川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」
#26 日本大学のひとびと
勝者はつかの間の勝利の喜びを感じ、同時にその重さを受け止める。敗者は敗北から学ぶべき長い季節が始まる。2008年度の関西学生アメリカンフットボール・リーグが11月30日に終わった。
0-57。1955年(昭和30年)11月23日の甲子園球場、関東代表聖学院高校が関学高等部に敗れたスコアーである。この日は先に記したように関西学院大学と日本大学が甲子園ボウルではじめて対戦した日である。第8回の東西高校タッチフットボール王座決定戦は大学の試合に先立ち、同じ甲子園で午前11時半にキックオフされた。保坂侑男は聖学院の選手だった。敗れたあと保坂は大学のゲームを観戦した。第4Q、残り40秒、ゴールまで82ヤード、20-26とリードされ追い詰められた関学は、QB鈴木が乾坤一擲(けんこんいってき)のロング・パスを投げエンドの西村が50ヤード付近でキャッチした。残り50ヤード、あごを上げた特徴のある走り方で西村は保坂の前を駆け抜けて行きタッチダウン、同点とした。保坂は鈴木や西村にあこがれ日大でフットボールを続けようと思った。そして57点差を逆転し、打倒関学を果たす決意をした。チームメイトの吉岡龍一をさそった。二人は日大でQB、RBとして日大の中心選手となり第一期黄金時代を築く。
保坂侑男さんとお会いした。日本大学の須山さんの次のクォーターバックである。須山さんはアンバランスTの最初のQBであり、保坂さんは後にショットガンとなるショート・パント・フォーメーションの最初のQBである。須山さんが紹介の労をとってくださった。飛田給の駅で待ち合わせた。おふたりの顔は似ていないがたたずまいに共通するものがある。繊細とイナセである。
日大、篠竹監督は詩作し、シャンソンやロシアの「百万本のバラ」を好んだ。「百万本のバラ」にはフェニックスの真紅がオーバーラップしている。QBにはシャンソンを歌うことを要求しリズムを重視したという。QBがHB(ハーフバック)にハンドオフ、あるいはそのフェイクをするとき一定の距離に渡ってステップをシンクロナイズさせる必要があった。ソシアル・ダンスの息の合ったパートナーに求められる足運びである。
須山さん、保坂さんとも「なぜ、QBに選ばれたのか分からない」と言われた。保坂さんは足が速かったので入部当初、HBだったがのちにQBにコンバートされた。お二人とも同じ木から彫リ出されたように見える。竹本監督、篠竹監督それぞれが二人に詩(うた)心を感じたのではあるまいか。
すぐれたスポーツマンは詩人のこころを持っている。ベースボールのイチローしかり、マラソンの君原健二しかり。最近、君原健二著「マラソンの青春」という本を読んだ 筑摩少年文庫というシリーズに収録されている。時事通信社から出版されたものの抜粋であった。うちの奥さんが少年文化館というところのリサイクル本の山から見つけてきてくれた。本を精読した人の軌跡が感じ取れた。体験に根ざしたことばの経済があって、ストレートに心に入ってくる。
『日本大学アメリカンフットボール部50年史』に詩人の書いた文章があったのでそのまま転載させていただく。以下引用
その時、関学のQB鈴木智之の指を離れたボールは、私にとってあまりにも印象的な軌跡を残して、疾駆するRE(ライトエンド)西村一朗の頭上へと劇的な弧を描いた。その瞬間甲子園は得も言われぬ静寂に包まれた、たしかその時タイムアップのピストルが鳴ったように思った。あの30年(1955年)に私の日本大学アメリカンフットボール時代が始まったのだと思う。
此の衝撃的なシーンに遭遇したことが、その数時間前に高校日本一を決める為に、此の同じグランドで関東代表校聖学院の一員として梶主将の率いる関西学院高校と戦って51-0(※1)とコテンパンに敗かされたこと等は既に遠い過去の出来事の様に成って仕舞ったのである。高校卒業の後は芸大の彫刻に進み塑造を勉強することに決めていた此の頃の私にとっては大袈裟に言う様だが、実に重大な数秒間の光景だったと言える。
一瞬の後、そのほとんどが関学の応援である甲子園のスタンドは昂奮と歓声の坩堝と化していったのは、ごく自然な成り行きだった。その騒ぎの渦の中で私は頭の中が真っ白に成りながら、少し上を向いて顎を突き出して弾む様に一直線に駆け抜けて行く西村の後姿を呆然と見ていた。此の素晴らしい関西学院大学のチームを木端微塵に打ち砕くことが私の目標になったのは此の時だった。私が日本大学アメリカンフットボール部の門を叩いたのはしごく当然の行動だった。・・・(中略)・・・
