石井晃のKGファイターズコラム「スタンドから」
(9)けが人先生
最近、ファイターズの練習を見ていると、すごく興味深いことがある。ポジションごとにけがをして回復途上にある4年生が実質的なコーチを務め、下級生を丁寧に指導していることである。
オフェンスではWRの松井君や小田君、RBの富永君。ディフェンスではDLの三笠君や齋藤君、DBの横澤君。QBの光藤君やRBの山口君も短い間だったが、けがからの回復期には、ずっと下級生に付き添い、現場の選手ならではのアドバイスを具体的な足の運びや腕の振り方を例示しながら教えていた。
上級生が下級生を指導するのは当たり前、と思われるかも知れない。実際、僕もずっとそう思っていた。だから、日々グラウンドで繰り広げられるそういう光景をみても、当然のことと、特段、気にも留めなかった。
けれども、今年の4年生はひと味違う。一言で言えば「教え方の本気度」が違うのである。まるでコーチのように、足の運び方から腕の使い方、相手の間合いの取り方をチェックし、自ら見本を見せて教えている。もちろん、けがをしているから体は思い通りにいかないが、なぜそのような動きが必要なのか、そのような動きをすることでどういう効果があるのか、そういうことを具体的な動作を繰り返しながら懇切丁寧に教える。それができたときには、即座に「そうそう」「ええやん」と声を掛けて励ます。
言葉や身振りで教えるだけではない。けがから復帰した選手たちは、今度は自らが先頭に立って模範的なプレーを見せる。例えばWRなら小田君や長谷川君が下級生に教えていた通りのコースを走り、教えていた通りのテクニックで守備の選手を振り切ってパスを捕る。そのプレーをひけらかすのではなく「これが見本だよ」とでもいうように下級生にお手本を示す。
それを見ている下級生は、自分たちが絶対に捕れないようなパスを先輩たちはどうしてこともなげに捕球できるのだろうかと感嘆し、首をかしげる。同時に「あれができてこそ試合に出してもらえる。その水準に自分を高めなければ」と新たな練習に励む。そういう循環が攻守を問わず、今シーズンはグラウンドのあちこちで繰り広げられているのである。
「学ぶは真似ぶ」という言葉がある。幼い子はお兄ちゃんやお姉ちゃん、両親や身の回りの子どもたちの仕草を真似ることから言葉を身に付け、走ったり遊んだりできるようになる。幼児が大学生になり、教育とか指導とか、難しい言葉を使うようになっても、「学ぶ」の本質は「真似ぶ」にある。人は良きお手本を真似し、それを自分のものにしていくことによって成長する。
昨日まで手の届かなかったボールに手が届く、手が届いても捕れなかったボールが今日は捕れた。そういう確かな手応えを得るたびに人は成長する。その手応えが「明日も頑張ろう」という元気の源になる。こういう循環がいま、4年生の「けが人先生」たちの献身的な指導を通じて、下級生に浸透しつつあるのだ。
こうした指導は毎年、このチームの4年生が繰り返してきたことだが、今年は例年以上に「けが人先生」に存在感がある。よくいえば、中心になって指導している松井君らの教え方が特別にうまいからかもしれない。逆に言えば、レギュラークラスと控え選手との間に大きな落差があるということかもしれない。昨年1年間、体作りに専念してきた2年生や今年入部したばかりの有望な選手が先輩の指導は何でも学ぼう、身に付けてやろうという強い意欲を持っているからかもしれない。
明確にいえるのは、こうした上級生と下級生の関係がこのチームを支えているということだ。ファイターズには有能な専任コーチもいるし、大学職員の任務を全うしながら部員を指導してくれるコーチもいる。組織運営を担ってくれる職員にも恵まれている。それでも、肝心の選手間の風通しが悪くては、思うようなチーム作りにはつながらない。それだけ「けが人先生」の果たす役割が大きいということだ。
世間では、体育会的という言葉が、上級生が下級生を奴隷のように扱い、時には暴力的な指導に走る集団という意味で使われることが少なくない。僕は以前、日本高校野球連盟の理事をしていたが、連盟に報告されてくる高校野球界の暴力事件、とりわけ指導者による暴力件数の多さには驚かされた。全国に根を張る巨大組織だから報告件数も多くなるというだけではなく、根底に暴力的な指導に寛容な土壌があるとしか思えない状況だった。
いま、世間の目はスポーツ界における暴力的な指導に厳しくなっている。だからこそ、いま上ヶ原のグラウンドでファイターズの「けが人先生」たちが繰り広げている指導の在り方が輝いて見える。夏を越え、秋になってその成果が実を結ぶことを大いに期待している。
