川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」

#19 フットボール伝来記 4 -焼失した日記-

投稿日時:2008/10/01(水) 03:48rss

 #17の最後でふれたフットボールの大学対抗戦を初めて行ったラトガーズ大学に明治時代の前半期、なぜ多くの日本人留学生が在学していたかに話を転じたい。グイド・フルベッキという人物がいた。オランダに生まれ、ユトレヒトの工業学校で機械工学を学んだ。のちに22歳でアメリカに渡り、実業についていたがコレラにかかり死に瀕する重体となる。しかし、奇跡的な回復を遂げ一命をとりとめた。その結果、以後の人生を神に仕える決心をし、オーバン神学校に入学、卒業後オランダ改革派教会から派遣されて中国に渡った。フルベッキは語学の才があり英語、ドイツ語にも堪能であった。

 前回のマギル大学がスコットランド系の人々が創立したように、オランダ人がアメリカで創設した大学がラトガーズ大学である。教派はオランダ改革派だった。ヨーロッパから移民してきた信仰に篤い人々にとって大切なのは教会であり、教会を司る牧師であった。したがって牧師を養成するために神学校を建てた。アメリカにおける初期の大学は神学校であった。ハーバード、ウィリアム・アンド・マリー、エール、ペンシルバニア、プリンストン、コロンビア、ブラウン、ダートマス。ラトガーズも1776年のアメリカ独立宣言までに開校した9つの大学のひとつである。オランダ改革派教会は宣教活動に熱心であった。フルベッキも上海経由で1859年、長崎の出島に来航した。まだ禁教令のため布教を行うことができなかったが、幕府の英語伝習所、済美館で英学※を講じた。済美館には海外の情報を必要としていた各藩から選び抜かれた俊英が国内留学してきていた。のちに早稲田大学を開く大隈重信もここで学んでいる。従って明治初期に留学した人々がフルベッキの仲立ちでラトガーズに向かったことは自然なことであった。

 下の写真は1871年のラトガーズにおける日本人留学生たちである。
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 留学生たちの名前は判明しており、1869年の最初のゲームを観戦した日本人がいるかどうか、留学生の日記を渉猟(しょうりょう)した。その結果、記録を残している可能性がある日下部太郎という学生にたどりついた。幕末に四賢候と呼ばれた藩主の一人である福井藩の松平春嶽じきじきの命で長崎に国内留学をし、済美館でフルベッキの教えを受け、ラトガーズに留学した。

 1866年に幕府が海外渡航の禁を解いた翌年の1867年1月、日下部は日本人留学生第一号として、開国後4番目に発行されたパスポートをもちアメリカ留学へと出立する。長崎より南下してジャワに至り、そこで1ヶ月半の間アメリカ行きの便船を待った。この頃は定期の船がなかったからである。インド洋、喜望峰を経て大西洋を北上し、150日近くかけてニューヨークに到着した。当時は蒸気船と帆船が併用されていた期間であった。蒸気船であれば早く着くことができたが乗船料が高価であったので、日数がかかるが安価な帆船を利用することが多かったという。要した日数から考えて日下部は帆船に乗ったと考えられる。昭和の初めにはこれが40日程度に短縮されている。

 日下部は日本での英語学習がわずか一年あまりにすぎなかったが初年度の1867年、大学1年生となる。当時の留学生は、勉学に必要な語学力習得のため、まずグラーマー・スクールに入学するのが常であった。おそらく日下部には天才的な語学の才があったものと考えられる。日下部の学部は科学部であった。現存する当時のノートには大砲の弾道計算などが残っている。帰国後は軍に勤務し砲兵隊の指揮をとることを目指していたという。数式を主に扱うので文科系に比べ言葉の障壁が少ないとはいえ異例なことであった。当初は藩費での留学であったが、最終学年の3年目には明治政府より海外留学生と認められ年間600ドルの支給をうけている。だが当時は送金方法も確立されておらず、常に経済的な苦労がついてまわった。アメリカ東部の物価は高く、10数年後の1884年に同じラトガーズ大学に留学した松方幸次郎※も首相、松方正義の子弟であったにもかかわらず常に逼迫した経済状況にあった。これは明治時代に留学した人々に共通の困苦であった。
※ 松方幸次郎については#16を参照。

 しかし日下部は乏しい留学費の中から3年間の在学中に200冊の書物を購入している。現代と異なり書籍は非情に高価な時代であった。夏目漱石が1900年代初頭、ロンドンに留学したがやはり安い下宿を求めて5回の転居をし節約した金で400冊の本を買ったことを連想させる。漱石は年間1800円の官費支給を受けていた。これも「やむをえざる西欧の受容」だった。日下部太郎も夏目漱石もけなげにまで自らの使命を果たそうとした。

 当時の大学は3学年。ラトガーズ大学は人文学部と科学部の2学部のみであった。人文学部は70人程度、科学部は10人前後、したがって総数約80名のちいさな大学だった。プリンストン大学戦に出場したのは25人であるので差し引くと55名となる。観客はおおよそ100名と記録されている。状況から類推すると試合前から初の大学対抗ということで学内の大きな話題になっていたと思われる。試合後に発行された学内新聞の”The Targum”※ にこのゲームのことについて詳しい記事が掲載された。日下部の指導教官であったウィリアム・グリフィスはフットボールを行っていたと言われている。したがって日本人がこのゲームを観戦していた可能性はかなり高いのではないだろうかと考えている。
 下の写真は1870年4月19日に撮影されたラトガーズに留学していた日本人留学生たちである。
 ※ 試合があった1869年の1月に創刊。試合は同年の11月6日、土曜日。
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 ただし日下部はこの写真の中にはいない。写真が撮られる6日前、4月13日に他界していたからである。骨身を削って勉学に打ち込んだ日下部は常に首席であった。そして学問を含め日常のあれこれについて克明な日記をつけていた。冬には極寒となる東部アメリカの生活環境は物心両面にわたって厳しく、卒業を目前にして結核に倒れ、最初に大学対抗のフットボール・ゲームが行われた約5ヵ月後、1870年4月13日に息を引き取っている。大学は日下部の優秀さを高く評価し、愛惜の念を込めて卒業生とした。さらに成績優秀者の集まりであるΦΒΚ(ファイ・ベータ・カッパ)※のメンバーにも加えた。またそのメンバーに贈られる黄金の鍵を授与している。日下部の葬儀の日、大学は全学休講して弔意を表した。日下部太郎は特別に優秀な成績を収め、人格の高潔さを持って周りに深い感化を与えた。一証左としてその名が新渡戸稲造の「武士道」の序文にも取り上げられていることを記しておく。
 ※ 哲学は人生の導き手、というギリシャ語の頭文字

 日下部の日記は蔵書その他の遺品とともに故国、福井の八木家(日下部の旧姓)に持ち帰られた。しかし、明治9年10月4日、八木家に火事があり、そのおりに他の家財とともに火につつまれ、日本人が最初のゲームを見たかどうかを証明できたかもしれない重要な文書は灰燼(かいじん)に帰した。
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