篠竹コーチが監督に成られた春。(※2)
上級生が誰もいなくなった、しかも日大は関東リーグ四連覇、全日本二連覇中なのである。我々には敗戦という事は有ってはならない。勝利のみが唯一無二の使命なのだ、こんな辛いフットボールは初めてだった。横山主将を中心に他の四年生と悩み、模索した。その結果この不器用な我々に出来ることは、己のベストを尽くして足が摺りきれるまで走って走りまくることだという結論に至った。決して私的には仲の良い気の合った4年生が揃っていた訳では無いが、それからの一年間お互いに競い合い体をぶつけ合って同一の目標に向かって走り続けたと思う。
肝心の横山主将がリーグ戦に入ると早々に入院してしまった。然しもうその時には日大は奔流の様に一つの方向をめざして猛り狂う様に走り始めていた。
横山主将がギブスを付けたまま関学の梶主将にぶつかって行った、我々は関学を倒した。
翌日はうららかな良い気持ちの朝だった、甲翠荘(※3)の庭で目を閉じて顔を空に向け温かい初冬の陽光をいっぱいに浴びながら、色々なことを思い出して居た。ふと「あッ俺はもうパスディフェンスのことは考えなくて良いのだ。」と気付いた時に全ては終わったのだなと思った。そして、ついにあの31年度の関西学院大学のチームとは相対することは出来なかったのだと思った時、一抹の淋しさが残った。(※4)
「日本大学アメリカンフットボール部50年史」より第一期黄金時代、吉岡龍一氏の書かれたものより抜粋。文字使いなど原文のまま。
※1 吉岡さんの記憶違いで実際は57-0
※2 篠竹氏が監督になったのは1954年(昭和34年)
※3 甲子園球場の近くの旅館
※4 昭和31年度、関学、鈴木氏、西村氏は最終学年であった吉岡さんは昭和31年1年生のため対戦機会がなかったと思われる
保坂さん、吉岡さんが在学時代の関学‐日大の対戦成績
1956年(昭和31年)関学33-0日大
1957年(昭和32年)関学14-6日大
1958年(昭和33年)関学12-13日大
1959年(昭和34年)関学0-42日大
吉岡さんは2008年5月他界された。
0-57。1955年(昭和30年)11月23日の甲子園球場、関東代表聖学院高校が関学高等部に敗れたスコアーである。この日は先に記したように関西学院大学と日本大学が甲子園ボウルではじめて対戦した日である。第8回の東西高校タッチフットボール王座決定戦は大学の試合に先立ち、同じ甲子園で午前11時半にキックオフされた。保坂侑男は聖学院の選手だった。敗れたあと保坂は大学のゲームを観戦した。第4Q、残り40秒、ゴールまで82ヤード、20-26とリードされ追い詰められた関学は、QB鈴木が乾坤一擲(けんこんいってき)のロング・パスを投げエンドの西村が50ヤード付近でキャッチした。残り50ヤード、あごを上げた特徴のある走り方で西村は保坂の前を駆け抜けて行きタッチダウン、同点とした。保坂は鈴木や西村にあこがれ日大でフットボールを続けようと思った。そして57点差を逆転し、打倒関学を果たす決意をした。チームメイトの吉岡龍一をさそった。二人は日大でQB、RBとして日大の中心選手となり第一期黄金時代を築く。
保坂侑男さんとお会いした。日本大学の須山さんの次のクォーターバックである。須山さんはアンバランスTの最初のQBであり、保坂さんは後にショットガンとなるショート・パント・フォーメーションの最初のQBである。須山さんが紹介の労をとってくださった。飛田給の駅で待ち合わせた。おふたりの顔は似ていないがたたずまいに共通するものがある。繊細とイナセである。
日大、篠竹監督は詩作し、シャンソンやロシアの「百万本のバラ」を好んだ。「百万本のバラ」にはフェニックスの真紅がオーバーラップしている。QBにはシャンソンを歌うことを要求しリズムを重視したという。QBがHB(ハーフバック)にハンドオフ、あるいはそのフェイクをするとき一定の距離に渡ってステップをシンクロナイズさせる必要があった。ソシアル・ダンスの息の合ったパートナーに求められる足運びである。