オフェンスではWRの松井君や小田君、RBの富永君。ディフェンスではDLの三笠君や齋藤君、DBの横澤君。QBの光藤君やRBの山口君も短い間だったが、けがからの回復期には、ずっと下級生に付き添い、現場の選手ならではのアドバイスを具体的な足の運びや腕の振り方を例示しながら教えていた。
上級生が下級生を指導するのは当たり前、と思われるかも知れない。実際、僕もずっとそう思っていた。だから、日々グラウンドで繰り広げられるそういう光景をみても、当然のことと、特段、気にも留めなかった。
けれども、今年の4年生はひと味違う。一言で言えば「教え方の本気度」が違うのである。まるでコーチのように、足の運び方から腕の使い方、相手の間合いの取り方をチェックし、自ら見本を見せて教えている。もちろん、けがをしているから体は思い通りにいかないが、なぜそのような動きが必要なのか、そのような動きをすることでどういう効果があるのか、そういうことを具体的な動作を繰り返しながら懇切丁寧に教える。それができたときには、即座に「そうそう」「ええやん」と声を掛けて励ます。
言葉や身振りで教えるだけではない。けがから復帰した選手たちは、今度は自らが先頭に立って模範的なプレーを見せる。例えばWRなら小田君や長谷川君が下級生に教えていた通りのコースを走り、教えていた通りのテクニックで守備の選手を振り切ってパスを捕る。そのプレーをひけらかすのではなく「これが見本だよ」とでもいうように下級生にお手本を示す。
それを見ている下級生は、自分たちが絶対に捕れないようなパスを先輩たちはどうしてこともなげに捕球できるのだろうかと感嘆し、首をかしげる。同時に「あれができてこそ試合に出してもらえる。その水準に自分を高めなければ」と新たな練習に励む。そういう循環が攻守を問わず、今シーズンはグラウンドのあちこちで繰り広げられているのである。
「学ぶは真似ぶ」という言葉がある。幼い子はお兄ちゃんやお姉ちゃん、両親や身の回りの子どもたちの仕草を真似ることから言葉を身に付け、走ったり遊んだりできるようになる。幼児が大学生になり、教育とか指導とか、難しい言葉を使うようになっても、「学ぶ」の本質は「真似ぶ」にある。人は良きお手本を真似し、それを自分のものにしていくことによって成長する。
昨日まで手の届かなかったボールに手が届く、手が届いても捕れなかったボールが今日は捕れた。そういう確かな手応えを得るたびに人は成長する。その手応えが「明日も頑張ろう」という元気の源になる。こういう循環がいま、4年生の「けが人先生」たちの献身的な指導を通じて、下級生に浸透しつつあるのだ。
こうした指導は毎年、このチームの4年生が繰り返してきたことだが、今年は例年以上に「けが人先生」に存在感がある。よくいえば、中心になって指導している松井君らの教え方が特別にうまいからかもしれない。逆に言えば、レギュラークラスと控え選手との間に大きな落差があるということかもしれない。昨年1年間、体作りに専念してきた2年生や今年入部したばかりの有望な選手が先輩の指導は何でも学ぼう、身に付けてやろうという強い意欲を持っているからかもしれない。
明確にいえるのは、こうした上級生と下級生の関係がこのチームを支えているということだ。ファイターズには有能な専任コーチもいるし、大学職員の任務を全うしながら部員を指導してくれるコーチもいる。組織運営を担ってくれる職員にも恵まれている。それでも、肝心の選手間の風通しが悪くては、思うようなチーム作りにはつながらない。それだけ「けが人先生」の果たす役割が大きいということだ。
世間では、体育会的という言葉が、上級生が下級生を奴隷のように扱い、時には暴力的な指導に走る集団という意味で使われることが少なくない。僕は以前、日本高校野球連盟の理事をしていたが、連盟に報告されてくる高校野球界の暴力事件、とりわけ指導者による暴力件数の多さには驚かされた。全国に根を張る巨大組織だから報告件数も多くなるというだけではなく、根底に暴力的な指導に寛容な土壌があるとしか思えない状況だった。
いま、世間の目はスポーツ界における暴力的な指導に厳しくなっている。だからこそ、いま上ヶ原のグラウンドでファイターズの「けが人先生」たちが繰り広げている指導の在り方が輝いて見える。夏を越え、秋になってその成果が実を結ぶことを大いに期待している。
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