川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」
#22 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 2
11月1日はフットボール日和だった。西京極陸上競技場へ関学のゲームを見に行った。1時頃着くとバック・スタンドは、ほぼいっぱいになっていた。最近関学サイドのスタンドは満杯状態が多い。例えば王子スタジアムのバック・スタンドでは収容し切れなくなっている。いつも一緒に観戦させていただく方々がざっと見渡しても見つからなかった。少し上段の席を捜したが空いていないように見えた。しばらくして席に荷物を置かれていた方が空けてくださった。その方にお話を聞くと第一試合から来ておられたとのこと。今日は朝から所用があって家を出るのが遅くなった。
第一試合が終って少ししたところで携帯に「フットボールの神様」から電話が入った。大藤 努さんだった。大藤さんは前回書いた1955年(昭和30年)、第10回甲子園ボウルの関学のエース・ランナーだった方である。ファイターズの65周年DVD製作の時、米田豊さん※からのご紹介でたいへんお世話になった。DVDに出てくるフォーメーションは大藤さんが私の取材ノートに書かれたものをそのまま掲載したものである。
※ #5 米田 豊さんインタビュー参照
すぐに電話を替わられた。出てこられたのは木谷 直行さんだった。木谷さんは大藤さんと同級生で4年生のときはキャプテン、第10回大会のときも実質的なチーム・リーダーであった方である。学業では一番、卒業生総代、スポーツにおいては甲子園ボウル3勝1分け、1分けは両校優勝なので都合4回優勝され、文武両道の人として半ば伝説化した方である。昨日、取材をさせていただいた。超一流の大企業に就職され要職に就かれながら、ファイターズの監督もされた。ラグビーにおける宿沢広朗氏と似たキャリアである。監督のときも現役時代と同様に甲子園では不敗であり、強運の持ち主である。また、チームマネージメントにおいてもすぐれた手腕を発揮された。ファイターズが個人商店ではなく企業のように運営されているのも木谷さんをはじめとする方々のリベラルな考え方によっている。
木谷さんとは昨日お会いし、インタビューをさせていただいた。お話は理路整然としていて、こちらの意図を理解された上で話を展開されるので、ほとんどの時間、記録に専念できた。脱帽である。昨日お願いした資料のコピーをもってきたのでこちらへ来ませんか、というお誘いであった。木谷さん、大藤さんが座っておられるまわりは大先輩ばかりである。大藤さんの慫慂(しょうよう)でお二人の間に座らせていただくことになった。ゲームの経過とともにお二人が一言、二言、ぽつんと言われることがすべてポイントをついている。関西学院の中学部からフットボールをされ、その後も長く見守ってこられたので当然といえば当然なのだが、根底に非情に暖かいものがあってこんなに気分よくフットボールを観戦したのは初めてであった。
大藤さんは現役当時、常にラッキー・ボーイと呼ばれた方である。鋭い勘をお持ちなのと観察眼が優れておられるので、人より何歩も先のことが見えているようである。その走りっぷりは現役時代、カニ走りと呼ばれ真横にカットが切れたらしい。この話は木谷さんからお聞きした。過去にそのような走り方ができたのは私の記憶の中ではただひとりである。現在、ファイターズのコーチ、小野宏さんである。西宮球技場でサイドラインから反対のサイドラインまで真横に瞬間移動したように見えたプレーが鮮烈な記憶として残っている。実際にはそうしたことは物理的にはないのだが、その魔法のようなシーンは今も目に焼き付いている。
第3Q、7分を過ぎたあたりで、相手チームのパントになった。大藤さんが「パント・ブロック」といわれた。次の瞬間それが本当に起こった。第4Qが始まってすぐの頃、「QB、つぶせ」と大藤さんが叫ばれた。相手チームのQBが軽自動車がダンプカーと正面衝突したかのように関学のディフェンス・ラインに大きく吹き飛ばされ、その手から弾けるようにボールがバック・フィールドに転がり出た。ボールを追っているのは白いジャージの大きなラインである。#51が器用にボールを拾い上げると40ヤード、5秒5くらいのスピードでゴール・ラインに向かって走り出した。まわりを白いジャージがガードし相手の追跡を阻んでいる。そのまま60ヤードあまりを追いつかれることなくTD。先ほど関西学生アメリカンフットボール連盟のホームページで記録を確かめたら64ヤードだった。川島君にとっては初めてのTDではないだろうか。ディフェンス・ラインがタッチ・ダウンした距離としては新記録かも知れない。
帰途、米田さんにお渡しするものがあって、ファイターズのグッズを売っているテントの前で待っていた。勝利は販促に最大の効果があるようで、テントの間口がすぐに人でいっぱいになりグッズが次々に売れた。
米田さんとはそこでお別れしたが、帰路もフットボールの神様と同行させていただくことになった。今度はフットボールの神様が以前から顔なじみの小笠原秀宣さんになられた。西京極から十三駅まで40分ほどかかるのだが話がはずみ瞬く間に時間がすぎた。その間、小笠原さんから日本大学の科学性についてお聞きすることになるとは家を出るときまったく予想もしなかったことである。このことは次回に。
