮切りに6回連続のパスプレーをコールし、5回を成功させた。パスをキャッチしたのは順に大園(20ヤード)、木下(19ヤード)、横山(6ヤード)、HB梶原(7ヤード)、仕上げが梅本へ浮かせた10ヤードTDパス。
長い間、ファイターズの試合を見てきたが、試合終盤の時間に追われる場面以外で、ここまで徹底してパスで攻め続けた攻撃は記憶にない。ベンチのコールもひと味違ったし、それ以上に、ターゲットをすべて変え、長短、左右を投げ分けて、次々とピンポイントのパスを成功させた斎藤の成長に目を見張った。これだけのプレーを立て続けに成功させれば、自分の感覚の中で、例えば「ぱっと電球がともる」というような瞬間があったに違いない。それが僕のいう「成長の実感」である。
人は、決して右肩上がりの曲線を描いて成長するのではない。時には停滞し、後退することもある。重い荷物を背負って、その重さにつぶされてしまいそうになるときもある。予期せぬ事態に、思わずひるむこともあるだろう。
それでも、音を上げず、ひたすら練習に取り組み、自分を鍛える。奥歯をかみしめてならぬ我慢もする。その我慢が出来ずに、思わず手近にある湯飲みを床にたたきつけるようなことがあるかもしれない。
けれども、ある日突然、そういう停滞期が嘘のように消え、突き抜けた青空が広がることがある。そのときは気がつかないかもしれないが、後から振り返れば、あのとき確かに階段を一つ上がった、昨日とは違う舞台で戦っている自分がいた、というようなことを思い知るのである。それが僕のいう「成長の実感」である。実際に何かをつかんだ瞬間にそれが訪れることもあるし、振り返ってその手応えをつかんだことを実感することもある。
つまりそれは、停滞期、後退期に悩み、もがき抜いて、それでも自分を信じて目標に挑み、自らを鍛え続けた者だけが手にすることのできる「実感」である。
先日の神戸大戦だけではない。その前の龍谷や近大との戦い、そして普段の練習の中でも、あえて名前は挙げないが、そういう「実感」を手にしつつある人材が少しずつ現れてきているような気がする。それは僕のひいき目だろうか。
(25)勝負の秋
投稿日時:2013/10/09(水) 20:48
寓話を二つ紹介したい。
一つは、巨人の元エース、桑田真澄さんと作家、佐山和夫さんの対談をまとめた『野球道』(ちくま新書)で佐山さんが紹介している、こんな話である。
ある旅人がヨーロッパの町を歩いていたら一人の男が煉瓦を積んでいるのに出合った。つまらなそうに作業をしている。「あなたは何をしているのですか」と旅人が尋ねると、その男は「ごらんの通りだ。煉瓦を積めというから積んでいるだけよ」と答えた。
しばらく行くと、今度はすごく楽しそうに煉瓦を積んでいる青年に出合った。「あなたは何をしているのか」と尋ねると、青年は元気な声でこう答えた。「私ですか。私はいまここに立派な教会を建てているのです」
同じ作業をしていても、目的が明確であれば、こんなに答えが違ってくる。作業の効率も当然違ってくる。
煉瓦を積むという行為をフットボールの練習と置き換えたら分かりやすい。
練習のための練習、自己満足のための練習では「煉瓦を積めというから積んでいるだけよ」と答えた男と同じである。しんどいばかりでその成果が見えてこない。
逆に「教会を建てる」という崇高な目的のために労力を提供し、献身していると信じることが出来たら、その作業は楽しい。少々苦しくても、困難があっても、崇高な目標が支えになって「もう一丁、やったろかい」という気持ちになる。その気持ちが支えになってさらに一段上の高みを目指すことができる。
もう一つの寓話は、こんな話である。社会学部で僕の講義に出席しているWR大園君が「ネットで見つけた話」として先週の課題文で紹介してくれた。
あるところでリーダー1人と下っ端3人からなる二つのグループが働いていた。
一つ目のグループでは、リーダーがえらそうに3人に命令するだけで、命令された3人はうんざりしながら働いている。当然、作業効率は上がらない。するとリーダーは余計いらついて頭ごなしに命令する。ますます作業の効率は悪くなる。
二つ目のグループでは、リーダーが率先して働き、部下の3人もそれにつられて汗を流す。当然、作業効率は上がる。作業効率が上がるから、目標を達成する道筋がより具体的になり、その目標が支えになって、さらに作業効率が上がっていく。つまり、リーダーたる者は上から傍観者のように命令するだけではなく、当事者になって目標達成のために汗をかくべきだ、というような話だった。
これもまた、フットボールに置き換えて考えると、理解しやすい。つまり日本のフットボール界のてっぺんに立つという崇高な目標に向かって、上級生も下級生もともに協力し、力を合わせて戦うこと。それによって、チームは一段上のレベルに到達できる、というようなことだろう。
二つとも、極めて分かりやすい寓話ではないか。
秋のシーズンは、これからが正念場。今週末の神戸大戦から、京大、関大と戦い、関西リーグ最終の立命戦までは、もう1カ月半である。思い通りに活躍できない選手、けがから回復途上にある選手を含めて、もうぐずぐず言っている場合ではない。全身全霊を込めて練習に打ち込み「教会を建てる、つまりは日本1になる」という高い目標に向かって突き進むときだ。
