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川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」

#27 1930年(昭和5年)のフットボール ―父とフットボール―

投稿日時:2008/12/10(水) 09:28rss

 生前の父とフットボールの試合を観戦したのは1993年の関学・京大戦が最後になった。振り返って見るとそうであって当時それが最後になるだろうと思っていた訳ではない。1993年11月21日、時ならぬ土砂降りとなった。現在は地球温暖化といわれ、冬にもスコールのような雨が降るがその当時はかなり珍しかった。沛然たる豪雨のために今は取り壊されてなくなった西宮スタジアムの人工芝が冠水し流れができた。観客は大雨をさける鳥たちのように狭い銀傘の下に蝟集(いしゅう)した。後半になって雨が上がりかけたとき東の空に虹がかかった。父が最初に見つけ、試合を忘れて見とれていたことを鮮明に覚えている。

 父は旧制中学のとき授業でフットボールをしたと言っていた。生まれたのは1917年(大正6年)和歌山である。第二次世界大戦の終結する前年であり、ロシア革命が起こった年でもある。日本にはじめてフットボールを紹介する岡部平太がこの年の6月、嘉納治五郎の命によりアメリカ留学に旅立った。

 フットボールをしたというのは1930年(昭和5年)のことである。この年、旧制県立和歌山中学校(現在の桐蔭高校)に入学し、1935年(昭和10年)卒業した。旧制の和歌山中学は父の表現によれば「中等野球」すなわち現在の高校野球の強豪校で、昭和のはじめには甲子園の夏の大会で連覇を遂げるなどスポーツも盛んな文武両道の学校だった。当時の和歌山人は和歌山弁で、
「野球、見にいこらよ」
とさそいあって甲子園まで出かけたそうである。昭和のはじめラジオが開局した頃、電気店の前に野球のダイヤモンドを模したボードがしつらえられた。走者が出ると塁と塁の間に切られた溝に沿ってランナーに擬されたマークが棒によって進められ、スコアー・ボードと合わせて見るとゲームの進行が分かるようになっていたということである。この棒の操作をしていたのは父の母、つまり私の祖母である。和歌山市の繁華街でビクターの特約店をしていた。

 父がフットボールをしたことを話したのは1993年前後である。私がフットボールの歴史を書くきっかけとなったのは1995年の阪神大震災だったのでその頃はまだフットボールに対しての歴史意識がなく聞き流してしまった。今、思えばもっと詳しく聞いておくべきであった。父は京都帝国大学でサッカーをし、ラグビー観戦も好きだったのでフットボールと取り違えることはない。そのためフットボールの歴史研究を始めた1998年以来ずっとこのことを実証したいと思っていた。

 2006年、東京転勤中の冬のある休日、吉川太逸先生※にお借りした資料を読んでいたときだった。『第十回全国高校タッチフットボール大会記念号』に「タッチフットボールの思い出」とあり橋本順治という方が下記の文章を書かれていた。橋本氏の肩書きは滋賀県タッチフットボール連盟会長だった。
 「 」内は引用。文字使い、文章は原文のまま。( )内のふりがなを追加。
※吉川先生については#4参照

 「昭和五年頃和歌山の中学校へ体育教員をしていた頃のことですが、当時体育の時間は殆ど徒手体操と器械体操が主でありスポーツの時間は極く少く生徒達は体育の時間をあまり喜ばなかった。殊に服装も体操服でなく上衣をぬぐだけのことで充分なる運動も出来かねた。それと云うのも軍事教練が主であって体育なんてまるでアクセサリー位にしか考えられなかった時代だから止むを得なかった。而(しか)し何とか生徒の気合を高めるスポーツをやらせたいと考えてラグビーをやらせてみたが、グランドが堅く且(か)つスクラムが仲々組めないので何とかいゝ方法はないものかと思っていた時、たまたま映画でアメリカンフットボールを見てこのスクラムを見てこのスクラムをもちいラグビーをモデフィしてやらすと仲々面白く生徒も喜んで且つ危険も少ないようなので冬季スポーツとして体育時間に取り上げたこと思い出し現在のタッチフットボールによく似たものだったと今更(いまさら)なつかしみと親しみを感ずる次第であります」

 思わず座り直すような驚きだった。探していたものだ、と思った。電話番号案内で桐蔭高校の番号を確認し、掛けてみたがすでに個人情報保護法にガードされていて、いかなる情報も得ることができなかった。父の在籍期間の再確認と橋本順治氏の奉職時期を調べたいと思った。父との関係を証明するためには戸籍謄本などが必要だという。父のことは教えてもらえたとしても橋本氏のことは無理であることが分かった。

