川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」

#39 新彊ウイグルと日本における近代スポーツ

投稿日時:2009/07/30(木) 00:12rss

 新彊ウイグルに事件が起こり、北狄(ほくてき)、東夷(とうい)、南蛮、西戎(せいじゅう)という言葉を思い出した。中華思想というものがあり、漢族は自らを中華とし、その四辺の外をこう呼んだ。実体は中原に鹿を追うことであった。列強が権力を追い求める様を猟師たちが鹿を追うのに見立てた比喩である。これから転じて「鹿」はイコール「帝位」、権力の象徴となった。まだ日本が縄文、あるいはそれ以前の時代、広大なアジアにおける文明の中心のひとつは春秋戦国の諸国が抗争を繰り広げる2本の大河の流域の大地、すなわち中原であった。しかし、悠久たる数千年の歴史の中では漢族が野蛮と呼んだ民族に征服されることしばしばであった。征服者は英雄であった。英雄とは多くの人間に食いぶちを与えうる人物を意味した。そしてその中でもっとも多くの人間を養う英雄が中原の皇帝となった。 

 新彊ウイグルはイスラムなので漢族とは異なる精神世界に暮らしている。これが現実の世界にも持ちこまれるため埋めがたい軋轢が起こり今回のような事件となった。人は不寛容であることしばしばである。国家、民族、種族、地域、その他、我と異なる要素があれば不寛容は生じ、漱石ではないが向こう三軒両隣、家族の中でも「兄弟(けいてい)牆(かき)に鬩(せめ)ぐ」、抗争が起こる。「牆(かき)」は垣根のことで、兄弟が内輪喧嘩をする、転じて財産争いを意味することもある。

 漱石の『草枕』の冒頭を引くまでもなく、人の社会はせめぎあいである。政治とは欲望、好悪とそこから生ずるパワー・バランスである。政治という俗世にあって純粋であることはできない。それは聖人がフィクションであり、ユートピアはどこにもないところを意味するのと同様である。この消息を司馬遷は『史記』の中でつぶさに描いた。『史記』を熟読すれば人間の心の深層にひそむ天邪鬼なワニの暗い世界を目の当たりにすることができる。司馬遷が絵解きした世界より2000年以上が過ぎたが人が変容した形跡はない。

 中華は一個の完結しうる世界である。世界であることの一要件は自給自足できるということである。アメリカやフランスも世界である。近代が作り出した国家という概念では収まりきらない広さと多様な要素から構成されている。中華から見れば固有の文字も持たず、思想もなく、当時にあって先進の条里制都市も持たない蓬莱(ほうらい)の国、日本は中華の周縁部にあった。そして魏志倭人伝の中で倭の国と呼ばれた。倭の国は主たる農作物に米作を選んだ。これによって関東平野までは満ちたが、狩猟、漁労と果実の採集生活で豊かだった道の奥にも寒冷地に適さぬ米作を強いたので、この元来は豊かな地を常に飢餓の危険にさらす地域におとしめてしまった。これは昭和になるまで続き、日本で最初のフットボールのリーグ戦行われた1934年(昭和9年)においても東北地方は大飢饉にみまわれ、人身売買が横行し、新聞各紙は救済のため大きな紙面を割いて募金活動を行った。

 日本は江戸時代、国を閉ざしフラスコの中のビオトープの世界を維持し続けた。葦のズイのような細い管から取り入れた舶載の文化はごく一部の為政者、貴族、武士、学者、神官僧侶、富裕な商人というような特権階級に独占されたが、これを細密化し、蒸留し独自の精神と美学を醸成した。しかし近代という地球規模の大きなうねりに飲み込まれる成り行きとなり、やむを得ざる選択として開国し、維新して明治という国家を急造した。明治という国は江戸人が作った。しかし、その不肖の息子たちは江戸人のリアリズムを体得できず、不合理に思考し、神佑を頼みとして国を誤り、20年近くに渡り踏み迷い続けて行き着くところを得ず、敗戦という形で決算した。これは帝国主義政策の列強が領土の肥大化とその結果としてもたらされた金融大恐慌を2度の大戦で清算しなければならなかった事情と同様である。ヤマトにあった古代における木の国は、中華という竹を接木し、その後欧米という鉄を接いで今日に至っている。したがって時々に古代人がその幻影を現すので、しばしば自我の不調和を自覚せざるを得ない。

 日本の近代スポーツは明治時代において当初はお雇い外国人のもたらした輸入文化の荷についたこぼれ種のようにして伝わってきた。またそれに続いて官が公的に輸入した。それまでの日本人は90数パーセントが農業を営み、基本的に大半の時間を戸外労働において過していたので日照受容時間も運動も足りていた。近代スポーツは日照量の不足するイギリス、北ヨーロッパの人々が発達させた。