須山さん、保坂さんとも「なぜ、QBに選ばれたのか分からない」と言われた。保坂さんは足が速かったので入部当初、HBだったがのちにQBにコンバートされた。お二人とも同じ木から彫リ出されたように見える。竹本監督、篠竹監督それぞれが二人に詩(うた)心を感じたのではあるまいか。
すぐれたスポーツマンは詩人のこころを持っている。ベースボールのイチローしかり、マラソンの君原健二しかり。最近、君原健二著「マラソンの青春」という本を読んだ 筑摩少年文庫というシリーズに収録されている。時事通信社から出版されたものの抜粋であった。うちの奥さんが少年文化館というところのリサイクル本の山から見つけてきてくれた。本を精読した人の軌跡が感じ取れた。体験に根ざしたことばの経済があって、ストレートに心に入ってくる。
『日本大学アメリカンフットボール部50年史』に詩人の書いた文章があったのでそのまま転載させていただく。以下引用
その時、関学のQB鈴木智之の指を離れたボールは、私にとってあまりにも印象的な軌跡を残して、疾駆するRE(ライトエンド)西村一朗の頭上へと劇的な弧を描いた。その瞬間甲子園は得も言われぬ静寂に包まれた、たしかその時タイムアップのピストルが鳴ったように思った。あの30年(1955年)に私の日本大学アメリカンフットボール時代が始まったのだと思う。
此の衝撃的なシーンに遭遇したことが、その数時間前に高校日本一を決める為に、此の同じグランドで関東代表校聖学院の一員として梶主将の率いる関西学院高校と戦って51-0(※1)とコテンパンに敗かされたこと等は既に遠い過去の出来事の様に成って仕舞ったのである。高校卒業の後は芸大の彫刻に進み塑造を勉強することに決めていた此の頃の私にとっては大袈裟に言う様だが、実に重大な数秒間の光景だったと言える。
一瞬の後、そのほとんどが関学の応援である甲子園のスタンドは昂奮と歓声の坩堝と化していったのは、ごく自然な成り行きだった。その騒ぎの渦の中で私は頭の中が真っ白に成りながら、少し上を向いて顎を突き出して弾む様に一直線に駆け抜けて行く西村の後姿を呆然と見ていた。此の素晴らしい関西学院大学のチームを木端微塵に打ち砕くことが私の目標になったのは此の時だった。私が日本大学アメリカンフットボール部の門を叩いたのはしごく当然の行動だった。・・・(中略)・・・
篠竹コーチが監督に成られた春。(※2)
上級生が誰もいなくなった、しかも日大は関東リーグ四連覇、全日本二連覇中なのである。我々には敗戦という事は有ってはならない。勝利のみが唯一無二の使命なのだ、こんな辛いフットボールは初めてだった。横山主将を中心に他の四年生と悩み、模索した。その結果この不器用な我々に出来ることは、己のベストを尽くして足が摺りきれるまで走って走りまくることだという結論に至った。決して私的には仲の良い気の合った4年生が揃っていた訳では無いが、それからの一年間お互いに競い合い体をぶつけ合って同一の目標に向かって走り続けたと思う。
肝心の横山主将がリーグ戦に入ると早々に入院してしまった。然しもうその時には日大は奔流の様に一つの方向をめざして猛り狂う様に走り始めていた。
横山主将がギブスを付けたまま関学の梶主将にぶつかって行った、我々は関学を倒した。
翌日はうららかな良い気持ちの朝だった、甲翠荘(※3)の庭で目を閉じて顔を空に向け温かい初冬の陽光をいっぱいに浴びながら、色々なことを思い出して居た。ふと「あッ俺はもうパスディフェンスのことは考えなくて良いのだ。」と気付いた時に全ては終わったのだなと思った。そして、ついにあの31年度の関西学院大学のチームとは相対することは出来なかったのだと思った時、一抹の淋しさが残った。(※4)
「日本大学アメリカンフットボール部50年史」より第一期黄金時代、吉岡龍一氏の書かれたものより抜粋。文字使いなど原文のまま。
※1 吉岡さんの記憶違いで実際は57-0
※2 篠竹氏が監督になったのは1954年(昭和34年)
※3 甲子園球場の近くの旅館
※4 昭和31年度、関学、鈴木氏、西村氏は最終学年であった吉岡さんは昭和31年1年生のため対戦機会がなかったと思われる
保坂さん、吉岡さんが在学時代の関学‐日大の対戦成績
1956年(昭和31年)関学33-0日大
1957年(昭和32年)関学14-6日大
1958年(昭和33年)関学12-13日大
1959年(昭和34年)関学0-42日大
吉岡さんは2008年5月他界された。
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