川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」
#33 鳥内のおっちゃんインタビュー
先週6日、朝日新聞夕刊の惜別欄に鳥内のおっちゃんのことが載った。ファイターズの後輩の榊原一生記者が書かれた追悼文である。今回は第43回スーパー・ボウルの原稿を用意していたが、予定変更して昨夏おっちゃんをインタビューした時のことを書きたい。
お会いしたときはすでに体調を崩しておられたが、普通の人の倍くらいのエネルギーを感じさせられた。プレーヤーとして現役の頃は常人の10倍ほどのパワーがあったのではと思った。質問をするとおっちゃんの記憶は鮮明で次々に話が展開していった。ファイターズが和歌山で関大とゲームを行ったことがあった。1948年(昭和23年)5月9日のことである。これまで和歌山のどこかの学校ということで場所が特定できていなかった。おっちゃんはそれは田辺高校のグランドやった、と明快に答えた。あの日は暑かったな、ということも記憶に残っていた。さらにグランドでは先に野球の練習をしていたのでキック・オフが遅れたともつけ加えた。硬派で武骨のイメージの強い人だったが、家の本棚にはマルクス全集が並んでいると聞いたことがある。受け答えはぶっきらぼうに見えて心遣いがあった。
大阪の旧制生野中学出身で関学は専門部から高商に進学。生野中学では柔道をしていた。しかし当時は連合軍の占領下にあったため武道が禁止されていたのでレスリングに取り組んだ。練習はコンクリートの上、という時代であったらしい。ファイターズには1946年(昭和21年)入部。同級生に何人かのフットボール部員がおり、浜寺のほうに住んでいた百々(どど)さんというマネージャーから勧誘を受けた。入部した翌日はいきなり関大との試合だった。フィールドへ下駄をはいて行った。ボールを持っている奴を捕まえろと教えられ、元帥というあだ名のついた杉山という選手をタックルした。この年、リーグ戦で同志社と引き分け、両校優勝となり順位決定のため再試合が行われたがこの試合も引き分けという大接戦になった。12月7日、2度目の再試合で、2-7と惜敗。結果論だがこの試合に勝った同志社は翌年4月の第1回甲子園ボウルに出場しているのでファイターズにとって大きな敗戦だった。その後、一週間もたたない12日に対関大定期戦が組まれていたが、趣旨がうまく伝わっていなかったようで、一同士気が低く大敗。このようにしておっちゃんの最初のシーズンは終わった。
4年生になった1949年は前年に旧制中学でタッチフットボールを経験した多くの有望新人を加え、秋のリーグ戦前の新聞評では優勝候補に挙げられていた。優勝を賭けた戦いとなった京大戦はのちの関京戦の原型となる緊迫した展開となった。前半リードされハーフタイムにおっちゃんから、「お前ら負けるおもたらあかんぞ」という檄が飛び、チームがよみがえったことは榊原さんも書かれた通りである。
京大には陸軍士官学校、海軍士官学校出身の高度な肉体、精神のトレーニングを積んだ筋金入りのメンバーがいた。このとき京大チームの中心にいた神田綽夫氏の烈々たる闘志はその後も継承される京大の関学に対するライバルリーの萌芽となった。おっちゃんのトイメンには稲波昭三という巨漢のタックルがいて対等の戦いになった。稲波氏の子息は1970年代半ば、関京2強時代の幕開けの時期に京大のセンターとして活躍した。親子2代のフットボーラーのさきがけかも知れない。
この年1949年、第4回甲子園ボウルは慶応大学との対戦となった。おっちゃんは常に相手のラインを圧倒し、その前には人がいないも同然の働きをみせた。たまらず慶応大学のメンバーが口パンを飛ばした。言い返したことばに「あほんだら」という単語が含まれていたが当時はまだこの上品な関西弁は東京までおよんでいなかったらしく意味が通じなかった。慶応ボーイたちは東京弁で「やっちゃえ、やっちゃえ」と言っていたそうである。
ゲームはおっちゃんの活躍などがありファイターズは初出場で甲子園を制した。こうしてその後甲子園ボウルに連続出場するスタートが切られた。
