川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」

#21 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 1

投稿日時:2008/10/21(火) 21:35rss

 日本大学が初めて甲子園ボウルに出場した時、クォーター・バックを務められた須山匡(ただし)さんにお話を聞かせていただいた。日本大学が最初に甲子園に登場したのは、1955年(昭和30年)である。葛飾柴又のお生まれなので、渥美清演じる車寅次郎の「帝釈天で産湯を使い」の世界におられる。3代以上続いた正真正銘のイナセな江戸っ子である。八代将軍徳川吉宗から拝領したという由緒のある地名と同じ名を持つ「お花茶屋」という駅が約束の場所だった。私と同じ大学の大先輩に旧日本海軍のファンで待ち合わせには必ず15分前に来られる方がある。私の父は海軍の将校だった。生前、海軍はそうだったという話を聞いていた。その大先輩と世代が近い方なので20分前に約束の場所に行ったらすでに待っておられた。大恐縮である。おまけに風呂敷一荷分の資料をもってきていだいている。アルバム、書籍と見当をつけて重さを推測すると10キロは優に越えていそうである。

 須山さんは1935年のお生まれだがぜい肉がなく背筋が伸び、フットボールのスタイルをすれば今でもそのままクォーター・バックの位置につけそうなたたずまいである。普段から江戸下町で町会、地域の世話をされ、祭礼などで年中忙しくされているので若々しく、こんな風に年を重ねられたら良いだろうな、という羨望を抱かせられた。重そうな荷なのでお持ちします、と申しあげたがお断りになり、あたかもサイドラインからスクリメージへ向かうようにさりげなく歩かれる。

 準備おさおさ怠りない方で、駅から近い公民館の会議室を予約されていた。お話をうかがうにはこれ以上の場所はないという静かな環境だった。職員の方が須山さんに気遣われる様子から常日頃、高い地域貢献をされているのが推察できた。

 大学のフットボールは卒業があるので、ベスト・チーム同士が合間見える機会は少ない。日本大学と関西学院大学も甲子園ボウルで昨年までに25回対戦しているが双方が最強だと思われる時に巡り合わせるということは少なかった。

 話題がそれるがNFLフィルムズはときどき面白い企画をする。記憶によっているので正確ではないかもしれないが、例えば1970年代に最強であったピッツバーグ・スティーラーズと1980年代に王朝を築いたサンフランシスコ・フォーティーナイナーズが対戦するという架空のゲームを過去のフィルムを合成編集して作ってしまったりする。日大と関学でいうならば互いに甲子園ボウル5連覇時の最強チーム同士が対戦したらどちらが勝つだろうかといったことになるであろうか。

 1955年(昭和30年)、この両校の甲子園ボウル初対戦のとき、最初にしてそれが実現した。日大は1952年(昭和27年)より4年計画でチーム強化をしてきた最終年であり、関学は中学部よりフットボールを続けてきた選手たちが大学生になりすでに甲子園ボウル2連覇という結果を残していた。そのメンバー全員が残り3連覇をめざし、さらにレベルアップしていた。この両チームが対戦することになった。当時の新聞の戦前評を見ると力は「五分と五分」と書かれている。

 2年前ファイターズの65周年のDVDを製作したときこのゲームを取り上げた。完成までの時間が限られていた。DVDなので映像がいるのだがテレビ中継が始まる前年なのでもちろんビデオなど残っているはずもない。当時映画館でよく上映されたニュース・フィルムにも当たったがそれも見つけることができなかった。動きが欲しかったので架空のラジオ実況放送のかたちにした。入手できた写真は7枚。試合の経過のあらましは新聞などに残っていたのでシナリオを書いた。スポーツ実況放送の草分けであり名スポーツ・アナウンサーと言われたNHKの「志村正順」調が望ましいと思っていた。ナレーションを担当していただいた読売テレビの牧野誠三アナウンサーは初見でそれを理解され、あたかも目の前のゲームを見ているかのように台本を活かしてくださった。牧野さんは1990年代、関学・京大戦をはじめとする学生フットボールのアナウンスを長くされた方である。

 この試合は展開を追っても選手個々の能力から考えても、甲子園ボウル史上に残る好ゲームだった。第4クォーター残り40秒、20対26、関学は6点のビハインド、攻撃は自陣18ヤードから。そこから同点に追いつき、事実がフィクションを越えた。前回書いた昭和20年代前半と異なり新聞はページ数を回復しつつあった。フットボールも写真入りで掲載されている。当時の新聞を読むとそれだけで背が熱くなる。

 ずっとこのゲームの日大のクォーター・バック、須山さんは当時1年生だったと誤解していた。やはり日大には怪物のようなアスリートがいると思った。連想したのは1980年代、同様に1年生からスターターを務めた松岡秀樹さんのことである。4年生の時はリーディング・ラッシャーでリーディング・パサーだった。3年生くらいのころ、秋季リーグ戦で脚を捻挫し、ゲーム前、平服の時は脚を引きずっているのを見かけていた。ところがスタイルをしてゲームが始まるとトップ・スピードで縦横に走るのを見て衝撃を受けた。その当時はテーピングが今ほど発達していたのかどうか定かではないが想像を越えた領域にそのプレーはあった。

 最近1953年度のライス・ボウル(1954年1月1日)のメンバー表を見ていて誤解していることに気づいた。ライス・ボウルと同日に行なわれた選抜の高校東西対抗戦のメンバーに須山さんが選出されていたからである。従って1955年11月23日の甲子園ボウル時点では2年生である。誤解がとけても、すごいという印象は減ずることはなかった。一度直接ご本人にお話をうかがいたい、と思ったのはそうした理由からである。ファイターズOB会のご協力でお会いできる運びとなった。
⇒#8「関学と日大」参照
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