川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」
#40 第60回長浜ひょうたんボウル
「ひょうたんボウルの日は晴れますのや」と吉川太逸先生(※)はいつもおっしゃる。今年も晴天だった。長浜ボウルは半世紀以上の歴史を重ね甲子園ボウル、ライス・ボウルに次ぎ、3番目の歴史をもっている。最初は長浜市内の中学校の対戦だった。会場も長浜西中学校や高校のグランドの時代もあった。1992年に長浜ドームが完成し、その後はドームが会場となったので晴雨は気にしなくて良いようになったが依然としていつも天気が良い。こうして環境も整ったこともあり、吉川先生ほか関係者の努力で大学の強豪校が対戦するようになった。
2010年は日本アメリカンフットボール協会の75周年だったのでフットボールへの功労者に対する第3回目の殿堂表彰が行なわれた。吉川先生も選ばれた。今回の殿堂入りでもすでに故人となっている方々も含まれているが、めでたく先生はご自分で式に出席された。1920年(大正9年)のお生まれなので今年で90才である。80才代半ばまで自分で車の運転をされていたが、あるとき、田んぼにつっこみ車が横転してからはご家族の方の意見もあり。もっぱら自転車で移動されている。フットボールの第一線からはすでに引かれているが瓢箪で長浜の町おこしをする愛瓢会では現役の会長さんである。今度九州で開催され皇族にも臨席いただく大きな瓢箪の会にも出席するというお話でその行動力は少しも衰えない。先生のことについてはまた稿を改めて書く予定である。
※ #4 長浜 滋賀県のフットボール を参照
昨年から会場周辺では両チームのグッズを売るテントの他にフリー・マーケットも参加していて大変ににぎやかで本場アメリカでのゲームの小型版のようになってきた。
大学のゲームは立命館大学と日本大学の対戦が昨年に続いて組まれた。日大が昭和20年代前半まだの最下位を低迷していた頃、当時の監督だった竹本君三は1952年から4年計画でチーム強化を図った。その頃は9月にリーグ戦がなかったので実戦を経験するため関西遠征を行なった(※)。関東の大学チームは秋のリーグ戦で対戦するのでゲームを組めなかった。したがって関西遠征になった。相手はまだチーム創部間もない立命館大学、創部8年目の京都大学、そして関西学院大学だった。宿泊費を節約するため2日間で3ゲームをこなした。結果として日大は当時甲子園ボウル2連覇中の関学にそのフィットネスを驚かれるような運動量のあるチームとなった。日大は1955年、4年計画の最終年に甲子園ボウルにおいて関学と、26対26で同点優勝を遂げる。その後、日大と立命の交流戦はとだえていたが昨年半世紀以上を経て復活した。昭和20年代後半は両チームともまだ弱小と言える状況だったが、現在ではご承知のように両チームとも甲子園で何度も優勝する強豪校となった。今回はシーソー・ゲームになり僅差で立命が長浜ボウル二連覇を果たしたが秋になれば日大はパス・ゲームの精度を上げて甲子園を射程圏内に入れてくるだろう。
※ #21~26 日本大学のフットボール参照
2010年は日本アメリカンフットボール協会の75周年だったのでフットボールへの功労者に対する第3回目の殿堂表彰が行なわれた。吉川先生も選ばれた。今回の殿堂入りでもすでに故人となっている方々も含まれているが、めでたく先生はご自分で式に出席された。1920年(大正9年)のお生まれなので今年で90才である。80才代半ばまで自分で車の運転をされていたが、あるとき、田んぼにつっこみ車が横転してからはご家族の方の意見もあり。もっぱら自転車で移動されている。フットボールの第一線からはすでに引かれているが瓢箪で長浜の町おこしをする愛瓢会では現役の会長さんである。今度九州で開催され皇族にも臨席いただく大きな瓢箪の会にも出席するというお話でその行動力は少しも衰えない。先生のことについてはまた稿を改めて書く予定である。
※ #4 長浜 滋賀県のフットボール を参照
昨年から会場周辺では両チームのグッズを売るテントの他にフリー・マーケットも参加していて大変ににぎやかで本場アメリカでのゲームの小型版のようになってきた。
大学のゲームは立命館大学と日本大学の対戦が昨年に続いて組まれた。日大が昭和20年代前半まだの最下位を低迷していた頃、当時の監督だった竹本君三は1952年から4年計画でチーム強化を図った。その頃は9月にリーグ戦がなかったので実戦を経験するため関西遠征を行なった(※)。関東の大学チームは秋のリーグ戦で対戦するのでゲームを組めなかった。したがって関西遠征になった。相手はまだチーム創部間もない立命館大学、創部8年目の京都大学、そして関西学院大学だった。宿泊費を節約するため2日間で3ゲームをこなした。結果として日大は当時甲子園ボウル2連覇中の関学にそのフィットネスを驚かれるような運動量のあるチームとなった。日大は1955年、4年計画の最終年に甲子園ボウルにおいて関学と、26対26で同点優勝を遂げる。その後、日大と立命の交流戦はとだえていたが昨年半世紀以上を経て復活した。昭和20年代後半は両チームともまだ弱小と言える状況だったが、現在ではご承知のように両チームとも甲子園で何度も優勝する強豪校となった。今回はシーソー・ゲームになり僅差で立命が長浜ボウル二連覇を果たしたが秋になれば日大はパス・ゲームの精度を上げて甲子園を射程圏内に入れてくるだろう。
※ #21~26 日本大学のフットボール参照
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