お会いしたときはすでに体調を崩しておられたが、普通の人の倍くらいのエネルギーを感じさせられた。プレーヤーとして現役の頃は常人の10倍ほどのパワーがあったのではと思った。質問をするとおっちゃんの記憶は鮮明で次々に話が展開していった。ファイターズが和歌山で関大とゲームを行ったことがあった。1948年(昭和23年)5月9日のことである。これまで和歌山のどこかの学校ということで場所が特定できていなかった。おっちゃんはそれは田辺高校のグランドやった、と明快に答えた。あの日は暑かったな、ということも記憶に残っていた。さらにグランドでは先に野球の練習をしていたのでキック・オフが遅れたともつけ加えた。硬派で武骨のイメージの強い人だったが、家の本棚にはマルクス全集が並んでいると聞いたことがある。受け答えはぶっきらぼうに見えて心遣いがあった。
大阪の旧制生野中学出身で関学は専門部から高商に進学。生野中学では柔道をしていた。しかし当時は連合軍の占領下にあったため武道が禁止されていたのでレスリングに取り組んだ。練習はコンクリートの上、という時代であったらしい。ファイターズには1946年(昭和21年)入部。同級生に何人かのフットボール部員がおり、浜寺のほうに住んでいた百々(どど)さんというマネージャーから勧誘を受けた。入部した翌日はいきなり関大との試合だった。フィールドへ下駄をはいて行った。ボールを持っている奴を捕まえろと教えられ、元帥というあだ名のついた杉山という選手をタックルした。この年、リーグ戦で同志社と引き分け、両校優勝となり順位決定のため再試合が行われたがこの試合も引き分けという大接戦になった。12月7日、2度目の再試合で、2-7と惜敗。結果論だがこの試合に勝った同志社は翌年4月の第1回甲子園ボウルに出場しているのでファイターズにとって大きな敗戦だった。その後、一週間もたたない12日に対関大定期戦が組まれていたが、趣旨がうまく伝わっていなかったようで、一同士気が低く大敗。このようにしておっちゃんの最初のシーズンは終わった。
4年生になった1949年は前年に旧制中学でタッチフットボールを経験した多くの有望新人を加え、秋のリーグ戦前の新聞評では優勝候補に挙げられていた。優勝を賭けた戦いとなった京大戦はのちの関京戦の原型となる緊迫した展開となった。前半リードされハーフタイムにおっちゃんから、「お前ら負けるおもたらあかんぞ」という檄が飛び、チームがよみがえったことは榊原さんも書かれた通りである。
京大には陸軍士官学校、海軍士官学校出身の高度な肉体、精神のトレーニングを積んだ筋金入りのメンバーがいた。このとき京大チームの中心にいた神田綽夫氏の烈々たる闘志はその後も継承される京大の関学に対するライバルリーの萌芽となった。おっちゃんのトイメンには稲波昭三という巨漢のタックルがいて対等の戦いになった。稲波氏の子息は1970年代半ば、関京2強時代の幕開けの時期に京大のセンターとして活躍した。親子2代のフットボーラーのさきがけかも知れない。
この年1949年、第4回甲子園ボウルは慶応大学との対戦となった。おっちゃんは常に相手のラインを圧倒し、その前には人がいないも同然の働きをみせた。たまらず慶応大学のメンバーが口パンを飛ばした。言い返したことばに「あほんだら」という単語が含まれていたが当時はまだこの上品な関西弁は東京までおよんでいなかったらしく意味が通じなかった。慶応ボーイたちは東京弁で「やっちゃえ、やっちゃえ」と言っていたそうである。
ゲームはおっちゃんの活躍などがありファイターズは初出場で甲子園を制した。こうしてその後甲子園ボウルに連続出場するスタートが切られた。
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記事タイトル:#33 鳥内のおっちゃんインタビュー
(ブログタイトル:川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」)