 「冬の太陽は乳色にかすれて厚い雲におおわれたまま、狭い町の上にわずかにとぼしい光を投げていた。破風造りの家の立ち並んだ路地々々は、じめじめとして風が強く、時おり氷とも雪ともつかぬ柔らかい霰みたいなものが降ってきた」――高橋義孝訳。一部旧漢字をかなに改めた

 ドイツの文豪トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』の冒頭である。場所はリューベック。ハンブルグの近くに位置し、ドイツ北部と北欧三国が囲むバルト海に面した港町である。こうした天候が半年以上に渡って続く地方では夏季に戸外に出て1年分の日照量を確保することが生存の基本条件となる。それにともない19世紀、ドイツ体操、スェーデン体操、デンマーク体操などが考案され、日本でも明治期に移入、研究し学校体育で実行された。

 日本においてアメリカンフットボールは遅れてやってきたスポーツのひとつである。現在盛んな野球は明治初期、サッカーも中期に伝来している※。またラグビー、バスケットボール、バレーボールも明治後期に紹介され、大学、旧制高校、高等師範をいただく師範学校、神戸と横浜の外国人倶楽部、YMCAなどによって大正年間に各地へ伝播された。しかし昭和になっても一般にはサッカーもラグビーもなじみのないスポーツであった。その中にあって旧制高校はさまざまな競技大会を主催し旧制中学の生徒を招き啓発に努めた。あるいは新聞社が新聞普及のため各種のスポーツ大会を催した。戦前はこうしてスポーツの普及活動が細々として続いた。

※ #29 1920年 日本フットボールことはじめ1 参照   

 前回紹介したようにアメリカンフットボールはリーグ戦がはじまったのが1934年(昭和9年)であり、日系二世が大多数を占めている競技であった。昭和恐慌、大陸進出による世界からの孤立化という落ち着かぬ世相のもとでそうしたことを忘れさせてくれるもののひとつはスポーツだった。フットボールはその中にあって遅れて伝来したスポーツであった。そのためゲームは目新しさから主に首都圏、関西圏を中心に数千から万余の観衆を集めた。

 日本が最初にオリンピックに参加したのは1912年(大正元年)のスェーデンのストックホルム大会である。したがって次回、2012年のロンドン・オリンピックは初参加より100年目の大会となる。当時パリにあった国際オリンピック委員会の要請で嘉納治五郎は参加を決めた。委員会の求めに従って政府や既存の競技団体の承認を取ろうとして得られなかった。そのためこの初めて選手を派遣したオリンピックは自らが大日本体育協会を設立し参加を果たした。選手はマラソンの金栗四三、陸上短距離の三島弥彦の2名であった。嘉納治五郎は日本のスポーツの先達として明治、大正、昭和と3代に渡り、周囲からの理解を得られないもどかしさの中で努力を続けた。1938年(昭和13年)、嘉納はエジプトのカイロで開催された国際オリンピック委員会に出席する。すでに78歳になっていた。この総会においてオリンピックの東京開催が決まった。帰途、使命を果たし終えて安堵したかのように太平洋の船上で客死する。しかし、1940年に開催を予定されていた大会は戦局の悪化のため返上され、実現されることのない幻のオリンピックとなった。戦前、1926年(大正15年)日本におけるスポーツ振興の手段として水泳連盟の田畑政治が「オリンピック第一主義」を唱える。これは6年後、1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルス・オリンピックにおける日本水泳のめざましい活躍という成果を上げた。この戦前において唱えられたオリンピック第一主義は現在も根強く残り、その関心は依然として高い。一方国際オリンピック委員会におけるキャスティング・ボードを握っている欧米ではオリンピックは生活のいろどりのひとつと位置付けられている。

 現在、世界規模のスポーツ大会はこのオリンピックとサッカーのワールド・カップに代表されるヨーロッパ型と4大プロ・スポーツを中心とするアメリカ型のせめぎあいとなっている。日本は前者に組みしている。アメリカにおける4大スポーツ、フットボール、ベースボール、バスケットボール、アイスホッケーはそれぞれが事実上のワールド・チャンピオンシップなのだが、パスポート主義、つまり国籍に基づくチーム編成をするヨーロッパ型スポーツの支持者は、クラブに基礎を置き、国籍を問わないアメリカ型のスポーツを寛容しようとしない。

 ついでながら、日本においては大相撲以外に真のプロ・スポーツは成立しにくい環境にある。それは人口の少なさとシーズン・スポーツ制という考えがないこと、取り組む競技数が多すぎて人材が分散してしまうこと、言語の壁があることに起因している。また、チーム力の均衡化を計るという思考の欠如、本来の意味における地域マーケティングの考え方がないことも加えることができる。
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