 東京と和歌山とは離れていて出向くには時間がかかるため、しばらくそのままにしておいたのだが、あるとき思いついて筑波大学に行ってみることにした。やはりまだ東京勤務していたときである。理由は筑波大学の前身である東京高等師範学校のラグビー部のメンバーが1927年(昭和2年)に『アメリカンフットボール』※という本を編纂し、同年6月、本社を越後長岡に置く目黒書店というところから出版していたからである。目黒書店には東京支店があった。この本と高等師範学校のことについては項を改め詳しく書く予定だが、今回必要なことがらは次のことである。
※この本は主として図書館などに現存するが、その数は10冊に満たない。古書店にも出ないため、2004年、古川明さんと復刻版を出版した。

 『アメリカンフットボール』序文より抜粋。
「一、 二ヶ月前東京に於いてかの米国イリノイ大学の名選手グレンージの活動写真が開封されたので高師のラグビー部員は痛切に刺激され主となって又、始める事に決定し・・・・・」
 
 このくだりを思い出し、直感的に橋本氏は東京高等師範学校の出身ではないかと思ったからである。

 はたしてそうであった。1929年(昭和4年)1月卒業、体育科甲組。甲組は体操を専科としていた。高等師範学校の1931年の記録では勤務先が和歌山中学校となっている。あとは和歌山中学校側での確認のみである。

 1927年、高等師範学校が前記の『アメリカンフットボール』を出版するきっかけとなった映画があった。それが1927年正月明けに封切られた「かの米国イリノイ大学の名選手グレンージの活動写真」だった。日本語タイトルが『誉(ほまれ)の一蹴』、原題“One minute to play”である。今秋、つい先ごろもグレンージ※をモデルとした少し気恥ずかしい題名『かけひきは、恋のはじまり』、原題“Leather Heads”という映画が公開されていた。
※Harold Edward “Red” Grange 1903~1991
イリノイ大学のスター・ハーフバック。特に1924年のシーズンに大活躍し、鳴り物入りでプロとなる。シカゴ・ベアーズ、ニューヨーク・ジャイアンツに在籍。出場したゲームでは6~8万人の当時としての大観衆を集めたという。“Red”は彼の頭髪の色に由来するニックネーム。大学、プロ両方で最初にフットボールの殿堂入りを果たした。フットボールの全期間に渡ってのベスト・チーム・メンバーにも選ばれている。ジム・ソープと並ぶ名プレーヤー。

 1927年『アメリカンフットボール』の出版に先立ってフットボールのゲームが行なわれた。4月30日、旧制成蹊高校グランドおいてである。成蹊高校は三菱財閥の岩崎小弥太が理事長をし、英国流のパブリック・スクールを範としていたので芝生のグランドがあった。高等師範学校であるためアメリカのテキストの通りに行った場合、実際にできるのかどうかのテストを行った。防具も用意された。このゲームに参加したラグビー部員の中に塩崎光蔵という人がいた。橋本順治は塩崎と甲組で同級生だった。塩崎はこの本の翻訳チームにも加わり、のちに筑波大学ラグビー監督※になった。
※厳密に言えば塩崎監督のときは筑波大学という名称ではないが、名称の履歴にそい旧名で表してもイメージがわかない方も多いかと思われるので分かりやすさのため本稿ではこうした。

 『アメリカンフットボール』の復刻を新聞記事にしていただいた。それをご覧になった伊與田康雄氏というかたから出版社を通じて連絡をいただいた。以前筑波大学のラグビー部監督をされていたということであった。連絡いただいた当時は大阪の大学に勤務しラグビー部の監督を引き受けられていたので、お訊ねし話をうかがった。塩崎光蔵氏は大先輩にあたり、塩崎氏は後継者である伊與田氏に自分たちは日本において最初期にアメリカンフットボールのゲームをしたメンバーであることを口伝されたそうである。「塩ジイは」と伊與田氏は切り出された。「私に、君はぼくの後継者だから伝えておきたい。ぼくらはね、岡部さんの後を引き継いで昭和のはじめにアメリカンフットボールをしたんだよ、と言っておられました」

 こうしたことがあったのち休暇で大阪に帰った。母にこの一連の話をしたところ、心あたりがあるのでちょっとまちなさい、と言った。母は父の遺品である本の類をすべて残していた。旧制和歌山中学校卒業生名簿。母が取り出してきたのはそれだった。旧職員の名簿も記載されていた。

 橋本順治、昭和4年11月赴任、昭和6年8月まで在籍。

 母よ、でかした! 息子孝行な人である。こうして欠けていたジグソーパズルの最後のピースが埋まった。
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