それを誰よりも分かっているのがグラウンドに出る選手であり、それを支えるスタッフである。実際、練習を見に行くと、この時期、練習を取り仕切るマネジャーの声はかすれている。ハドルへの集散のスピードも、春先とは全く異なっている。
そういう取り組みはしかし、少なくともこの2、3年のファイターズでは「当たり前」のことだった。
問題は、前年までの「当たり前」のさらに上を行く取り組みが求められることである。ライバルと見られるチームはすべて、全身全霊を込めて「打倒!ファイターズ」「くたばれ!ファイターズ」と向かってくる。
それを迎え撃つためにどうするか。それは春からずっと考え、実行してきたはずだが、少なくとも前例を踏襲しているだけでは展望は開けない。卒業生を送り出して、前年より力が低下した、というようなことでは、話にならないのである。
本当に、これからの1カ月半が正念場である。一人一人が高い目標を持ち、互いに助け合って互いを高め合い、協力し合ってその目標に突き進もう。勝負の秋である。
一つは、巨人の元エース、桑田真澄さんと作家、佐山和夫さんの対談をまとめた『野球道』(ちくま新書)で佐山さんが紹介している、こんな話である。
ある旅人がヨーロッパの町を歩いていたら一人の男が煉瓦を積んでいるのに出合った。つまらなそうに作業をしている。「あなたは何をしているのですか」と旅人が尋ねると、その男は「ごらんの通りだ。煉瓦を積めというから積んでいるだけよ」と答えた。
しばらく行くと、今度はすごく楽しそうに煉瓦を積んでいる青年に出合った。「あなたは何をしているのか」と尋ねると、青年は元気な声でこう答えた。「私ですか。私はいまここに立派な教会を建てているのです」
同じ作業をしていても、目的が明確であれば、こんなに答えが違ってくる。作業の効率も当然違ってくる。
煉瓦を積むという行為をフットボールの練習と置き換えたら分かりやすい。
練習のための練習、自己満足のための練習では「煉瓦を積めというから積んでいるだけよ」と答えた男と同じである。しんどいばかりでその成果が見えてこない。
逆に「教会を建てる」という崇高な目的のために労力を提供し、献身していると信じることが出来たら、その作業は楽しい。少々苦しくても、困難があっても、崇高な目標が支えになって「もう一丁、やったろかい」という気持ちになる。その気持ちが支えになってさらに一段上の高みを目指すことができる。
もう一つの寓話は、こんな話である。社会学部で僕の講義に出席しているWR大園君が「ネットで見つけた話」として先週の課題文で紹介してくれた。
あるところでリーダー1人と下っ端3人からなる二つのグループが働いていた。
一つ目のグループでは、リーダーがえらそうに3人に命令するだけで、命令された3人はうんざりしながら働いている。当然、作業効率は上がらない。するとリーダーは余計いらついて頭ごなしに命令する。ますます作業の効率は悪くなる。
二つ目のグループでは、リーダーが率先して働き、部下の3人もそれにつられて汗を流す。当然、作業効率は上がる。作業効率が上がるから、目標を達成する道筋がより具体的になり、その目標が支えになって、さらに作業効率が上がっていく。つまり、リーダーたる者は上から傍観者のように命令するだけではなく、当事者になって目標達成のために汗をかくべきだ、というような話だった。
これもまた、フットボールに置き換えて考えると、理解しやすい。つまり日本のフットボール界のてっぺんに立つという崇高な目標に向かって、上級生も下級生もともに協力し、力を合わせて戦うこと。それによって、チームは一段上のレベルに到達できる、というようなことだろう。
二つとも、極めて分かりやすい寓話ではないか。
秋のシーズンは、これからが正念場。今週末の神戸大戦から、京大、関大と戦い、関西リーグ最終の立命戦までは、もう1カ月半である。思い通りに活躍できない選手、けがから回復途上にある選手を含めて、もうぐずぐず言っている場合ではない。全身全霊を込めて練習に打ち込み「教会を建てる、つまりは日本1になる」という高い目標に向かって突き進むときだ。
それを誰よりも分かっているのがグラウンドに出る選手であり、それを支えるスタッフである。実際、練習を見に行くと、この時期、練習を取り仕切るマネジャーの声はかすれている。ハドルへの集散のスピードも、春先とは全く異なっている。
そういう取り組みはしかし、少なくともこの2、3年のファイターズでは「当たり前」のことだった。
問題は、前年までの「当たり前」のさらに上を行く取り組みが求められることである。ライバルと見られるチームはすべて、全身全霊を込めて「打倒!ファイターズ」「くたばれ!ファイターズ」と向かってくる。
それを迎え撃つためにどうするか。それは春からずっと考え、実行してきたはずだが、少なくとも前例を踏襲しているだけでは展望は開けない。卒業生を送り出して、前年より力が低下した、というようなことでは、話にならないのである。
本当に、これからの1カ月半が正念場である。一人一人が高い目標を持ち、互いに助け合って互いを高め合い、協力し合ってその目標に突き進もう。勝負の秋である。
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