木谷さんが高校生時代、勉強された“Functional Football”という英語の本。滋賀県立旧制彦根中学(現在、彦根東高校)のタッチフットボール部の方もこの本で学ばれた。
第一試合が終って少ししたところで携帯に「フットボールの神様」から電話が入った。大藤 努さんだった。大藤さんは前回書いた1955年(昭和30年)、第10回甲子園ボウルの関学のエース・ランナーだった方である。ファイターズの65周年DVD製作の時、米田豊さん※からのご紹介でたいへんお世話になった。DVDに出てくるフォーメーションは大藤さんが私の取材ノートに書かれたものをそのまま掲載したものである。
※ #5 米田 豊さんインタビュー参照
すぐに電話を替わられた。出てこられたのは木谷 直行さんだった。木谷さんは大藤さんと同級生で4年生のときはキャプテン、第10回大会のときも実質的なチーム・リーダーであった方である。学業では一番、卒業生総代、スポーツにおいては甲子園ボウル3勝1分け、1分けは両校優勝なので都合4回優勝され、文武両道の人として半ば伝説化した方である。昨日、取材をさせていただいた。超一流の大企業に就職され要職に就かれながら、ファイターズの監督もされた。ラグビーにおける宿沢広朗氏と似たキャリアである。監督のときも現役時代と同様に甲子園では不敗であり、強運の持ち主である。また、チームマネージメントにおいてもすぐれた手腕を発揮された。ファイターズが個人商店ではなく企業のように運営されているのも木谷さんをはじめとする方々のリベラルな考え方によっている。
木谷さんとは昨日お会いし、インタビューをさせていただいた。お話は理路整然としていて、こちらの意図を理解された上で話を展開されるので、ほとんどの時間、記録に専念できた。脱帽である。昨日お願いした資料のコピーをもってきたのでこちらへ来ませんか、というお誘いであった。木谷さん、大藤さんが座っておられるまわりは大先輩ばかりである。大藤さんの慫慂(しょうよう)でお二人の間に座らせていただくことになった。ゲームの経過とともにお二人が一言、二言、ぽつんと言われることがすべてポイントをついている。関西学院の中学部からフットボールをされ、その後も長く見守ってこられたので当然といえば当然なのだが、根底に非情に暖かいものがあってこんなに気分よくフットボールを観戦したのは初めてであった。
大藤さんは現役当時、常にラッキー・ボーイと呼ばれた方である。鋭い勘をお持ちなのと観察眼が優れておられるので、人より何歩も先のことが見えているようである。その走りっぷりは現役時代、カニ走りと呼ばれ真横にカットが切れたらしい。この話は木谷さんからお聞きした。過去にそのような走り方ができたのは私の記憶の中ではただひとりである。現在、ファイターズのコーチ、小野宏さんである。西宮球技場でサイドラインから反対のサイドラインまで真横に瞬間移動したように見えたプレーが鮮烈な記憶として残っている。実際にはそうしたことは物理的にはないのだが、その魔法のようなシーンは今も目に焼き付いている。
第3Q、7分を過ぎたあたりで、相手チームのパントになった。大藤さんが「パント・ブロック」といわれた。次の瞬間それが本当に起こった。第4Qが始まってすぐの頃、「QB、つぶせ」と大藤さんが叫ばれた。相手チームのQBが軽自動車がダンプカーと正面衝突したかのように関学のディフェンス・ラインに大きく吹き飛ばされ、その手から弾けるようにボールがバック・フィールドに転がり出た。ボールを追っているのは白いジャージの大きなラインである。#51が器用にボールを拾い上げると40ヤード、5秒5くらいのスピードでゴール・ラインに向かって走り出した。まわりを白いジャージがガードし相手の追跡を阻んでいる。そのまま60ヤードあまりを追いつかれることなくTD。先ほど関西学生アメリカンフットボール連盟のホームページで記録を確かめたら64ヤードだった。川島君にとっては初めてのTDではないだろうか。ディフェンス・ラインがタッチ・ダウンした距離としては新記録かも知れない。
帰途、米田さんにお渡しするものがあって、ファイターズのグッズを売っているテントの前で待っていた。勝利は販促に最大の効果があるようで、テントの間口がすぐに人でいっぱいになりグッズが次々に売れた。
米田さんとはそこでお別れしたが、帰路もフットボールの神様と同行させていただくことになった。今度はフットボールの神様が以前から顔なじみの小笠原秀宣さんになられた。西京極から十三駅まで40分ほどかかるのだが話がはずみ瞬く間に時間がすぎた。その間、小笠原さんから日本大学の科学性についてお聞きすることになるとは家を出るときまったく予想もしなかったことである。このことは次回に。
木谷さんが高校生時代、勉強された“Functional Football”という英語の本。滋賀県立旧制彦根中学(現在、彦根東高校)のタッチフットボール部の方もこの本で学ばれた。
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